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古宮城へ行ってみた【続日本100名城】

写真:古宮城全景(白鳥神社の裏山全体が古宮城)※写真は全て本人撮影

三英傑」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)を輩出した愛知県は、戦国時代には、織田信長と豊臣秀吉が生まれた尾張国(愛知県西部地方)と、徳川家康が生まれた三河国(愛知県東部地方)に分かれていました。

三河国はさらに東西に分かれ、徳川家康が生まれた岡崎は西三河にあり、東三河は、平野部を牧野氏戸田氏らが、山間部(「奥三河」「山家(やまが)」という)は、「山家三方衆」則ち、作手(つくで)の奥平氏、田峯(田嶺。だみね)の菅沼氏、長篠(ながしの)の菅沼氏らが支配していました。

写真:作手高原の諸城(作手歴史民俗資料館の展示物)

作手の奥平氏の居城・亀山城のすぐ近く(約1km北)にあるのが、今回、登城する続日本100名城古宮城」(愛知県新城市作手清岳)です。(「ふるみやじょう」と読みます。「こみやじょう」ですと「小宮城」に変換されちゃいます。)

古宮城は、武田信玄が「鬼婆(おにばば)」いや、「鬼美濃」こと馬場美濃守信春に、元亀2年(1571年)に築かせた城で、後に白鳥神社が建てられて城山が宮山として禁足地になったことから、戦国時代の遺構の保存状態が良く、「続日本100名城」に選ばれたようです。

作手歴史民俗資料館で縄張り図を入手

しかし、「保存状態が良い」と言っても、建物が残されているわけではなく、空堀だの土塁だのの「土の城」であり、標識もないので「縄張り図」を手に散策しないと十分に楽しめません。

その「縄張り図」は、作手歴史民俗資料館(愛知県新城市作手高里縄手上35)で入手できます。

そこで、まずは、作手歴史民俗資料館に向かいました。(「続日本100名城」のスタンプも作手歴史民俗資料館の受付にあります。)

写真:作手歴史民俗資料館

作手歴史民俗資料館の外観は、お城のようでした。これは期待できますぞ!

※作手歴史民俗資料館は、①月曜休みではなく、火曜休み、②開館が9時ではなく10時、閉館は17時ではなく15時と開館時間に注意を要します

写真:「続日本100名城」のスタンプと認定証(作手歴史民俗資料館の受付にて)

写真:パンフレットと縄張り図を入手!(作手歴史民俗資料館の受付にて)

さて、「縄張り図」を手にし、スタンプを押したのですが、失敗しました orz

続日本100名城のスタンプが薄すぎて、入館記念スタンプが濃すぎた ( ̄ロ ̄lll) 皆さん、試し捺ししましょうね~(えっ、みんなやってるの?「そんなの常識」だって?)

気を取り直して、お勉強タ~イム!!

作手歴史民俗資料館は、事前学習には最適の施設です。なにより嬉しいのが、入館無料!

※Eテレ「趣味どきっ!」の『お城へ行こう! 第二の陣「武田氏の城造り」』(2016年2月)をご覧になった方は、事前学習不要かな?

写真:中津藩船印、裏紋(丸に花沢瀉)、鳥居強右衛門勝商

写真:古宮城の模型

特に、古宮城の模型は、縄張り図を比較しながら、よく見ておきました。

さて、勉強が終わったので、いざ出陣!!

古宮城 アクセス

写真:古宮城周辺案内図(白鳥神社社頭)

古宮城は、国道301号線(通称「作手街道」)沿いの作手歴史民俗資料館(案内図では「新城市立作手民俗資料館」)から南下し(道の駅「つくで手作り村」に向かい)、左折して愛知県道436号作手清岳玖老瀬線に入ってすぐの左側にあり、白鳥神社(愛知県新城市作手清岳宮山31)の鳥居横に、4台ほどの駐車場があります。

※県道436号を東へ進めば、塩平城がある玖老瀬(黒瀬。くろぜ)に着きます。奥平貞能(定能)一行は、どういう気持で玖老瀬へ向かったのでしょうか?

