城,神社寺巡り

【わずか数キロに2つの本願寺系寺院】なぜ本願寺は東西に割れたのか?

画像 : 大坂本願寺復元模型(境内部分) 大阪歴史博物館蔵  wiki c ブレイズマン

大阪府八尾市には、わずか数キロの範囲の中に、二つの「御坊(ごぼう)」が並ぶように存在しています。

八尾御坊と久宝寺御坊。地図で見ればすぐ近く、実際に歩いてもそれほど離れてはいません。
どちらも町の中に静かに佇む寺院で、初めて訪れた人の目には大きな違いは感じられないかもしれません。

ですが少しだけ立ち止まって見てみると、どこか不思議にも思えてきます。

なぜこれほど近い場所に、それぞれ別の流れをくむ御坊が存在しているのか。
その背景には戦国の動乱の中で表面化した本願寺内部の対立がありました。

今回は、浄土真宗が本願寺派と大谷派へと分かれていった背景をたどりながら、八尾御坊と久宝寺御坊を散策してみたいと思います。

浄土真宗の本願寺派と大谷派の分裂

画像 : 織田信長肖像(秀吉清正記念館所蔵)  public domain

発端は、1570年から1580年にかけて続いた織田信長と石山本願寺との争い、いわゆる石山合戦でした。

信長は天下統一を進める中で、強大な勢力を持つ石山本願寺を無視できず、これを制圧しようとしたのです。
一方、本願寺側もこれに抵抗したため、両者の間で長期にわたる戦いが起こりました。

戦いが続く中で、本願寺の内部でも意見が分かれます。
信長と和睦して教団を守るべきか、それとも徹底抗戦を貫くべきか、対応をめぐって対立が起こりました。

宗主の顕如(けんにょ)と三男の准如(じゅんにょ)は和睦を選びましたが、長男の教如(きょうにょ)は最後まで抗戦を主張しました。

画像 : 顕如(けんにょ)public domain

そして顕如は最終的に和睦を決断し、石山本願寺は信長に明け渡されます。

しかし、このときに生じた溝が埋まることはありませんでした。

1592年、顕如の死後、長男の教如が本願寺を継ぎますが、その後、宗主の座は三男の准如へと移り、教如は退くことになります。
決まったはずの継承が覆されたことで教如の側に立つ人々の反発も強まり、対立は決定的なものとなっていきました。

宗主が教如から准如へと変わるということは、教団の方針そのものが「徹底抗戦」から「和睦路線」へと切り替わることを意味します。
教如を支持していた人々にとっては単に指導者が変わったのではなく、自分たちの信念が退けられたことと同義だったのです。

その後、本願寺は准如を中心として豊臣秀吉の保護を受け、京都・七条堀川に寺地を与えられ、現在の西本願寺へとつながっていきます。

一方で、宗主の座を退いた教如は徳川家康に近づき、京都・七条烏丸の地を与えられて新たな本願寺の基礎を築きました。
これが後の東本願寺です。

こうして本願寺は東西に分かれ、准如を中心とする西本願寺(本願寺派)と、教如を中心とする東本願寺(大谷派)という二つの流れを持つことになりました。

画像:八尾御坊の山門 筆者撮影

八尾御坊:浄土真宗大谷派「大信寺」

八尾御坊と呼ばれる大信寺は、ひとつの寺が新しく建てられたというよりも、人の移動と選択の積み重ねの中から生まれた場所と言ったほうが近いかもしれません。

慶長年間、本願寺内部の対立をきっかけに、久宝寺御坊のあった久宝寺村から一部の門徒が離れ、新たに八尾へと移ってきました。
その中心にいたのが徳川家康の支援を受けた教如で、1607年、この地に大信寺を創建します。

やがて大信寺を中心に八尾寺内町が形成され、境内は最盛期には440メートル四方にも及ぶ広がりを持つようになります。
そこは単なる寺院ではなく人が集まり、暮らし、そして守られる場でもありました。

