宗教

キリスト教が広まった国々で、なぜ奴隷制度が正当化されたのか?

ヨーロッパやアメリカでは、カトリックやプロテスタントなどのキリスト教が主要な信仰として広く根付いていた。

しかし、こうした信仰を持つ国々においても、18世紀から19世紀半ばにかけて黒人奴隷貿易が合法的に行われていた。

この制度は、単なる経済活動にとどまらず、キリスト教徒同士の対立を深め、やがて宗教的な分裂やアメリカ南北戦争といった社会的・政治的な衝突の一因となった。

今回は、奴隷貿易が宗教にどのような影響を与え、なぜこれほど長く続いたのか、そしてアフリカ人奴隷が人権を否定されるに至った背景を紐解いていきたい。

古代ローマの奴隷制度を崩壊させたキリスト教

画像:古代ローマの奴隷 public domain

古代ローマ社会は、奴隷制度をその基盤の一部として発展していた。

奴隷は農場労働者から家庭教師や乳母に至るまで様々な役割を担わされ、彼らの生活環境は極めて過酷であった。

しかし、ローマ社会の倫理観とは異なるキリスト教の教えは、神の前ではすべての人間が平等であると説いた。

この考え方は、エフェソの信徒への手紙の「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい」という言葉や、ピレモンへの手紙の「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟としてである」という表現に表れている。

当初、古代ローマはキリスト教の拡大を阻止し、信徒に対して弾圧や虐殺を行った。しかし、コンスタンティヌス1世のミラノ勅令(313年)を経てキリスト教が公認されると、その教義はローマ社会の倫理観に浸透していった。

奴隷制度の非人道性が徐々に認識される中で、ローマ社会はキリスト教の価値観に影響され、最終的にその制度の崩壊へと向かったのである。

中世ヨーロッパでの奴隷制度のはじまり

画像 : イーストマン・ジョンソン 「逃亡する奴隷」(1862) public domain

16世紀に奴隷制度が本格化するきっかけは、ポルトガル人が大西洋を越え、カリブ海地域(当時の西インド諸島)に進出し、砂糖の生産を拡大したことに始まる。

ポルトガルとスペインは、この地域で高級食材としての砂糖を大量に生産し、大きな利益を得ようと計画した。

しかし、砂糖の栽培と収穫には過酷な労働が必要であり、現地の先住民を強制労働に従事させることでこれを賄おうとしたのだ。

画像:刑務所、囚人、奴隷制イメージ pixabay

しかし、先住民たちはヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病により急激に数を減らし、命を落とす者が相次いだ。

この結果、労働力を確保するための新たな手段が求められたヨーロッパ人は、アフリカ大陸に目を向けた。

当時、アフリカでは内戦や部族間の争いが頻発しており、平穏に労働力を得たいヨーロッパ人は、アフリカ人に「武器とアフリカ人を交換してほしい」と持ちかける。

武器が欲しかったアフリカ人たちはこれを了承し、同じアフリカ人たちを奴隷としてヨーロッパ人に売り渡していった。ここから、ヨーロッパ人とアフリカ人による「大西洋奴隷貿易」が本格化していった。

この流れは、ポルトガルやスペインのみならず、オランダ、フランス、イギリスといった他のヨーロッパ諸国にも広がり、奴隷貿易はヨーロッパ全域に拡大した。

そして、1652年の英蘭戦争(イギリスとオランダによる戦争)や、1701年から始まったスペイン継承戦争(ヨーロッパ全土の戦争)の結果、奴隷貿易はイギリスが手綱を握ることとなり、奴隷貿易の利益の多くはイギリスが得るようになった。

奴隷制度を肯定するための聖書

画像:聖書 pixabay

こうして奴隷制度が拡大する中で、「この制度は非人道的であり、聖書の教えに反するのではないか?」と疑問を抱く人々が徐々に増え始めた。

しかし一方で、奴隷制度を正当化しようとする動きも見られ、「奴隷制度は必要不可欠なものだ」とする思想や、聖書の解釈を歪めた主張が用いられるようになった。

例えば、新約聖書の「テトスへの手紙」2章9-10節には以下の記述がある。

「奴隷には、万事につけその主人に服従して、喜ばれるようになり、反抗をせず、盗みをせず、どこまでも心をこめた真実を示すようにと、勧めなさい。そうすれば、彼らは万事につけ、わたしたちの救主なる神の教えを飾ることになろう。」(新共同訳聖書)

この言葉は、当時の奴隷が置かれた状況において、キリスト教信仰の実践を説くものだった。

しかし、一部の解釈者はこれを「奴隷は無条件で主人に従わなければならない」という主張に利用し、奴隷制度の正当化に転用した。

また、「ヨハネによる福音書」8章34-35節では、こう述べられている。

「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」(新共同訳聖書)

この言葉は、霊的自由を説く文脈で語られたものだが、これも「奴隷の子どもは親と同様に奴隷の身分を引き継ぐ」と解釈されるなど、奴隷制度の維持に利用された。

これらの曲解された聖書の言葉は、奴隷制度の正当性を支えるための論理として広く使われ、19世紀にイギリスや貿易国間で奴隷貿易禁止協定が締結されるまで、制度の擁護に用いられた。

イギリス奴隷と洗礼による拘束

画像: ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 「キリスト教会の門、カンタベリー」(1793-1794)public domain

聖書を用いて奴隷制度を正当化する考えが広がる中、イギリスでは奴隷に洗礼を施すことに慎重になる主人たちが現れた。

その理由の一つは、「洗礼を受けた奴隷は自由を手にする」という信念が広く浸透していたことにある。

この懸念に対処するため、イギリス海外福音伝道会(Society for the Propagation of the Gospel in Foreign Parts、以下SPG)は、聖書の解釈を基に奴隷制度を支持する立場を示した。

