2019年2月21日、オーストラリア・シドニーの地方裁判所において、ジェニ・ヘインズさん(当時49歳)は、幼少期から7年間にわたって父親リチャード・ヘインズから虐待を受けたとして、彼を訴えるための裁判を起こした。
この裁判は、彼女の中に存在する2500人以上の人格のうち6人が「証人」として法廷に立ち、証言を行うという前例のない事態となった。
そして半年後の9月6日、当時74歳だったリチャードは、禁錮45年の実刑判決を受けた。
ジェニは「解離性同一性障害」と診断され、裁判で別人格による証言を通じて有罪判決を勝ち取った、世界で初めての人物となった。
彼女はこのように語っている。
「人格が一つしかないのが普通だとは知らなかった。
頭の中にたくさんの声が聞こえるのが異常だとは知らなかった。」
複数の人格を作り出したジェニの「解離性同一性障害」は、父親による虐待から自分を守るために自然発生したものであることが、公的に認められたのである。
判決時、ジェニは視力、あご、大腸、肛門、尾てい骨に不治の障害を抱えており、何度も手術を繰り返していた。
41歳の時には人工肛門形成手術も受けている。
オーストラリア警察は、国史上最悪の児童虐待事件の一つと発表している。
父に脅迫、洗脳された幼少期
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1970年にイギリス・ロンドンで生まれたジェニは、4歳頃から11歳まで、父親リチャードから性的虐待を含む激しい暴行を受け続けた。
ヘインズ一家は1974年、ロンドンからシドニーに引っ越したが、リチャードの虐待はより過激で執拗になり、毎日のように行われていたという。
リチャードはアルコール依存症で、ジェニの母親リサに対しても暴力を振るっていた。
リチャードは、ジェニに対して母親や兄弟に助けを求めるような言動を一切禁じ、さらには「家族に助けを求めることを『考える』ことも許さない」と脅迫し、彼女の思考や感情に至るまでを支配していた。
このような脅迫と洗脳により、ジェニは完全にリチャードの支配下に置かれていたのである。
ジェニは、後にBBCの取材に対し、当時の自分をこのように振り返っている。
「私の内面は父に蝕まれていた。自分の思考ですら安全だと感じられなかった。
自分に何が起きているのか、どう対処すればよいのかを、考えることさえできなくなっていた。」
その結果、ジェニは2500以上の別人格を生み出す「解離性同一性障害」を発症するに至った。
これらの人格は、それぞれが異なる役割を果たしながら、ジェニを苦痛や恐怖から守るための防衛機能として生まれたのである。
2500人の人格形成とそれぞれの役割
「解離性同一性障害」は、かつては「多重人格障害」と呼ばれた、強いストレスやトラウマに対する防衛反応として発症する精神疾患である。
患者は複数の異なる人格を持つだけでなく、記憶喪失や自己喪失などの感覚などを伴う。
ジェニの場合、2500の人格それぞれが、異なる名前、年齢、性格、記憶を持ち、それぞれの役割を果たしていた。
父親の脅威からジェニを守るために生まれた主要な人格は、以下の8人であったという。
『シンフォニー』
ジェニが最初に形成した人格であり、純真無垢な性格の4歳の少女。
シンフォニーはジェニがもっとも苦しい時、つまり虐待の最中にしばしば出現して彼女と入れ替わり、ジェニを苦痛から守る役割を果たしていた。『リッキー』
勇敢な8歳の少年で、防衛的な人格の一つ。
ジェニが困難に直面した時、攻撃から守るための盾として機能していた。『マッスルズ』
17歳の青年で、肉体的にも精神的にも強く、ジェニが虐待を受ける際にリチャードに対抗するために出現した。『リンダ』
知的で冷静な成人女性で、ジェニの外界との接触を担当する人格。
ジェニが正常な日常生活を送るための重要な存在であり、学校や社会との関わりを持つ際に登場してジェニの人生を支えていた。『ヴォルケーノ』
気性が激しい成人男性の人格。
ジェニの怒りとフラストレーションを表現するために存在し、抑えきれない感情を代弁する役割を果たしていた。
ジェニが内に秘めた怒りを安全に解放していた。『ジューダス』
8歳のリッキーよりも年上の少年で、しっかり者の人格。
ジェニの心の中でリーダーシップを発揮し、他の人格たちを導く役割を果たしていた。
ジェニが困難な状況に直面した際に冷静に判断し、最善の行動を取るサポートをしていた。『エリック』
知的で組織的な性格を持つ、成人男性の人格。
ジェニの人格たちのまとめ役を担当し、日常生活を管理していた。
エリックは、他の人格たちとの調和を図るための重要な存在となっていた。『パウチ』
ジェニが大人になってから、人工肛門(ストーマ)を使用することになった際に形成された人格。
