COVID-19

100年前「スペイン風邪」と戦った人たち 【コロナ以前最大のパンデミック】

史上最悪のパンデミック

今から約100年前、第1次世界大戦終結に沸く中、世界中で未知の感染症「スペインインフルエンザ」が猛威をふるっていた。
全世界で5億人が感染し、5,000万人もの命を奪ったとされる史上最悪のパンデミックである。
日本では「スペイン風邪」と呼ばれ、国民のおよそ半数が感染し40万人近くが亡くなったとされている。

この史上最悪の感染症に日本人はどう戦い、どう生き抜いたのか。当時の医学界を率いた学者たちは未知の病原体からワクチンを作り出そうとしのぎを削った。
ワクチンを求める国民や政府の声は日増しに高まり、当時の医学界を率いた学者たちを激しい開発競争に駆り立てた。

100年前のパンデミック「スペイン風邪」と戦った男たちについて迫ってみた。

スペイン風邪とは

100年前「スペイン風邪」と戦った人たち

病棟で治療を受けるスペインかぜに罹患した兵士が収容されているフォート・ ライリーの米陸軍ファンストン基地

第1次世界大戦末期の1918年(大正7年)春、ヨーロッパ戦線に集結した各国の軍隊の間で謎の感染症が流行していた。
発端はアメリカの軍事基地で死亡した48人の肺炎患者と言われ、感染はたった4か月で世界中に広まった。

戦時下にあった各国は感染状況を隠蔽したため、中立国であったスペインの発表だけが知れ渡り、いつしか「スペインインフルエンザ」と呼ばれるようになった。
第1次世界大戦による人々の移動がパンデミックを引き起こしたとされ、その当時でも冬になるとインフルエンザは都市部では流行していたが、世界各国の田舎などでは人生で一度もインフルエンザにかかったことがない人も多かった。

しかし戦争で各地から集められた兵士が一同に介して兵舎など三密状態の中で暮らしたために、免疫がなかった人たちに一気にインフルエンザが広まってしまったのだ。
さらに戦争が終結し、兵士たちがそれぞれの母国や郷土に帰ってしまったために一気に感染は拡大したのである。
各国が隠蔽していたため、当然のように水際作戦なども取られずに市中感染となって世界規模に感染拡大していった。

日本での感染

日本には大正7年(1918年)9月に上陸し「スペイン風邪」と呼ばれるようになった。
病原体は神戸・門司・大阪などの港から貨物や乗客と共に入り、その後鉄道に乗って地方都市へと広まっていった。

第1次世界大戦による軍需景気の真っ只中にあった日本は、農村から来た労働者たちが炭坑や製糸工場などの過密空間で働くことでクラスターが次から次へと発生したのである。
都市部の病院には患者たちが殺到したため、医師や看護婦にも感染し医療崩壊を引き起こした。

一方、農村部などの田舎では医師が少なく、現在のように国民皆保険という制度が無かったために高い治療費を払える人が少なかった。
そのために田舎では医師は生活が成り立たず、地方医療はほとんど成り立ってはいなかった。

そんな時代に「スペイン風邪」が日本に上陸したのである。

100年前「スペイン風邪」と戦った人たち

マスクを着用する日本の女性たち(1919年、東京)

ある地方医師の手記

ある地方医師が手記に当時の様子を克明に書き残している。

地元の農林学校の生徒が東京への遠足から帰ると続々と38~39℃の高熱を出し、頭痛やのどの痛みを訴えて生徒が病院を訪れたという。
患者たちの顔は皆一種独特の赤黒い顔をしていて、たった2日後には患者たちの家族や駅員までもが感染し、駅の利用者や生徒の家族から村全体へと瞬く間に感染が広まったという。
医師は村々を往診して廻ったが、間に合わずに遺体と対面することも少なくはなかった。
農村部は医師が少なく、お金がないからなかなか医者に行かない、いや行けない。
だから家族が面倒を見る、そこから家族に感染し親戚にまで感染していくという状態になってしまった。

またある医師は、当時流行っていた「ジフテリア」と「スペイン風邪」の症状が似ていると気づいたが、医師の家に働いていた15歳の少女が感染した時に一か八か「ジフテリア」の血清療法を試そうとしたが、決断できずにいると少女が亡くなってしまった。
その4日後にその医師の妹も「スペイン風邪」になってしまい、その医師は妹を救いたい一心で「ジフテリア」血清の注射をした。
すると妹は徐々に回復し脈拍や体温も良くなったという。

この医師は妹の命が助かった療法を書き留めて、自分自身にも血清を注射して効果を確かめ、全国の医師たちに役立ててもらいたいと手記を残したという。
この医師は村人たち99人に血清注射を行って命を助けたが、血清の額が高額でお金の代わりに米や野菜などを貰っていたという当時の生々しい記録を残している。

大正8年(1918年)の夏、当時の日本の人口5,500万人に対して約半数に近い2,116万人以上が感染し、25万人以上の命を奪った「スペイン風邪」の第1波はとりあえず終息し,束の間の平和が訪れたという。

ワクチン競争

日本では未知の感染症「スペイン風邪」のワクチン開発に、日本政府と全国民からの期待が当時の最先端の医学者たちに求められていた。

その一つが日本の細菌学の父と呼ばれる北里柴三郎(きたざとしばざぶろう)率いる私立の「北里研究所」。
もう一つが長与又郎(ながよまたお)が率いる「国立伝染病研究所」であった。

