ザビエルの最後
1552年12月3日。フランシスコ・ザビエルがこの世を去った。
没年46歳。故郷のナヴァール国から遠く離れた中国の上川島が、彼の最期の地であった。
かつて、モンマルトルの丘で7名の仲間と共にイエズス会を創設した若き日のザビエルには、自らの過酷な運命が想像できていたであろうか。
35歳でインド使節に任命された彼は、ゴアにおいて、8年もの歳月、教誨に務める傍ら、貧しい者や病人の看護にあたった。
やがてマラッカで日本人アンジローと運命的な出会いを果たし、共に日本へ渡ったことは周知のとおりだ。鹿児島や京都、豊後の府内などを布教してまわったザビエルだったが、仏敵として攻撃されることも多く、その姿は物乞いの様にやつれていた、とも伝わっている。
1552年11月に日本を出国したザビエルは、間もなく病に倒れる。長年の無理が祟ったのだろう、回復の見込みはなく、最期の時を迎えたのだった。
ザビエルの没後
宣教師ザビエルが布教の途上で亡くなったことを、日本の歴史の教科書は教えていない。
もとより、没後、彼の遺骸がどうなったのかということは、キリスト教徒にさえあまり知られていない。
サビエルが亡くなった後、その遺骸はインドのゴアにある聖パウロ聖堂に移され、数千人の列席者のもと厳粛な葬儀が営まれたという。現在も、ゴアにはキリスト教の荘厳な教会が残っているが、当時はポルトガル領インドの首都であり、東方におけるキリスト教化の拠点であった。そのため、ザビエルを慕うキリスト教徒は多く、葬儀から3日間だけ許された遺骸の拝観には大勢の者が詰めかけた。
ザビエルの遺骸を囲んだ信者たちは、冷たくなった彼の足先に接吻をしたというが、この時、ある事件が起こった。
信者の一人、イザベラ・ド・カロンという女がザビエルの小指と薬指を噛みちぎり、持ち去ってしまったのだ。
イザベラの死後、噛みちぎられた指の一本は聖堂に返されたが、後に、ザビエルの生誕地であるザビエル城に安置されたと伝わっている。
残りの一本は、イザベラ一族の家宝とされていたそうだが、巡りめぐって、1859年にポルトガル・リスボンの貴族の所有となっていることが確認されている。
足の指2本を失ったザビエルの遺骸は、さらに、1614年イエズス会総長クラウディオ・アクワビーバの命令により、右腕を切断される。この右腕は、ローマへと送られたのだが、聖管に入れて厨子の中に安置され、信仰の対象となっているそうだ。
聖人となったザビエル
没後110年を迎えた1622年、ザビエルは教皇パウロ五世によって「福者」とされ、その後「聖人」に列せられる。
その二年後、遺骸は、安置されていた聖パウロ聖堂からボム・ジェズ大聖堂へと移された。
ここでようやく静かな眠りを得たと思われたザビエルだったが、イエズス会学院長らから内臓の摘出願いが出されたため、胃や腸などを細かく分けられ、ヨーロッパやインドへと分配される。
これは、仏教における仏舎利信仰と通じるものがあるだろう。キリスト教においても聖人の遺骸を分け、それぞれの地で崇敬の対象とすることは珍しくない。
ザビエルも同様、様々な部位が各地へと散らばっていったが、実は日本の鹿児島にあるカテドラル・ザビエル教会には、聖人ザビエルの爪が安置されている。
キリスト教を広めるため、茨の道を歩んだ宣教師ザビエル。その遺骸は、死後460年を経ても朽ちることがないという。布教に人生を賭けた彼にとって、信仰の対象となるならば体の一部を分断されたとしても、本望なのかもしれない。
森閑とした夜、蝋燭の灯の中で十字を切った爪。布教のために町の辻に立っていた足。悩める者たちを優しく導いた腕。世界に散らばる聖人サビエルの体は、我々に崇敬の念を呼び起こさせると共に、ザビエルその人のひたむきな生き方を教えてくれている。
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