最近、カモシカが出没すると話題の「武田流築城術を駆使した壮大な山城」(島田市教育委員会発行の無料パンフレットの謳い文句)である国指定史跡・諏訪原城(静岡県島田市菊川)へ行ってきました ε=ε=ε=┌(o゚ェ゚)┘
同じような案内板が2つありました。大事なことなので2つあるの
「国指定史跡 諏訪原城跡
指定年月日 昭和50年11月25日
追加指定 平成14年12月19日
諏訪原城は、武田勝頼・徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代史の過程を理解する上で見逃すことのできない重要な遺跡として国の史跡に指定されています。当城は、天正元年(1573)、武田勝頼が、東海道沿いの牧ノ原台地上に普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと『甲陽軍鑑』等に記されています。城内に諏訪大明神を祀ったことから、『諏訪原城』の名がついたと言われています。諏訪原城は、大井川を境として駿河から遠江に入る交通・軍事上で重要な場所にあり、当時徳川方だった高天神城(静岡県掛川市)攻略のための陣城(攻めの城)として、攻略後は兵站基地(軍事作戦に必要な物資や人員の移動を支援する城)としての役割を担いました。天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め落とされたのち、『牧野城(牧野原城)』と改名され、武田方となった高天神城を攻略するための城として活用されました。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し、『家忠日記』には、堀普請(堀を造る土木工事)や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されています。天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと考えられています。 島田市教育委員会」
「国指定史跡 諏訪原城跡
指定年月日 昭和50年11月25日
追加指定 平成14年12月19日
諏訪原城は、武田勝頼・徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代史の過程を理解する上で重要な遺跡として国の史跡に指定されています。当城は、天正元年(1573)、武田勝頼が、普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと『甲陽軍鑑』等に記されています。城内に諏訪大明神を祀ったことから、『諏訪原城』の名がついたと言われています。天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め落とされたのち『牧野城(牧野原城)』と改名され、武田方となった高天神城(掛川市)を攻略するための城として活用されました。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し、『家忠日記』には、堀普請(堀を造る土木工事)や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されています。天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと考えられています。 寄贈 金谷地区退職者福祉共済会・島田榛北地区労働者福祉協議会」
2つの案内板を読んで、諏訪原城の概要が頭にインプットされたと思います ٩(ˊᗜˋ*)و.
さらに、島田市教育委員会文化課文化財係制作の無料パンフレットで、《諏訪原城の特徴》と《城郭用語》を確認しておきましょう ( •⌄• )◞
《諏訪原城の特徴》
1.武田流築城術の典型の城(攻撃のために備えられた三日月堀と曲輪(平坦地)がセットになった大きな「丸馬出」が残っています。発掘調査により徳川氏によって改修された可能性が大きいことがわかりました。)
2.地形に守られた「後ろ堅固」の城(大手(表口)側は平坦ですが、本郭東側が断崖絶壁で、当時、城の眼下を大井川が流れる自然地形によって守られていました。)
3.縄張りの傑作の城(本曲輪を扇の要(かなめ)にたとえ、扇状に曲輪が広がっていることから、扇城とも言われています。)
4.街道と密接に結びついた城(東海道が城域内を通過し、東西交通の要衝の地に築かれた城です。)
《城郭用語》
・曲輪・郭(くるわ):土塁や柵、堀などで囲まれた平坦な区域のこと。尾根や斜面などを造成して作ることもある。
・土塁(どるい):曲輪などを守るために土を突き固めて高く盛り上げた土手状のもの。
・虎口(こぐち):城や曲輪への出入口のこと。
・丸馬出(まるうまだし):武田流築城術の特徴で、虎口の前に設けられた三日月堀と曲輪がセットになった空間。防御するだけでなく、味方が出撃する場合の拠点にもなる。
・縄張(なわばり):堀や曲輪などの配置のこと。
※「A氏の縄張り」とは、「A氏の設計」という意味です。
これで予習は万全 ( *• ̀ω•́ )b グッ☆
それでは、島田市教育委員会発行の無料パンフレットの案内図(縄張り図)を見ながら、散策スタート ( ˃̶͈ ᴗ ˂̶͈ )
まずは、諏訪神社へ。「諏訪神社を建てた原(台地)なので諏訪原で、諏訪原に築いた城なので諏訪原城(「諏訪之原城」とも)」だということです。ネーミングは、「秋葉神社」がある「原」だから「秋葉原」というのと同じですね (๑•᎑•๑)
諏訪原城はいつ、誰が築いたのか?