100年前「スペイン風邪」と戦った人たち

北里柴三郎

特に北里柴三郎は破傷風菌抗毒素を発見し世界の医学界を驚愕させ、「血清療法」という画期的な手法を開発し、ペスト菌も発見した世界が認める細菌学の世界的権威であった。
元々柴里は「国立伝染病研究所」の所長をしていたが、軋轢によって研究所を去り、私財を投じて私立の「北里研究所」を設立していた。

大正8年(1919年)秋、「スペイン風邪」の第2波が日本に到来、死亡率はなんと第1波の5倍にも達していた。
日本医学界を代表する二つの権威「北里研究所」と「国立伝染病研究所」はワクチン開発にしのぎを削ったのである。

いち早く動いたのは細菌の研究で世界にその名を轟かせていた「北里研究所」だった。「スペイン風邪」の病原体は「インフルエンザ菌」という細菌だと断定し、これを用いたワクチンの開発に乗り出そうとしていた。

100年前「スペイン風邪」と戦った人たち

長與又郎

一方、東京帝国大学医学部教授の長与又郎が所長を務める「国立伝染研究所」は北里の主張を真っ向から否定、長与たちはインフルエンザ菌以外の未知の病原体が作用しているのではないかと考えた。
しかしその病原体を証明するすべがなく、病原体は不明という立場をとっていた。

対する北里柴三郎は、ペスト菌や赤痢菌など細菌の発見によって医学を進歩させてきたという自負があり、その使命感から大正8年(1919年)11月にはインフルエンザ菌を用いたワクチン製造に踏み切った。

「北里研究所」のワクチンが世間に熱狂的に受け入れられる中、国の威信がかかる長与たちの「国立伝染病研究所」も苦渋の決断を下した。
北里たちから遅れること1か月、病原体は依然として不明としながらも、北里たちが主張したインフルエンザ菌ワクチンに肺炎の予防ワクチンを加えた「混合ワクチン」の製造を開始したのであった。

二つの研究所が成分の異なるワクチンを製造したことは大きな話題となり、国会へまで波及し、専門知識のない政治家たちもワクチンに口をはさみ始めた。

北里研究所では病原体を確定してワクチン製造を行っているが、政府の伝染病研究所では病原体は不明としながら混合ワクチンを出した。一体政府はどちらの予防ワクチンを認めるのか?」と世論に押された政治家たちは、医学者への要求を日に日に高めていった。
※二つの研究所のワクチンは細菌をもとに製造されたもので、現代医学ではインフルエンザの予防効果は疑わしいとされている。

100年前「スペイン風邪」と戦った人たち

患者の遺体から見つかったゲノムより復元されたスペイン風邪ウイルス

実はインフルエンザの病原体が細菌よりもさらに100分の1ほど小さいウイルスであると判明するのは、この年から14年後のことであった。
当時の光学顕微鏡では、ウイルスの姿を見るのは不可能だったのである。

しかし当時の人々はワクチンに大きな期待を寄せた。民間の製薬会社も開発に乗り出し、全国およそ20か所でワクチンが量産された。
当時からワクチンの効果を疑問視する声も上がっていたが、最終的には500万人以上の人々がワクチンの接種を受けたとされている。

第2波は全国で241万人以上が感染し、12万7,000人以上が死亡した。
第3波は全国で22万4,000人以上が感染し、3,698人が死亡した。

大正10年(1921年)7月、第3波まで及んだ「スペイン風邪」は、日本の総人口の約43%にあたる2,380万人以上が感染し、死者数は約39万人という日本史上最悪のパンデミックとなり終息したのである。

日本政府の対応と影響

「スペイン風邪」が日本を襲った当時は政治の民主化を求める国民の声が高まっており、全国で労働運動や普通選挙運動が盛り上がりを見せていた。

平民宰相と呼ばれた原敬が率いる当時の政府は「スペイン風邪」の対応において国民への強制的な介入は避け、各自の予防自覚を促すことを優先した。
明治時代の「コレラ」や「チフス」の時のように、警察が強引に感染者の隔離や商店などの閉鎖を行えば国民からの激しい反発は避けられず、衛生行政の転換を迫られていた。

感染予防を求める1919年の内務省のポスター

政府は全国に予防ポスターを貼り巡らせ、帰宅後のうがいや手洗い、マスクの着用といった衛生習慣は「スペイン風邪」をきっかけに日本に定着したという。

また、全国の自治体は独自の感染対策を行っていた。例えば埼玉県では飛行機で感染対策のビラをまき、北海道では女学生たちにマスク作りの協力を要請し、できあがったマスクを劇場や寄席で無料配布していた。

東京ではワクチンの接種が受けられない低所得者のために、夜間無料注射場を開設し格差の是正に取り組んでいた。

おわりに

「スペイン風邪」に立ち向かった二つの医学界の大きな権威「柴里研究所」と「国立伝染病研究所」のワクチンは現代医学からすると間違ったものであった。
しかし衛生行政に関しては国や警察による一方的な介入ではなく、地域が率先して感染対策に取り組む動きが全国に広がり、これが昭和時代の保健所の誕生につながっていく。

全国各地に設置された保健所は、地域の住民を守る公衆衛生の最前線となった。
新型コロナウイルスのワクチンが効果を発揮し、世界からこのパンデミックが終息することを本当に期待したい。

 

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