SPGは、「洗礼は奴隷に霊的な救いを与えるものの、世俗的な自由を約束するものではない」との見解を打ち出したのである。

彼らは「奴隷を解放することについては聖書で明言されていない」と主張し、洗礼を受けたとしても主人に従う義務が継続されると説いた。

一方で、奴隷たちには「現世で主人に忠実に仕えることで、来世において自由と天国の恵みを得ることができる」と説教し、奴隷を主人の元に縛り付けようとしたのである。

半強制的な洗礼

画像:教会のウィンドウ、洗礼、聖餐画像。 pixabay

この考え方は、アメリカ南部にも広がっていった。

初めて黒人がアメリカ大陸南部に連れてこられた際、多くのキリスト教徒の主人たちは「奴隷が洗礼を受けることで、自由を手にする可能性がある」と懸念した。そのため、一部の主人たちはヨーロッパ人と同じように聖書を曲解し、奴隷たちに教え、洗礼を受けさせた。

もちろん洗礼を拒む奴隷もいたが、その奴隷たちも厳しい監視下の中で働かされた。

だが、16世紀ごろのアメリカではキリスト教を信仰していない者も多く、宗教に関係なく奴隷を従えていた主人も多かったとされている。

アメリカでの奴隷制度は、南北戦争(1861~1865)を機に廃止されたものの、その後も「ジム・クロウ法」により差別は続いた。

ジム・クロウ法とは、アフリカ系アメリカ人に形式上の市民権や投票権を与えながらも、公共施設、教育機関、職場などで白人と隔離することで、実質的に差別を合法化した法律である。(※有色人種全般も含まれていた)

この法律により、アフリカ系アメリカ人は長い間、社会的な不平等と向き合わざるを得なかった。

分裂する宗教

画像:天使、美術、宗教画像 pixabay

こうして、アメリカ南部では奴隷制度が広く認められていたが、北部では反対する声が多く上がっていた。

その背景には、地域ごとの経済構造の違いがあった。

南部はサトウキビをはじめとするプランテーション農業が盛んであり、主な労働力を黒人奴隷に依存していた。
一方、北部では商工業が中心で、家族労働によって経済を支える家庭が多かったため、奴隷制度が必要とされなかった。こうした違いが、北部で奴隷制度を批判する考えを広める要因となったのだ。

この地域差は、宗教界にも大きな影響を及ぼした。

16世紀のドイツで、ルターがローマ教皇を批判し、カトリックとプロテスタントが分裂したように、アメリカでも宗教的対立が深まっていった。プロテスタント内部では、バプテスト派とメソジスト派のようにさらに派閥が分裂した。

北部では徐々に奴隷制度の廃止が進んだが、南部ではプランテーション農業の発展とともに制度が強化されていった。

結果として、南部の教派は聖書を奴隷の管理を正当化するために利用し、北部では黒人牧師による黒人教会が形成されるなど、宗教界も二極化していったのだ。

黒人法典とカトリック

画像 : ガベルと法典 public domain

奴隷制度がヨーロッパ諸国やアメリカ南部で広がる中、フランスは植民地政策の一環として、多くの地域で奴隷制度を採用した。

その象徴ともいえるのが、ルイ14世によって1685年に制定された「黒人法典(Code Noir)」である。この法典は、植民地での奴隷制度の法的基盤を築き、奴隷の管理や統制のための指針を提供した。

黒人法典は、奴隷に対してローマ・カトリックの洗礼を義務づけ、宗教教育を受けさせるよう定めた。また、黒人やその子孫を永続的な奴隷として扱うことを合法化し、奴隷同士の子どもや、奴隷と主人の間に生まれた子どももすべて奴隷とする規定が盛り込まれた。

一方で、日曜日やカトリックの祝日に奴隷を労働させることを禁止する条項もあったが、実際にはこれが守られることは稀だったとされる。奴隷はあくまで「物」として扱われ、過酷な労働を強いられる日々を送ったのである。

画像 : サントドミンゴの戦い。フランス軍のポーランド軍団とハイチ反乱軍の戦闘。ヤヌアリ・スホドルスキ画 public domain

しかし、フランス革命の動乱期において、人権の概念が拡大する中、1791年にはハイチで奴隷による暴動が発生し、やがて世界初の黒人共和国として独立を果たす結果となった。(ハイチ革命)

黒人たちが人権を奪われた背景には、宗教の教えを曲解して奴隷制度を正当化する動きがあったと言える。

どのような教えも、その解釈次第で正反対の結果を生む可能性を秘めている。人権や個人の尊厳を侵害するために利用された宗教は、その本来の意図とはかけ離れた役割を果たしてしまったのである。

こうした歴史的背景を学ぶことは、現代社会における差別や偏見を見直し、公平な社会を目指すための手がかりとなるだろう。

参考 :
「フランスの植民地における奴隷制の復興」
「アメリカ南部アフリカ系奴隷のキリスト教化研究の課題と展望」
「黒人法典―フランス黒人奴隷制の法的虚無」他
文 / 草の実堂編集部

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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コメント

  1. アバター
    • せり
    • 2025年 6月 11日 11:45am

    「テトスへの手紙」2.9〜「奴隷には、万事につけその主人に服従して」とあるから、奴隷は無条件に主人に従うべき、とするのは直訳であって、曲解じゃないと思うけど。ペテロ第一の手紙2.18〜には、「優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも仕えよ」と書いていて、虐待的扱いが正当化される恐れのある箇所だと思う。聖書自体にも倫理的に問題のある箇所は多いよ。
    ‭‭

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  1. 2024年 12月 11日
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