『武徳編年集成』の永禄12年(1569年)11月7日の記事に、
遠州金谷の台諏訪原5箇所に築く。
http://www2.dhii.jp/nijl_opendata/NIJL0138/049-0202/290
とあり、武田信玄が、金谷台地(諏訪原)に金谷城と5つの砦(付城、羽城)を築いたとされています。この「武田信玄の金谷城」と案内板にある天正元年(1573)築城の「武田勝頼の諏訪原城」が同じ城であるかどうかは不明です。
※武田勝頼:父は武田信玄、母は諏訪御料人。高遠諏訪氏を継いで「諏訪四郎勝頼」と名乗った。武田信玄の長男(嫡男)・義信が廃嫡され、二男・信親は失明、三男・信之は早世したので、武田信玄が元亀4年(1573年)4月12日に亡くなると、「武田」姓に復姓し、武田勝頼と名乗って武田家を継いだ。
武田勝頼は、金谷台地に城取(武田流築城術)の達人・山本勘助の愛弟子・馬場美濃守信房に城(「3.縄張りの傑作の城」)を築かせ(武田信玄の金谷城を改修させ?)、守護社として諏訪神社を建て、地名を「諏訪原」、城名を「諏訪原城」としました。
築城目的は、天徳寺宝衍宛書状には、「久野城、掛川城等の敵城の抑え」であり、浜松攻めの帰路に築いたとあります。
※11月4日付、天徳寺宝衍(佐野房綱)宛の武田勝頼書状
当口出馬について、昌綱より態(わざ)と音問に預かり候。まことに御入魂の至り大慶に候。徳河楯籠もり候浜松を始めとして、在々所々の民屋一宇残らず放火、稲も悉く苅り捨て、毎事本意に達し候。御心安かるべく候。然らば久野・懸川等の敵城押し詰めるべきため、佐夜郡(注:榛原郡の誤り)において、地の利に築き候普請、大略成就候間、籠め置く人数候はば、帰陣せしむべく候。随って出陣の砌、幡龍斎着府候。内々敏に差し返すべくの処、相佐和親の儀、小田原へ申し遣わし、回答相待ち候故、今に滞りあり候。氏政関宿に向かい詰め陣に及び候か。敵味方の備えの様子、いかがか承りたく候。恐々敬白。
11月4日 勝頼(花押)
天徳寺
回章
この手紙を書いたのは、何年の11月4日かというと、『当代記』に似た記事があります。
「3月、信長上洛。27日、南都え出御。翌28日、蘭奢待を切りなされ(中略)此夏、武田四郎、浜松に向け相働き、馬込川向かい迄相働き、所々放火。然れ共、天竜川東の麦を刈らせしめ、高天神え兵粮、過分に入れ置き、さて、帰陣の砌、諏訪原の城を取り立て、普請、丈夫にせしめ、帰国也。」(『当代記』)
織田信長が蘭奢待を切ったのは天正2年(1574年)3月28日ですから、『当代記』の「此夏」は天正2年(1574年)のことでしょう。しかしながら、大久保忠教『三河物語』には「元亀四年癸酉の暮」とあります。
「元亀四年癸酉の暮に、勝頼は遠江ゑ御出馬有りて、久野、懸河へあてて国中へ押し出して放火する。其れより天龍河の上の瀬を乗り越えて濱松へ働き、馬込の河を隔てて足軽をして其れより引き取りて、神増の瀬を越へ、社山を越へ、山梨ゑ出て、すくも田が原に陣を取り給ふ。(中略)勝頼は、諏訪之原へ御陣替を成されて、御越し有りて縄打ちを成されて、城を取り給ふ。」(大久保忠教『三河物語』) ※神増(磐田市神増(かんぞ)。天竜川を渡る浅瀬がある場所)、社山(磐田市社山(やしろやま)。「八代山」「八城山」とも。武田信玄の合代島本陣跡だとも)、山梨(袋井市上山梨・下山梨。「月見里」とも)、螬田(すくもだ)ヶ原(袋井市と掛川市の境。「数雲原」「吉岡原」とも)。
元亀4年7月28日に「天正」に改元しているので、「元亀四年癸酉の暮」は、「天正元年の年末」の誤りなのか、元亀4年が終わろうとしていた元亀4年7月なのか。(「年末」ですと、武田軍が稲や麦を刈りたくても、既に刈り終えていると思います。)
諏訪原城の築城は天正元年なのか天正2年なのか?
