エピローグ ~雲母坂と旧所名刹~
京都・一乗寺エリアは、清水寺などがある東山の北に位置します。この地は、京都の鬼門とされる比叡山山麓に広がる場所で、昔から京都から比叡山・近江への交通の要衝として開けた里でした。
その交通を担ったのが、「雲母坂」と呼ばれる古道です。この道は、京都から比叡山への最短ルートとして、朝廷から遣わされた勅使も利用したとのこと。
雲母坂は、修学院から比叡山までは細く険しい道ですが、京都の東山を南北に貫く白川通の東側には、今も古の街道の風情が色濃く残っています。
今回はそんな雲母坂に沿って北から南に、江戸時代初め、幕府と朝廷が極端な緊張状態にあった時代の深い歴史を秘めている詩仙堂・圓光寺・曼殊院・修学院離宮を訪ねてみました。
関ケ原の戦い・大坂の陣で幕藩体制を確立した徳川家康・秀忠父子は「武家諸法度」を制定して厳しい大名統制を行ったことは有名です。そして幕府による統制は大名だけでなく朝廷にも及びます。それが「禁中並公家諸法度」です。
こうした朝廷の権威を失墜させる幕府の動きに、時の帝・後水尾天皇は憤慨して退位を強行。修学院離宮は、その後水尾天皇が造営した離宮でした。また、曼殊院は、良尚法親王が門主を務めた寺院。天皇と親王は従兄弟の関係にあり、後に親王は天皇の猶子になっています。
一方、詩仙堂は家康の側近・石川丈山が隠遁生活を送った山荘跡に建つ寺院。また、圓光寺は、家康が伏見に開いた学問所を起源とする寺院です。
そんな幕府と朝廷の複雑な関係を秘めた旧跡・名刹が集まる一乗寺。この静かな山里に隠された歴史を感じながら、散策を楽しんでみましょう。
詩仙堂 ~石川丈山が隠棲した寺院~
文人として名高い石川丈山(1583年~1672年)が1641(寛永18)年に造営、90歳で亡くなるまで隠棲した山荘跡が詩仙堂です。現在の詩仙堂は曹洞宗大本山永平寺の末寺で、詩仙堂丈山寺といいます。
実は、詩仙堂は正しくは「凹凸窠(おうとつか)」と称します。これは、でこぼこした土地に建てた住居という意味です。
丈山はもともと家康のお気に入りの家臣でしたが、大坂夏の陣で抜け駆けという軍記違反を犯して、徳川家を追放されました。
その後、幕府の儒官・林羅山らと交わりながら、紀州藩・広島藩に仕えた後に、京都に舞い戻り、詩仙堂を造営。在京の文化人や風雅の士と交わりながら、ここに暮らしました。
丈山は、この時期の日本の漢詩を代表する人物で、さらに儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通し、「煎茶の祖」ともいわれるほど、各道において第一級の文化人といわれています。
ですから詩仙堂は、建物も庭も含めて、その全てが丈山の美意識を反映しているのです。
書院は、3階建ての嘯月楼の他、仏間・座敷、・詩仙の間・読書の間など多くの部屋があります。
アンペラに丸竹の竿縁天井が特徴の詩仙の間に掲げられた、狩野探幽筆の中国の詩家36人の肖像が印象的です。
書院前の白砂にツツジと山茶花の古木がある唐様庭園は、作庭の名手・丈山ならではの意匠に溢れています。書院の縁に座し、ゆったりと鑑賞しましょう。
眺めているだけで時の流れが止まったような、大らかで幸せな気分にさせてくれる庭園です。
暫し唐様庭園を眺めていると、静かさに馴れた耳に「コーン」という透明感のある音が聞こえてきます。
これが丈山考案とされる鹿威しの音。
音をたどって境内に降りると、フジ・カキツバタなど1年を通じて途絶えることなく様々な花が咲く回遊式庭園があるので、四季折々に花鳥風月を感じながら歩いてみましょう。
詩仙堂に隠遁した丈山ですが、「実は幕府のスパイだった」との説があります。
それは、修学院離宮が近いため、離宮での朝廷の動向を探っていたというものです。
物見櫓のような小楼・嘯月楼からは洛中一帯を見下ろせるため、この櫓をして監視台であったという人もいます。事実、京都所司代の板倉勝宗もたびたび詩仙堂を訪れています。
また、後水尾天皇ら朝廷側も、丈山を招こうとしたことからも、なにやら謎が潜んでいるのではと詮索したくなるのは歴史好きの悪い癖でしょうか。
しかし、現在の詩仙堂は、そんなきな臭さなど微塵も感じさせません。本当に静寂が似合うお寺なのです。
圓光寺 ~家康が創設した学問所が起源~
圓光寺は、臨済宗南禅寺派の寺院で、秋の時期、境内を彩る紅葉の美しさで知られますが、同寺はその起源において、家康と深い関係があります。
大変な学問好きであったとされる家康は、1601(慶長6)年、国内教学の発展を図るため、下野足利学校第9代学頭・三要元佶を招き、伏見に学問所・洛陽(圓光寺)学校を設立。1667(寛文7)年に、現在地に移転して圓光寺となったのです。