写真:「古宮城址」現地案内板(白鳥神社の鳥居横)

白鳥神社の鳥居横に、唯一の、最初で最後の案内板があります。

「当城址は、甲斐の武田信玄が三河進出の拠点とするため、宿将馬場美濃守信房に命じ元亀2(1571)に築城したと伝わる。城域は南北約200メートル、東西約250メートルの独立した小山全体からなっている。当時は南東北の三面が湿地になっており、西方は塞之神城に通じ主要部が東西に分かれた一城別郭式の要害堅固な城であった。北側から南側にかけて、中央部に全長140メートルの豪壮な竪濠があり、東域と西域に分離している。この竪濠の北方下端には、井戸址と、三方を高さ1.5メートルの土塁で囲んだ約2.5アールの溜池がある。西域の本曲輪は、約4.2アールで、その東側土塁には左右2箇所の虎口を設けているのが特徴である。また西域北側には5重の濠を擁して西方からの攻撃に備えている。東域は頂部において幅約4メートルの通路で西域とつながり約3.8アールの本曲輪と並んで二の曲輪がありその北部には多数の曲輪が見られる。東側下端は長さ250メートル最大幅30メートルの馬場を備えており県内唯一の甲州流築城といわれる。尚、要害を誇ったこの城も天正元年(1573)に奥平・徳川連合軍の手によって落城した。」(現地案内板)

白鳥神社:ご祭神は日本武命。社記に、天平勝宝4壬辰年(752年)の頃、山頂に松尾明神(大山咋命)鎮座あり。応永3子年(1936年)8月、奥平貞俊、亀山城を築き、その領土となる。天正元癸酉年(1573年)8月、武田軍、攻撃に逢い、城を焼く。松尾明神の社祠も焼失す。天和3壬亥年(1682年)10月5日、木口権兵衛安正、松尾明神跡に白鳥大明神を勧請し、祀る。村民、「古宮」と称して崇敬する。(『愛知県神社誌』)

古宮城へ登城

写真:白鳥神社西の大堀切(竪濠)

さて、登城です!

白鳥神社西の大堀切の底を登っていきます。すると・・・壁が・・・気分はSASUKEの「そり立つ壁」!縄張り図でチェックすると土橋でした。

古宮城の様子は、現地案内板でお分かりのように、「一城別郭式」です。中央に巨大な堀切があって、丘を二分しています。

東半分の頂上が主郭で、城主がいます。湿地に囲まれて安全なようです。西半分の頂上が二の郭で、こちらには「虎口」(大手口、出入り口)があるので、多重横堀(5重の濠)があります。この東の主郭と西の二の郭を繋いでいるのが土橋です。

──事前学習の効果なし。

ですね。白鳥神社の西からではなく、東から攻めなければいけませんでした。

ということで、古宮城の構造の説明は、公式サイトにおまかせして、古宮城関連の歴史についてまとめておきます。

※「古宮城」公式サイト → こちら

古宮城関連の歴史

写真:亀山城(愛知県新城市作手清岳シロヤマ)

ここで、古宮城関連の歴史についてまとめておきます。

武田信玄の死を徳川家康に最初に伝えたのは、武田方の亀山城主・奥平貞能(おくだいらさだよし「定能」とも)だとされています(異説あり)。武田信玄の死を確認した徳川家康は、長篠城(城主は武田方の菅沼正貞)を襲って奪いました。

奥平貞能の徳川家康への内通を疑った武田軍は、奥平貞能を玖老勢の塩平城へ呼び出して尋問しますが、奥平貞能は堂々とした態度でかわすと、亀山城を脱出して亀穴城(「滝山城」とも)に入り、「亀穴城の戦い」(「滝山合戦」とも)で武田軍を破り、駆けつけた徳川軍と合流して、「古宮城の戦い」で古宮城を焼くと、古宮城は、廃城になったといいます。

こうして、奥平貞能・貞昌(後の信昌)親子は、貞昌と亀姫(徳川家康の長女)との結婚、領地の安堵、新領の宛行(あてがい)などが書かれた「七ヶ条の誓書(起請文)」を受け取り、徳川家康に召し抱えられました。(その結果、奥平氏の人質3人が、武田軍によって公開処刑されるという悲劇が起こりました。)