言い換えれば、築城時期の問題は、諏訪原城は、天正2年(1574年)の「高天神城攻め」の前に高天神城攻略のために築いたのか、「高天神城攻め」の後に、高天神城への食糧補給路確保のために築いたのかという築城目的の問題でもあるということです。
※後掲の『久保田助右衛門覚書』(川尻村(静岡県榛原郡吉田町)の土豪・久保田助右衛門(93歳)が自らの見聞を子孫のために書き残した覚書)にも天正元年9月築城とありますので、現段階では、案内板通り、天正元年築城としておきます。
ちなみに、信用度が高いとされる『浜松御在城記』には、武田勝頼は、天正元年(1573年)9月に遠江国へ侵攻し、帰路(掛川城主・石川家成が、日坂の切通で武田勝頼を3人のスナイパーに狙撃させたが失敗)、諏訪原城を築くと、天正2年(1574年)9月にも遠江国へ侵攻して浜松城に迫り、放火などしたが、天竜川の増水で渡れなかった(馬込川まで侵攻したとも伝えられている)と書かれています。(『浜松御在城記』等を読むと、もし、徳川家康の居城が天竜川以東の磐田市とかにあったなら、天正2年(1574年)に武田勝頼に討たれていたのではと思われます。居城を天竜川以西の浜松市に築いたので助かったぁ!)
※『浜松御在城記』
・天正元年(1573年)
勝頼も遠州へ出勢。犬居、光明、多々羅、二俣、抱への城々巡見す。制法申し付けられ引き取る処に、掛川の城代・石川日向守家成下知して、日坂切通にて、勝頼を打ち申し候。打ち外し、鉄砲あたらず。然るを馬場、才覚を以て尋ね求め、鉄砲を打ち懸け候3人の内、味岡1人を捕らへ申し候。勝頼、御帰陣に、諏訪原に(牧原とも云)一城を構へ申され候。馬場縄張の由。
・天正2年(1574年)9月
9月、勝頼、浜松表へ御働。久野、掛川へ当て、国中へ押し出で、所々放火し、押し来る折節、天竜川洪水故、川辺に備へを立たれる。(中略)此時、30騎計の大物見と一所に大天竜の際迄出御の様に見へ申し候へ共、馬込、小天竜の際迄出遊ばされ候伝承候。(中略)夫より勝頼は、神舘の辺に陣取り、夜明け、神増の瀬を渉り、社山を越へ、山梨へ出、すくも田が原に滞留。
「長篠の戦い」(天正3年(1575年)5月21日)で武田勝頼に勝った徳川家康は、その勢いで、同年8月24日(23日とも)に諏訪原城を落としました。この時の城主は、久野城主・今福友清(今福浄閑斎)だそうです(異説あり)。今福友清は、諏訪原城で討ち死にしたとも、小夜山(中山峠)へ逃げたとも。
諏訪原城の特徴
諏訪原城の特徴(「1.武田流築城術の典型の城」)は、誰が何と言っても丸馬出(深さ3~7m、幅6~14m、長さ20~70m)です。諏訪原城は丸馬出天国 ヽ(*゚ロ゚)人(゚ロ゚*)ノ゚
諏訪原城は武田勝頼が築いた城ですが、武田勝頼は、天正元年(1573年)9月に遠江徳川領に侵入し、11月にはほぼ完成したと言っており、天正3年(1575年)8月24日に落とされた城ですので、「突貫工事の城」「短命の城」にこのような巨大な丸馬出があったとは考えにくいです。実際、発掘調査によって、徳川家康が巨大化させたことが判明しました。徳川家康は、諏訪原城を手に入れた天正3年から天正9年までの6年間、毎日改修工事をさせたといいます。
徳川家康は、諏訪原城に城主を置かず、「定番衆」(常駐の城番)として、牛久保城主・牧野貞成、松井忠次らを置き、「牧野番」(交替番)として深溝城主・松平家忠(『家忠日記』の作者)らを置きました(異説あり)。