洛陽(圓光寺)学校が開かれると、家康は僧俗を問わず入学を許しました。また、儒教を重んじた家康は、孔子家語・貞観政要など多くの書籍を刊行します。これらの書物は伏見版・圓光寺版と称され、圓光寺にはその出版の際に使用された木活字が現存しており、日本の出版文化史上、貴重な資料といえるでしょう。
そんな圓光寺も、明治維新後の廃仏毀釈で荒廃したものの、その後、再興されました。
庭園は、枯山水の奔龍庭と、中門をくぐると紅葉と苔が殊の外美しい十牛之庭があります。
コロナ禍を経て国内外の観光客が増加することによる感染等の防止のため、今年は秋の特別紅葉拝観としてHPからの予約制を採用しています。
確認・予約の上参詣するとよいでしょう。
ただ紅葉が美しいということは、木々が緑に煌めく時期もまた美しいということ。
禅の庭である十牛之庭とゆっくり向き合うのは、紅葉以外の季節が良いかもしれません。
曼殊院 ~格式を誇る門跡寺院~
京都でタクシーに乗り「何度も京都へ来ている人におすすめの寺院は」と尋ねると、多くの運転手さんが名前を挙げるのが曼殊院です。
伝教大師最澄が延暦年間(782~806年)に、比叡山上に建てた坊で、北野天満宮の近くに別院を建て「曼殊院」と称したのが始まりといいます。
同寺は、青蓮院・三千院・妙法院・毘沙門堂とともに「五箇室門跡」の一つに数えられる格式を誇る寺院。門跡とは、皇族や貴族の子弟が代々住持となる名刹のことです。
1656(明暦2)年、天台座主の良尚法親王が門主になり現在地に移転しました。
親王は桂離宮を造った八条宮智仁親王の子で、茶・花・書などの各道に造詣の深い、同時代きっての文化人。修学院離宮を造った後水尾天皇とほぼ同時代、幕府による朝廷統制政策時代に生きた人です。
境内には建つ大書院・小書院・八窓軒茶室が建ち、庫裏は重要文化財。枯山水の庭園は、小堀遠州作と伝わり、国の名勝に指定されています。
書院に座し、ゆったりと庭園を眺めるのが曼殊院の至高の楽しみ方といえるでしょう。
ちなみに枯山水庭園に配された鶴島の松の根元に曼殊院型灯籠があり、別名「キリシタン灯籠」といいます。
日本古来の神道を司る天皇家と深い関係の門跡寺院に、なぜキリシタンの名が?
その理由として、良尚法親王の母・常照院が、キリシタン大名である宮津藩主・京極高知の息女であり、灯篭はその母から親王へ贈られたものと伝わります。
また、八条宮家の家臣であり、親王の父・智仁親王の片腕であった本郷一族が、キリシタンとして処刑されたことへの鎮魂と、苛烈なキリシタン弾圧を行う幕府への反発であったかもしれません。
曼殊院を訪れて、そんな歴史に思いをめぐらせてみてはいかがでしょう。
修学院離宮 ~後水尾上皇が造営~
1629(寛永6)年に起きた紫衣事件がきっかけとなり、譲位した後水尾上皇を慰撫するため江戸幕府が造営したといわれる山荘です。紫衣とは紫色の法衣や袈裟で、高徳の僧や尼僧が朝廷から賜ったもので、朝廷にとっては重要な収入でした。それを幕府が禁止したのです。
幕府の禁中介入政策に怒り心頭、憤懣やるかたない後水尾天皇は譲位して上皇となり、自ら離宮の造営の場所を決め、さらに自ら設計したといわれます。
紫衣事件などで圧迫を受けた、後水尾天皇は幕府に諮ることなく1629(寛永6)年に、第二皇女の興子内親王に譲位します。内親王は、2代将軍徳川秀忠の娘・和子が入内して生まれたので、徳川の血を引く天皇が誕生したかに見えますが、実はそこに後水尾天皇の意図があったのです。
それは、女帝は生涯独身であるのが習わしであり、この譲位は、徳川の血が代々皇統に流れるのを防いだことになります。
この後水尾上皇の行動に、秀忠は激怒したとされます。
修学院離宮は、1656(明暦2)年から3年間をかけて完成しました。
山荘は下御茶屋・中御茶屋・上御茶屋の3つで構成され、それぞれが松並木の道で結ばれます。
中でも上御茶屋は、浴竜池を中心に小茶亭を配した大庭園。山腹に立つ茶室隣雲亭からの眺望はまさに絶景です。
離宮の拝観は事前の申し込みが必要ですが、この眺望を見るだけでも手続きを行う価値があると思います。
後水尾上皇は離宮を造営することで、幕府に対しての怒りのはけ口にしたのか、それとも造営費用を幕府にもたせることで経済的な負担を負わせたのか。
修学院離宮を訪ねて、上皇の心情をあれこれ考察してみるのも興味深いのではないでしょうか。
※参考文献
京都歴史文化研究会著 『京都庭園ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ 2010年3月
京都歴史文化研究会著 『京都歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ 2023年10月
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