徳川家康は、奥平貞能を浜松に呼んで住ませ(奥平屋敷は現在、浜松秋葉神社がある場所にありました)、息子の奥平貞昌を長篠城主として長篠城に住ませました。

そして、「長篠の戦い」(「長篠城の戦い」「鳶ヶ巣山砦の戦い」「設楽原の戦い」の総称)で武田軍は破れ、東三河から撤退しました。

天正元年(1573年)
7月20日 徳川家康は、亀山城主・奥平貞能(武田方)から武田信玄の死を知る。
8月15日 徳川家康は、長篠城を攻撃し、城主・菅沼正貞(武田方)は鳳来寺方面へ逃走する。
8月20日 奥平貞能・貞昌親子は、亀山城を脱出し、亀穴城(滝山城)へ入る。
8月21日 「亀穴城の戦い」「古宮城の戦い」。奥平貞能・貞昌親子、「七ヶ条の誓書」を受け取る。
9月16日 徳川家康は、奥平貞能を浜松へ呼び、奥平貞昌を長篠城の城番(在番)に命じる。
9月21日 武田勝頼は、奥平氏が差し出していた人質3人を公開処刑する。

天正3年(1575年)
2月28日 徳川家康は、奥平貞昌を長篠城の城主に命じる。
5月1日 武田勝頼が、長篠城を取り囲む(「長篠城の戦い」)。
5月21日 武田勝頼が、徳川・織田連合軍に負ける(「設楽原の戦い」)。
(注)月日については諸説あり。

こういったことは、江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』の「奥平貞能」「奥平信昌」の項に書かれています。

たとえば、「奥平貞能・貞昌親子の亀山城脱出」の場面については、次のようにあります。

天正元年(1573年)8月中旬、武田勝頼は、田峯の田峯城に入り、馬場信春を鳳来寺口の岩小屋砦、武田信豊と土屋昌次を黒瀬(玖老勢)の塩平城、甘利晴吉を作手の古宮城に置いた。そして、浜松城主・徳川家康をおびき寄せて挟み撃ちにしようとするが、武田方の亀山城主・奥平貞能が徳川家康にその作戦を伝えたので、徳川家康は、難を逃れることが出来た。

感謝しようと、徳川家康は、「七ヶ条の誓書(起請文)」を書き、徳川方に移るという奥平貞能・貞昌親子が待つ亀山城(一説に亀穴城)に軍隊を送った。しかし、武田軍にばれたらしく、奥平貞能は、武田信豊に塩平城に来るよう命じられた。奥平貞能は「怪しまれないように」とすぐに亀山城を出た。塩平城で奥平貞能の取り調べが始まった。奥平貞能が堂々とした態度で白状しないので、武田信豊は、従者たちを責めようと思い、従者たちに、

奥平貞能が白状したので誅殺した

と言ったが、従者たちは、平然としていた。これは、武田軍のやり方を熟知している主君・奥平貞能に、

もし、誅殺したと言われても、首を見るまで信じるな

とあらかじめ言われていたからである。こうして夕方には疑いが晴れたので、亀山城に帰ろうとして城門を出ると、「待った」がかかった。

──徳川軍が亀山城に入ったという連絡が届いたのであろう。

と観念すると、

作手までは遠く、日も暮れようとしている。夕食を食べてから帰られるが良い

と言われた。こうして奥平貞能一行は夕食をご馳走され、無事、居城・亀山城に戻った。

亀山城に戻ると、徳川軍はいなかった。そして、まだ疑っているのか、古宮城から使者が来て、

人質の人数を増やす。すぐに人質を古宮城によこせ

と言われた。奥平貞能は、「承知」と即答し、使者と風呂に入り、酒を飲み交わした。そうするうちに日付が変わり、「奥平逆心。8月20日、徳川軍が亀山城に入る」という情報はデマだと分かり、使者は古宮城へ帰っていった。

結局、徳川軍は来なかったが、奥平貞能・貞昌親子は、亀山城を脱け出して、亀穴城(「滝山城」とも)へと向かった。

その動きに気づき追跡し、途中、追いついた甘利晴吉率いる武田軍(古宮城の城兵)と石筒ヶ根(『寛政重修諸家譜』では「石筒金坂」、現地案内板では「石塔が坂」)で合戦になったが、暗くて戦える状況ではなかったので、武田軍は古宮城に戻り、奥平貞昌一行は、亀穴城に入った。

翌21日、武田軍5000人が亀穴城(城兵200人)を襲ったが(「亀穴城の戦い」「滝山合戦」)、武田軍は山城攻めに手こずり、古宮城へ退却したので、「古宮城の戦い」となり、古宮城は焼け落ちた。

亀穴城の戦い(滝山合戦)

写真:「龜穴城址」碑(愛知県岡崎市宮崎町堂庭)