城主を置かなかった理由は不明です。松平家忠『家忠日記』に、「牧野番」の月には、50人位の作業員を連れて行き、毎日、改修工事をさせたとあります。もし城主を置き、その城主だけに改修工事をさせたら、すごい負担になります。それで、徳川家康は城主を置かず、交替制にしたのではないでしょうか? 『浜松御在城記』の作者は、城主は「年中の労ある故」松平忠次で、「然れども敵地へ近きによりてか、西郷孫九郎、戸田新六郎、松平甚太郎等、代々在番と見へたり」と、城主を置き、重要な前線基地なので、戦力補強のために在番を付けたのではないかと推測しています。
また、徳川家康は、、台地の名を「牧野原」、城の名を「牧野城」(「牧野原城」とも)に変えました。名前の変更は、支配者が変わったことをアピールする良い方法です。
周の武王が殷の紂王を牧野(ぼくや。中国河南省新郷市の牧野公園)で破ったという故事があり、定番が牧野貞成であったので、お戯れに「牧野原」「牧野城」と名付け、「家康」の「康」を与えて(偏諱)、「牧野康成」と改名させ、松井忠次を王朝名「周」をとって「周防守(すおうのかみ)」(「周防」(現在の山口県東部)は国名であるが、ここでは「周の武王が防ぐ」の意も兼ねる)にし、「松平」姓を与えて、「松平周防守康親」と改名させたそうです(異説あり)。
※『久保田助右衛門覚書』(久保田家文書)
遠州諏訪城は、天正元年酉9月、馬場美濃守縄張也。山城取様、秘伝。東、北の沢を大堀、小堀として、大手の馬出、諏訪明神の森を用ひ、西、南を空堀として、牧の馬出し、取様、美濃工夫至極の城取也。是は、高天神城攻め落とし、城飼郡を取り給ふ用意也。城主・今福丹波守、天正3年亥8月23日、小夜山へ落ち行く。
浜松方
松平左近将監忠次
牧野右馬允康成
諏訪城乗っ取り、家康公、御感悦。「諏訪城」を「牧野城」と名付け給ふ。右御両人、「牧野城番」として、同国垂木村、川尻村、御加恩有り。此時、「忠次」を御替え下され、「康親」と改む。
※『牛久保密談記』
天正3亥年8月23日(注1)、遠州諏訪原の城落として、松井左近将監忠治、牧野右馬允成定(注2)、堅固に之を守る。家康公、2人が働き感じ思召し、御諱の字を下さる。成定は康成、忠治は康親と成られ、御たはふれのあまりに、「牧野が名字を此諏訪の名にすべし」とて、是より「牧野原」と云。是は牧野、敵軍を紂王に比し、周が防ぐと云心にて、左近を周防守とめされ、御名字迄給はり、松平周防守康親と改む。実は牛久保合戦より唐土の戦をうつしてんと云。
(注1)『久保田助右衛門覚書』も『牛久保密談記』も8月23日に落城とありますが、今川氏真の詠んだ和歌集『今川氏真詠草』の380首目に「八月廿四日諏訪原新城降参」と注記され、下の『常山記談』でも8月24日の落城としています。23日に攻撃して、日付が変わった24日の夜に落城したということかな。
(注2)「牧野成定」は牧野康成の父親で、永禄9年(1566年)に病死しています。
※『常山記談』「松平忠次諏訪原城を守らるゝ事」
天正3年8月、東照宮、諏訪原の城を攻させ給ふ。「此の城は甲州・馬場美濃守氏勝が、城制の法にて築きたりし名高き城なり」といへども、城兵、力、弱りて、24日の夜、城を棄てゝ、小山の城に迯(に)げ落ちける。東照宮、「此地は高天神に往来の要路、駿州・田中、持船の敵と大井川一筋を隔たり。勝頼必ず隙を伺ふべし。誰か此に在て城を守り、敵を防ぐべき」と仰せ有りけるに、松平左近忠次、進み出で、「身不肖に候へども、此城を守り申べし」と申ける。御感有りて、「松平」の姓を賜はり、御諱の字を下され、「松平周防守康親」と申せしは此時よりの事なり。「勝頼が暴悪、殷の紂王に似たり。これより攻め入て打ち滅ぼすべき」とて、諏訪の原の城を「牧野の城」と改められきとなり。