こうした発展の背景には、大信寺が東本願寺と深い関係を持つ重要な拠点であったことも関係しています。

実際、1788年の天明の大火で東本願寺が焼失した際には、大信寺の本堂が京都へ移されて仮御影堂として用いられ、その後1799年に再びこの地へ戻されました。

その後も大信寺は災害や時代の変化の中で何度も姿を変えながら、地域の信仰の中心であり続けてきました。

画像:八尾御坊の本堂 筆者撮影

現在の本堂は棚橋諒博士の設計によるモダンな建築で、商店街に面して建っています。

かつての寺内町の面影はほとんど残っていませんが、ここにかつて大きな宗教都市が広がっていたことを思うと、その静けさがかえって印象に残ります。

1767年に再建された旧本堂は東京都港区の善福寺へ移築され、今も別の場所で使われ続けています。

八尾で生まれた建物が、遠く離れた地で今なお息づいているのです。

久宝寺御坊:浄土真宗本願寺派「顕証寺」

画像:久宝寺御坊の山門 筆者撮影

一方の久宝寺御坊・顕証寺は、大信寺よりもさらに古くからこの地に根を下ろしてきた寺院です。

およそ500年前、本願寺第8代宗主・蓮如によって建立されたと伝えられ、当初は西証寺と呼ばれていました。
その後「顕証寺」と改められ、現在に至ります。

もともと久宝寺は、浄土真宗の有力な拠点の一つでした。
しかし本願寺内部で対立が生じると、この顕証寺は本願寺派、すなわち後に西本願寺へとつながる和睦路線の側に立ちます。

そして、その決定に納得できなかった門徒たちが、この地を離れていきました。
その行き先が八尾であり、後に大信寺へとつながっていきます。

顕証寺はまた、親鸞の血脈と法脈を受け継ぐ寺院として知られ、歴代住職の中から本願寺宗主や新門となる人物も輩出してきました。現在の住職は20代目にあたります。

画像:久宝寺御坊の本堂 筆者撮影

現在の伽藍は、創建当初の場所からやや移動した地に、1716年に再建されたものを基礎としています。

かつては本堂や対面所、太鼓楼、茶室などを備えた大規模な寺院でしたが、その後規模は縮小しました。
それでも周辺には寺内町の面影が残り、町並みの中に歴史が溶け込んでいます。

このように、わずかな距離の中に並ぶ二つの御坊は、ただそこに在り続けることで今もその歴史を伝えているのです。

参考 : 八尾市公式「蓮如と八尾」西本願寺公式「本願寺の歴史」他
文:撮影 / 草の実堂編集部

  • Xをフォロー
好きなカテゴリーの記事の新着をメールでお届けします。下のボタンからフォローください。

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

草の実堂Audio で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 春日大社の「源流」は大阪だった?枚岡神社が「元春日」と呼ばれる理…
  2. 【まだ間に合う!京都のおすすめ紅葉】嵐山・嵯峨野エリア ~祇王寺…
  3. 秋の行楽シーズン!京都の穴場観光 『洛陽十二支妙見めぐり』に行っ…
  4. 【上野公園の2つのパワースポット】五條天神社と花園稲荷神社(お穴…
  5. なぜ薬師寺は復活できたのか「100万巻写経が生んだ再興の物語」
  6. 伊勢神宮に参拝に行ってきた【令和元年 内宮と外宮】
  7. 聖武天皇が都を転々とした「彷徨の時代」とは 〜平城宮跡に行ってみ…
  8. 日本最古の神社の一つである大神神社(三輪明神)に行ってみた

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

豊臣秀次は本当に冤罪か? 聚楽第外堀の拡張が示す謀反計画の可能性【秀次切腹事件】

造営からわずか10年で、痕跡をとどめぬほど徹底的に破却された聚楽第(じゅらくだい)。豊臣政権の京…

始皇帝陵で「ヨガのポーズの人形」が発見される

新たな発見2011年6月4日、更に詳しい発掘調査が開始した。「百戲俑坑」の位置は…

グリーンベレーについて調べてみた

特殊部隊と聞けば、ほとんどの人がドアを蹴破り、屋内に侵入して敵を征圧するイメージがあるだろう。確…

シャオシャオとレイレイ、中国へ返還「パンダ」の名前をめぐる2千年の歴史

上野動物園にいる双子のジャイアントパンダ、シャオシャオとレイレイが、2026年1月下旬に中国…

天才軍略家・源義経に欠けていたもの…『平家物語』逆櫓論争エピソードを紹介【鎌倉殿の13人】

源平合戦のヒーローと聞いたら、多くの方が思い浮かべるであろう源義経(みなもとの よしつね)。…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP