「良い時も悪い時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、死が2人を分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います。」
上記の文言は、キリスト教式の結婚式において用いられる誓いの言葉の一節だが、パートナーが亡き後も、愛情を抱き続ける人は珍しくない。
ドイツ人レントゲン技師のカール・テンツラーもまた、愛する女性の面影を追い続けた人物だった。
しかし、パートナーを死後も愛し続けただけであれば、それはただの美談にしかならず、一介の技師に過ぎない彼が後世にまでその名を残すことはなかっただろう。
驚くことに、カールは愛する女性の遺体に素人知識で防腐処置を施した上で、自宅で約7年間も「同居」した。
しかもその挙句、これまた付け焼刃の知識で「蘇生行為」まで試みていたのだ。
カールの愛ゆえの奇行は、「墓荒らし及び、遺体窃盗事件」として扱われた。
今回は、純愛を貫いたのかと思いきや、そのおぞましい奇行で世間の度肝を抜いた男、カール・テンツラーの生涯に触れていこう。
カールが運命の女性「エレナ」と出会うまで
カール・テンツラーは、1877年2月8日、ドイツ帝国のドレスデンで生まれたドイツ人だった。
長期間のオーストラリア滞在の後にオランダ抑留を経験したカールは、ドイツ帰国後に43歳で遅めの結婚をした。
妻との間に2人の娘を儲け、46歳で単身渡米し、フロリダ州のザファーヒルズに移り住んだ。
妻子は後から渡米してきたが、カールは家族と再会した翌年に彼女らを捨てて出奔してしまった。そして、フロリダ半島最南端のキーウェストの海軍病院で、レントゲン技師として生計を立てるようになる。
新天地で新たな人生を始めようと考えたカールは、キーウェストではカール・フォン・コーゼルという貴族風の偽名を名乗り、時にはその偽名に「伯爵」の称号を付け加えることもあった。
自称コーゼル伯爵が、キューバ系アメリカ人女性のマリア・エレナ・ミラグロ・ド・オヨスと出会ったのは、1930年4月のことだった。
その頃、53歳になっていたカールは、自分より32歳も年下のエキゾチックな黒髪美女エレナに、一目惚れしてしまったのである。
カール曰く、「エレナは、かつて白昼夢で見た運命の女性、そのままの姿をしていた」という。
カールはエレナと出会ってすぐに「私と結婚するために生まれてきた女性に違いない」と確信した。
2人の出会いの場所となったのは、カールが勤める病院だった。
しかし、母親と共に訪れたうら若きエレナは、その時既に末期の結核患者だったのである。
彼女もまたカールと同様に既婚者であったが、夫とは流産や結核を理由に離縁同然の関係になっていたという。
エレナを諦められず、治療を口実に求愛
エレナを一目見て惚れ込んだカールは、医師としての資格は持っておらず、医療訓練すらまともに受けていなかった。
それでも、結核の治療を口実にエレナに接触し、熱烈に求愛した。
1930年当時は抗結核薬が開発されておらず、既に死を覚悟していたエレナとその家族は困惑したが、カールの熱意に押され、その申し出を受け入れた。
カールは技師としての技術を活かして、自ら発明した電気器具やレントゲン機器、薬などをエレナの実家に持ち込み、でたらめな治療を行った。
また、外出もままならないエレナに宝飾品や洋服など様々な贈り物をして、一方的に永遠の愛を誓った。
しかし、カールの「治療」が功を奏するわけもなく、エレナはカールと出会ってから1年半後の1931年10月25日に、22歳の若さで亡くなってしまう。
カールは、愛するエレナの葬儀費用と埋葬費用の負担を、エレナの家族に申し出た。
エレナの実家は貧しかったうえに、不治の病を患った哀れな愛娘に、仮にも「永遠の愛」を誓ってくれたカールの申し出を、無下に断ることはできなかった。
カールは「美しいエレナを、土の中で朽ちさせるのは忍びない」と考え、家族の許可を得てキーウエストの墓地に霊廟を建て、その中にエレナの遺体を安置したのだ。
外に出たがるエレナの声を聞き、遺体を盗み出す
エレナの死後、カールはエレナが眠る霊廟に1年半もの間、毎日通い続けた。
エレナを失い、精神的に不安定になっていたカールは、毎夜エレナの霊廟の前でひざまずきながら、彼女の魂と対話していたのだという。
そしてある日カールは、「霊廟から出たい」とささやくエレナの声を聞いた。