話が前後しましすが、諏訪原城は、台地の先端にあり、東(遠江国と駿河国の国境の大井川)から見上げると「山城」に見えます(「2.地形に守られた「後ろ堅固」の城」)。搦手の細い山道を登りきれば本曲輪ですが、きついです (›´ω`‹ )
とは言え、諏訪原城の南側は旧・東海道(「4.街道と密接に結びついた城」)ですから、大井川岸の東海道53次・金谷宿から旧・東海道「金谷坂」を登れば、諏訪原城の南端(駐車場)に行けます。
「金谷坂」は急で滑りやすいので、江戸時代に特例で石が敷かれたそうです。(現在、石畳の道は、東海道の「箱根峠」「金谷坂」「菊川坂」、中山道の十曲峠(つづらおれとうげ)「落合の石畳」の4ヶ所だけだとか。)
石畳の道は、写真で見るとロマンチックですが、実際に登ってみると、歩きにくくてきついです。
坂の途中に観光施設「石畳茶屋」があります。
諏訪原城南端の駐車場(案内図①)までは車で行けます。
駐車場には、トイレ、ガイダンス施設(2019年4月オープン予定)があり、ガイダンス施設の裏には、無料パンフレット置き場であるポストと、「続日本100名城」のスタンプ置き場であるキャビネットがあります。
ガイダンス施設にはパンフレットやスタンプが置かれるというので、4畳半くらいの広さかと思っていましたが、かなり広い! ジオラマとか展示されるのかな? 期待大です o(^-^)o ワクワクッ♪
諏訪原城の感想
さて、諏訪原城へ行かれた方の感想は、
・好評:「巨大な丸馬出に感動した」「平坦で歩きやすかった」「無料駐車場、トイレがあってよかった」。
・悪評:「ガイダンス施設を早く作って欲しい」(4月下旬の完成予定ですが、4月上旬には完成するようです)、「復元された構造物は二の曲輪北馬出門(薬医門)のみ。事業費は2100万円とのこと。高い!」(不景気で高級木材が売れず、投げ売りされているようです。某神社の手水舎を建てていた宮大工さんが「予定は1000万円以上だったけど、神のご加護で投げ売りの木材(ヒノキ)が見つかって、700万円に抑えられた」と言ってました。二の曲輪北馬出門の木材は現地調達(城跡のスギやクスノキを使っての復元)ですから・・・あの立派な総檜造りの手水舍が700万円なら、もっと安く出来たはずだとは思います。)
といったところです。
「秋葉原」と聞けば、誰もが「(秋葉神社があった)東京のショッピング街(電気街、オタク文化街)」を思い浮かべ、「静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉神社がある台地ですか?」と聞き返す人はいないでしょう。しかし、「諏訪原」と聞くと、「諏訪湖がある長野県諏訪市の諏訪大社がある台地ですか?」と聞き返えされそうです。「諏訪原」という地名は徳川家康によって完全に消されたのです。(地名を消すのは簡単です。新しい地名を考え、その新地名を城の名などにして広めればいいのです。)「牧之原」と聞けば、「東名の牧之原SA、相良牧之原ICがある静岡県牧之原市。茶処ですね」と通じます。
徳川家康によって大改修された今の諏訪原城を武田信玄が見たら「儂が築いた金谷城とは違う」、武田勝頼が見たら「儂が築いた諏訪原城とは違う」ということでしょう。個人的には「徳川家康が築いた牧之原城」とすれば、所在地も分かって良いと思うのですが、あまりにも「丸馬出」の印象が強く、「丸馬出=武田流築城術」という公式があるので、「諏訪原城」を「牧之原城」には変えられないのでしょう。(徳川家康は、地名を「諏訪原」から「牧之原」に代えることには成功しましたが、丸馬出を巨大化させたために、城名を代えることには失敗したということですね。)