「滝山城は、16世紀半ばに、奥平貞能が築いてここに居住したという。一名「亀穴城」ともいう。天正元年(1573)8月21日、作手の亀山城にいた奥平貞能・信昌父子は、武田方にそむいて亀山城を退いて、滝山城に入った。武田方は五千の軍勢を率いて、城の南面下の万足平に押し寄せた。城はすこぶる険しくて攻めにくい。その上、援軍の徳川勢が駆け付け、武田方を包囲したこともあり、さすがの武田勢も退却した。奥平勢もこれを追って田原坂で激戦に及んだ。この戦いを滝山合戦という。滝山城は、切り立つこと百十余メートル、中腹には急造されたと思われる本丸、東の峰、天主岩などの砦跡や、また東の峰づたいに今なお空堀が残り、山城の様子がしのばれる。」(現地案内板)

徳川軍が到着したのは、約束した日の翌日(8月21日)の正午でした。道が予想以上に険しくて時間がかり、夜になって道に迷ったのだそうです。

もし、約束の日に着いていたら、奥平貞能は塩平城で誅殺されていたでしょうから、奥平貞能・貞昌父子は運が良かったとしか言いようがありません。

また、この「200人の城兵で5000人の武田軍を破った」という「亀穴城の戦い」の経験が、「500人の城兵でも、15000人の武田軍を防げる」という、「長篠城の戦い」における精神的な支え、自信になったと思われます。

古宮城の感想

写真:歴史の小径

古宮城へ行かれた方の感想は、

・好評:「丘全体が要塞とはすごい」「保存状態が良い」

・悪評:「標識がない」「木が多い」「交通の便が悪い」

といったところです。

作手には、古宮城以外にも史跡があり、「歴史の小径」(作手歴史民俗資料館にパンフレットあり)として整備されていますので、他の史跡とセットで見学されるのもよろしいかと。

古宮城周辺の見所

写真:鳥居強右衛門勝商夫妻の墓(甘泉寺)

城郭

川尻城(亀山城の前の奥平氏の居城)

亀山城(奥平氏の居城。道の駅「つくで手作り村」裏)

塞之神城(元亀年間(1570-1572)に武田氏が築いたという。)

文殊山城(元亀年間(1570-1572)に奥平氏が一夜で築いたという。)

石橋城(奥平貞久の二男・石橋久勝の居館。道の駅「つくで手作り村」前の慈昌院境内)

※「亀山城」公式サイト → こちら

寺社

翔龍山甘泉寺(奥平氏の最初の居住地。鳥居強右衛門勝商夫妻の墓)

白髭神社(「三河地名発祥地」巴山の山頂にある。日本武尊は、巴山から豊川、男川、矢作川が巴状に流れ出す様子を見て国名を「三河」と名付けたといい、三河国司・藤原俊成の三河三川の歌碑がある。古宮城の南で豊川水系巴川と矢作川水系巴川に分かれるが、分水嶺ではなく、分水点であるところが珍しい。)

史料

『寛政重修諸家譜』の「奥平貞能」から「奥平貞能・貞昌親子の亀山城脱出」

八月中旬、勝頼、長篠の後詰として兵を遠参に出す。馬場美濃守信房、五千余騎、鳳来寺ロに出て二山に屯し、武田左馬助信豊、土屋右衛門尉昌次、八千余騎、黒瀬に陣をとり、甘利左衛門尉晴吉、作手をまもり、勝頼みづから田嶺に陣す。ここにをいて信豊、昌次、作手に移り、設楽にいでて、要害を前にあて東西より御味方の通路をとどめば,東照宮、吉川筋に退かるべし。其の時、貞能、差し挟みて撃奉らむと謀る。貞能、この由を探り知りて、家臣・夏目五郎左衛門治貞をして、ひそかに言上しければ、甲軍の謀、其の図を失へり。

(今の呈譜に、夏日治員、「貞能父子が御味方に参るべし」との使ひをつとむ時に、治貞を御前に召され、御感の仰せありて、「御旗下に召さるべし」とありけれども、かたく辞し申すにより、二男・吉左衛門治盈を幕下の士に加へらるといふ。)