愛するエレナの願いを聞いて、カールはいても立ってもいられなくなった。そして霊廟から密かにエレナの遺体を盗み出し、トイワゴンに乗せて自宅に連れ帰ったのだ。
しかし、死後1年半が経過していたエレナの遺体は腐敗が進み、ボロボロに朽ちていた。
そこでカールは付け焼刃の知識で、エレナの遺体修復を試みたのである。
カールは、エレナの遺体を防腐液に浸してから骨をワイヤーで接ぎ、朽ちた皮膚は蝋と漆喰で固めたシルク製の布に張り替えて、眼球が失われた眼窩にはガラス球をはめた。
内臓を取って空洞になった腹部や胸には、ぼろ布や綿を詰め込んで人体の厚みを再現した。頭にはエレナの母から譲られたエレナ本人の遺髪で作ったカツラを被せ、ドレスを着せて宝飾品で飾り立て、腐臭は香水でごまかした。
こうして「エレナのはく製」を完成させたカールは、夢にまで見たエレナとの新婚生活を送り始めたのだ。
はく製となったエレナと共にダンスを楽しみ、夜は添い寝をして過ごしたという。
しかし、カールはエレナをはく製にするだけでは飽き足らず、蘇生行為まで試みた。
その方法は、カール自身が発明した電気器具で遺体に電流を流すという、なんともお粗末な方法であった。
ついに遺族にバレる
カールがエレナを霊廟から連れ出した後、2人の「蜜月の日々」は、なんと7年にも及んだ。
しかし、不穏な噂がエレナの遺族に届いたことにより、1940年10月、「蜜月の日々」は終焉を迎えることとなる。
ある日、エレナの姉フロリンダは、こんな噂を耳にした。
「コーゼルという老人は、毎晩死体と寝ているらしい。」
噂を聞いて思い当たるところがあったフロリンダは、妹の霊廟に遺体が無いことを確認し、カールの自宅に直接赴いた。
そして、その場で変り果てた姿になった妹の遺体を発見してしまう。
カールを説得するも、遺体を返してもらえなかったフロリンダはすぐさま警察に通報し、カールは逮捕された。
カールの「墓荒らし・遺体窃盗事件」は、マスコミに大きく取り上げられ、アメリカ中に知れ渡ることとなった。
しかし、カールの行為は、どちらかといえば好意的に受け入れられた。
犯行の内容はおぞましいものであったが、世間はカールが起こした事件を「初老の男性が純愛を貫いたゆえの美談」として受け取ったのだ。
逮捕後も「エレナの遺体を宇宙に飛ばして、蘇生を試みる計画を立てていた」など、支離滅裂な証言をしていたカールだが、精神鑑定では裁判を受けるには問題ない状態だと判断された。
しかし、当時の時効を過ぎていたため、カールは何の刑罰を受けることもなく釈放されたのである。
有名人となったカールとエレナのその後
エレナの遺体は医学者によって検視が行われた。
しかし、あまりに特異な状態になっていたために、ディーン=ロペス葬儀場で一般公開された後、再犯を防ぐためにキーウエスト墓地に墓碑なしで葬られた。
釈放後、一躍有名人となったカールは、古巣のザファーヒルズに戻った後にフロリダ州のタンパ市に移った。
その後は自伝を執筆したり、大衆紙の取材を受けたりしながら余生を過ごした。
晩年は、近隣に住んでいた一度は見捨てた妻に支えられながら暮らし、アメリカ市民権も獲得できたという。
アメリカ独立記念日の前日である1952年7月3日、カールは独り暮らししていた自宅で遺体となって見つかった。
少なくとも死後3週間が経過した状態のカールの傍らには、エレナのデスマスクを被った等身大の人形が横たわっていたという。
カールの事件は、彼の死後もしばらくの間、老技師の健気な純愛物語として語り継がれていた。
しかし1972年、エレナの検視に立ち会った医師がインタビューに答えたことにより、衝撃の事実が判明した。
その医師によれば、エレナの遺体の陰部にはチューブが挿入されていて、使用可能な状態であり、実際に使用された痕跡もあったというのだ。
さらに別の証言によれば、カールが生前に記したメモには、カールが結核で苦しむエレナを毒殺した経緯が書かれていたという。
エレナの遺体が土に還り、カール自身も亡き今、カールがエレナに対して行った行為の事実は、永遠に闇の中に葬られてしまった。
しかし少なくとも、この実話が男女の相思相愛の合意関係のもとで繰り広げられたロマンスでないことだけは、間違いないだろう。
参考文献
ベン ハリスン (著), Ben Harrison (原名), 延原 泰子 (翻訳)
『死せる花嫁への愛: 死体と暮らしたある医師の真実』
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