カモシカは、諏訪原城に住んでいるわけではなく、行動範囲が広いので、諏訪原城にいる時に来れば(運が良ければ)見られるとのことです。(ちなみに、私はまだ見てません (´;д;`))
諏訪原城周辺の見所
明治維新を迎え、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が駿府(静岡県静岡市)に配されると、随従した幕臣達は、牧之原に移住し、開墾して茶畑としました。「幕臣牧之原入植120年 記念碑」の「牧之原居住之開墾方惣人員」の中で気になる人物は、やはり、谷口原居住17名の内の中條景昭と今井信郎ですね。
中條景昭は、徳川慶喜を守る精鋭隊の隊長で、牧之原茶園の開拓の指揮者です。
今井信郎は、榛原郡初倉村(現在の静岡県島田市初倉地域)の村長になった人ですが、幕末史ファンには、「坂本龍馬の殺害現場・近江屋にいた見廻組のメンバー」として知られています。なお、今井信郎屋敷跡(静岡県島田市阪本)に平成30年(2018年)10月9日、日本最大クラスの石像(胸像)が建てられました。また、同地の「イマイ桜」は、正月前後に咲く早咲き桜です。
※今井信郎(1841-1918):中條金之助景昭を慕い、明治11年(1878年)に牧之原に入植した。明治39年(1906年)に初倉村4代目村長に就任し、地域の産業や教育の発展に尽力した。大正5年(1916年)に脳卒中で倒れ、2年間の闘病生活の後、大正7年(1918年)に他界した。
城郭/寺院
諏訪原城付近の城郭、寺院は・・・徳川家康が諏訪原城攻略時に本陣を置いたという火剣山砦(静岡県菊川市富田)に佐夜山久延寺(静岡県掛川市佐夜鹿)、徳川家康の側室・茶阿局(金谷出身)が梵鐘を寄進した金龍山洞善院(静岡県島田市金谷緑町)くらいかな。
武田信玄が、金谷台地(諏訪原)に築いた金谷城と5つの砦を探しませんか?
※金龍山洞善院:茶阿局(松平忠輝の生母)が寄進した大梵鐘は、第2次世界大戦時の金属供出令により、昭和17年(1942年)18月8日に供出。茶阿局の位牌には、「(表)朝覚院殿貞誉宗慶大姉/(裏)元和7年酉6月12日 俗名阿茶」とある。俗名が「茶阿」ではなく、「阿茶」であるのが不思議である。
──諏訪原城の周辺には茶畑しかない?
いえいえ、観光施設がたくさんありますよ! SLにも乗れる!
あちこち回って暗くなったら、牧之原公園へ。牧之原公園から夜の金谷や島田の町を見ると・・・ (ღ*ˇᴗˇ*)。o♡絶景♡
以上で「武田流築城術の最高傑作」諏訪原城の攻略終了!
──どこが「最高」かって?
「武田流築城術」の特徴の1つに「丸馬出」(三日月型の堀と扇形
コメント(ご意見、ご感想)お待ちしてます m(_ _)m
さて、次はどの城を攻めようかな。
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2つの牧野城
https://note.mu/ryouko/n/n94bca5492371
諏訪原城ビジターセンター
平成31年(2019)3月23日(土)オープン
開館時間:10:00~16:00
休館日:月曜日、年末年始
入場料:無料
施設内容:展示室、事務室、倉庫
https://www.city.shimada.shizuoka.jp/fs/1/3/9/2/5/3/_/8_39kai.pdf