この時にあたりて左馬助信豊、貞能父子が御味方に志を通ずるの由を聞きて、「其の実否を糺さん」と、これを黒瀬の陣営に招く。貞能、わづかに家臣十人許を従へ、速やかに彼所に至り、信豊に謁す時に、勝頼が検使として、田嶺の家老・城所道壽某、兼ねてより来会し、信豊が家老・小池五郎左衛門某と共に出向ひて、「この頃、徳川家に内応の聞こえあり。しかるに、今日の来陣、神妙なり」と言ひて、貞能を誥(つぐ)る。貞能、驚く気色無く、「かかる時節には、人々、区々にして、父は子を疑ひ、子は父を疑ふ。しかれども、先に人質を奉るの上は、何の二心かあるべき」とて、猶、自若として、対話、時を移す。信豊、障子を隔てて、貞能が体を伺ひ、すなはち、席に出て対面し、「此程の風聞、あへて信ずるに足らずといへども、又、捨て置くべきにもあらざるが故に招くところなり」と。貞能、答へて、「某、一度、徳川家に属し、また、御味方に参りしが故、さだめて三河の者共、これを憎み、相図りて讒せしならむ。かかる例(ためし)、少なからず。其の反間に陥り給ふべからず」となり。ここにをいて信豊も、やや、心解けて、其の密謀を漏らし、閑談、数刻に及ぶ。しかれども、猶、貞能か体を試むがために、碁を囲むといふ。貞能、「よかろべし」とて、やがて局に対す。其の間に五郎左衛門某、玄関にいで、貞能が従臣等に向かひ、偽りて、「貞能、逆心顕れしにより、討取たり」といふ。然るに貞能、兼ねて、「これらの事あらむにをいては、わが首を見ざるうちは驚き騒ぐ事なかれ」と示せしにより、是日召具せし奥平六兵衛某も驚く色無く、「貞能においては二心あるべき者にあらず」とて、いささか周章せず。しばらくありて、貞能、暇を請ふ。既に門外に出しを、城所道壽、走り出で、呼び返し、「作手までは其程も遠く、月日も暮に及ばむとす。夕膳をまいらすべし」といふ。貞能、速やかに立かへり、湯漬を食し、又、雑談に及び、つゐに彼を謀りて作手にかへる。この時、作手の本丸をば、甘利三郎四郎某、これを守り、初鹿野伝右衛門信昌、軍監たり。貞能は二丸にあり。すでに黒瀬よりかへり、いまだ時を移さざるに、伝右衛門信昌来りて、「一族の人質を速やかに本丸に入べし」といふ。貞能は、今宵去らむとするの心がある故に、「承はりぬ」とのみ答へて、静かに其の雑具など運ばせ、七人の族、五人の家老等にいふ。「たとへ信豊より申し来たるの事ありとも、あへてこれに応ぜすして、物静かに集りゐて、我下知を待つべし」となり。時に土屋右衛門尉昌次、今宵はたして貞能が走り去らむ事を察し、与力の士・小笠原新弥某、草間備前某をして二丸に来たり、其の挙動を伺はしむ。貞能、わざと寛に語り、或は、引て共に浴室に入、又は酒食を設けてこれを饗し、さらに疑はしき事なかりしかば、二人、心を安じて帰り去り、「人質もまた明朝送るべし」と本丸より言ひ来たる。ここにをいて、弟・常勝、貞治等に命じて、「父・道文と共に長篠の方に退き去べし。兼約によりて、今夜の中、徳川家より迎への人衆を賜るべきなり。猶、信昌とはかる」とて、其の身は、先に妻、子、家人等を具して、作手を退き行くこと十町ばかりにして音づれを待つ。信昌も常勝等と相談すといへども、彼等が心、未だ決せざるにより、「しからぱ、道文の思慮に任せられ、跡より返答あるべし」とて退き去る。道文、この由を聞きて大に怒り、「これらの事あらむには、かねて告聞すべきに、心得ざることなり」とて、速やかに人を馳せて、貞能等をとどむといへども、既に「父子ども退き去りし」とて城下、騒動す。よりて、この由を本丸に告て、人数を促し、其の身も従者を具してこれを追ふ事、急なり。信昌これを見て、共に立ち退かむと思ひ、しばらく猶、予するのところ、左はあらで、武田方の追手も追々馳せ加はる形勢なりしかば、俄に長櫃より鉄砲五十挺を出し、うちはらひて繰引にし.其の間に相図の火を揚ぐ。この時、作手本城の後に残り居たる親族等、其の士卒百余人をして、本丸に向ひて鉄砲うちかけしむ。追手の輩、これによりて、しばらく足をとどむ。其のひまに、信昌、父に追ひつき、石筒金坂(いしどうかねのさか)にして父子返し合せ、敵数人を討取の処、かの作手に残りし輩、百人許山づたひに貞能が跡をしたひ来りてこれを援けしかば、武田勢、辟易して、あへて追わず。これによりて、貞能等、兵を全して退くことを得たり。今宵、東照宮にも、かねて約させ給ふにより、松平主殿助伊忠、本多豊後守広孝、本多彦次郎康重等をして貞能をむかへしめらるるといへども、路次嶮岨にして時を移し、翌日午の刻に及ぴて作手領に至る。其の翌日、平岩七之助親吉、内藤金一郎家長等も、また、貞能が陣に馳せ加はる。しかれども、敵の大軍にたくらぶれば、人衆乏しきが故に、相謀て、貞能父子は宮崎滝山に引き退く。援将等も兵をおさめて浜松に帰る。ここにをいて貞能父子、宮崎滝山に住す。

二十日、「先に約させ給ふ亀姫君、信昌が許に入輿の事、いよいよ9月中たるべきなり。しかるうへは貞能父子にをいていささか疎遠あるまじ、又、本領及び日近等の地、其余遠江国の所帯、田嶺、長篠の跡職等相違有べからず。且、三河及び遠江国河西にをいて、新恩三千貫文の地を充行はるべし」とのとの御誓書を給ふ。

二十一日、武田勢五千余騎、作手より宮崎滝山に出張す。この時、貞能父子、手勢わづかに二百余、近郷の民家を放火して滝山に陣す。しかれども、ただ柵一重をむすびて、いまだ塀をも構へざる間に、敵、すでに競ひ来たるといへども、父子、勇を奮ひて麓に下り、矢石を発たしめて防ぎ戦ふ。武田勢、利を失ひて敗走す。貞能等、勝に乗じてこれを追撃。時に敵、又、田原坂のほとりにをいて、数度返し合せ戦ふといへども、貞能等、勵戦して甲兵あまたを討取。この由、聞しめされ、御感、浅からず。かさねて本多広孝父子をして援兵たらしめらる。これにより、共に進みて作手表に発向す。城兵等、赤羽毛に出で迎へ戦ふといへども、貞能、またこれを敗りて敵を討ち取り、既にして島田の郷を放火し、又、敵兵を討ち取る。

国立国会図書館デジタルコレクションより引用

七ヶ条の誓書(起請文)

敬白起請文之事

一、今度申合候縁邊之儀、來九月中ニ可有祝言候、如此ノ上ハ、御進退善悪共ニ見放申間敷事
一、本地、同日近、并、遠州知行、何れも不可有相違事
一、田嶺跡職、同菅沼常陸守、同新次郎、同伊賀、林紀伊守、其外、諸親類、諸被官知行、并、遠州知行共ニ渡進之候、然者、彼知行之内、松平備後守、菅沼十郎兵衛、同藤三を始、其外、方々への隨出置候。田嶺跡職一圓ニ其方へ進置候上者、一所も無相違、則、當所務より渡可申事、付、野田へ之義、筋目次第可申付事
一、長篠諸職、同諸親類、諸被官、遠州知行共ニ渡進之候、付、根田、かうち、御渡野、大塚、如前々返可申事
一、新知行三千貫進置候。此内半分三州ニて、半分ハ遠州河西にて、合三千貫文、以本帳面、當所務より渡可進事
一、三浦諸職之義、氏眞へ御斷申届可申合事
一、信長御起請文取可進之候、信州伊奈郡之義、信長江も可申届事、付、質物替之事、相心得候事
已上
右之條々、少茂ぬき公事有間敷候、此旨於偽申者、梵天、帝釈、四大天王、殊、八幡大菩薩、熊野三所権現、愛宕山権現、別而氏神、富士、白山、天滿大自在天神、弓矢之冥加永つき、無間地獄ニ可落者也、仍如件、
元亀四酉
八月廿日      家康(御判)
奥平美作守殿
同 九八郎殿

※元亀4年は6月27日までで、6月28日から天正元年になった。この誓書は8月20日付であるから、天正元年のはずであるから、偽文書の可能性がある。徳川家康は、改元を知らなかったのか。それとも、知っていて、問題が起きたら、「8月20日は天正元年なのに元亀4年となっている。これは偽文書である」と主張するためにわざと間違えたのか。

以上で古宮城の攻略終了!

さて、次はどの城を攻めようかな。

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