人工肛門を使用する度に、過去の苦痛がフラッシュバックする場面で登場し、精神的な支えとして機能している。
この8人を含む2500人の人格たちは、全員が異なる役割を担い、彼女の心の安定を保つために共存していたという。
法学と哲学の博士号を取得後、父親の虐待を告発
1981年、ジェニが11歳の時、両親が離婚し、彼女はようやくリチャードによる虐待から解放された。
しかし、長年にわたる虐待の影響は深刻で、彼女の精神と身体にはさまざまな傷跡が残っていた。
ジェニは心理療法を受け、成人になってからは18年間大学に通って勉学に励み、法学と哲学の博士号を取得した。
そして2009年、39歳になったジェニは、2500人のうち6人の人格を活かして父親の虐待を警察に告発、裁判で起訴する決意を固める。
母リサは、娘が受けていた虐待をこの時初めて知り、強い衝撃と罪悪感に襲われた。
リサは今後、ジェニを支えるために全力を尽くし、彼女の回復を見守ることを誓った。
担当刑事ポール・スタムーリスは、ジェニの多重人格が裁判に与える影響を慎重に考慮しつつ、準備を進めた。
こうして、ポールの支援を受けたジェニは物的証拠を集め、2017年、イギリスにいた父リチャードはオーストラリア当局に引き渡され、逮捕された。
そして2019年、ジェニはリチャードを起訴することに成功。
しかも、彼女の中の6人の別人格たちにも、法廷で証言する権限が与えられたのである。
異例の法廷「6人の別人格たちの証言」により勝訴
裁判は、原告のジェニ(6人の別人格を含む)、検察、被告のリチャードとその弁護士、裁判官の限られた人数で行われた。
陪審員と傍聴席は、事件の内容が一般の人々にとって過激すぎると判断され、排除された。
ジェニの6人の別人格が証言台に立つことが可能になったのは、専門家たちの協力があったからである。
ジェニを担当した精神科医や心理学者は、彼女の別人格がどのように形成され、どのように機能しているかを法廷で詳細に説明した。
これを受けて、裁判官は「ジェニの別人格たちの証言は、信頼に足るものである」と判断したのだ。
6人の別人格による証言内容は、以下の通りであった。
『シンフォニー』4歳少女
ジェニが幼少期に父親から受けた虐待の生々しい詳細を証言し、その恐怖と痛みがどれほど深刻であったかを説明した。『リッキー』8歳少年
虐待に対し、自分がどのように立ち向かったかを証言。
リッキーは、自身がどれほどの勇気を持ってジェニを守ろうとしたか、その過程で受けた身体的な痛みについて詳述した。『マッスルズ』17歳青年
虐待に対してどのように対抗したかを、より具体的に述べた。『リンダ』成人女性
ジェニが、どのようにして日常生活を維持していたかを証言した。
リンダは、学校や社会との関わりを持つ際、自身がどのように対応していたか、どれほどの知識と冷静さを伴う精神的努力が必要であったかを述べた。『ヴォルケーノ』成人男性
虐待に対する激しい怒りとその影響を証言。
ジェニが内に秘めた怒りとその正当性を示し、虐待によるフラストレーションがどれほど深刻であったかを述べた。『ジューダス』10歳前後の少年
他の人格たちと連携し、虐待に立ち向かうための計画を立てる際に、リーダーシップを発揮していたことを証言した。
知的でまとめ役の成人男性の人格『エリック』は、証言台には立たなかったものの、裏方で重要な役割を果たした。
また、母リサも証言台に立った。
リサの証言は裁判において重要視され、リチャードの有罪判決に大きく貢献した。
その後、リチャードは367件の罪で起訴され、禁錮45年の実刑判決を受けた。
現在79歳のリチャードは健康を害しており、仮釈放を申請できるまで少なくとも33年間刑務所に収監されるため、おそらく彼が自由を取り戻すことはないだろう。
現在のジェニ・ヘインズ
ジェニは20代と30代のほとんどを勉強に費やし、法学と哲学の博士号を取得したが、フルタイムの仕事と両立するのは不可能であった。
現在、彼女は母リサと暮らしているが、生活保護と年金に頼って生計を立てている。
2022年には、自伝『The Girl in the Green Dress』を執筆したが、これは『エリック』の助けを借りながら行ったという。
彼女はこの自伝を通じて講演やカウンセリング、啓蒙活動も行っている。
2500人の人格を持つジェニ・ヘインズの物語は、虐待を受けた人々、そして「解離性同一性障害」を持つ人々とその家族にとって希望の光となっている。
参考 :
『The Girl in the Green Dress』 Dr. Jennifer Haynes 著 Dr. George Blair-West 著
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