平安時代の中頃になると、諸国に赴任した国司が幣帛(へいはく)を地元の有力神社に頒布する、国司神拝が行われるようになった。
国司が巡拝する神社は「一の宮」と呼ばれ、ここに「諸国一の宮制」が成立した。
そして、これとほぼ同時に成立したのが朝廷による幣帛頒布の「二十二社制」だ。
「二十二社」の制度は、後朱雀天皇の1039(長暦3)年に22社目の日吉(ひえ)社が加わり、その約40年後の白河天皇の1081(永保元)年に確立したとされる。
同制度は、朝廷が都とその周辺部に点在する有力神社の中から22社(当初は16社)を選び、祭祀の日に天皇の勅使が参向し、幣帛を供えるというもの。
22社は、朝廷から王城鎮守を任され特別な崇敬を受けた神社で、年2回の祈念穀奉幣、天変地異、祈雨・止雨、あるいは国家の重大事における奉幣が行われた。
格式により上七社・中七社・下八社に分けられた
二十二社は、『日本紀略』によると、朝廷による格式に則りその順番に「上七社」「中七社」「下八社」に分けられた。
そしてその筆頭は伊勢神宮で、同社は別格とされている。
選ばれた神社は、平安京に近い山城国・大和国の土地神、祈雨・止雨の神、天皇家の祖先神、藤原氏の氏神、天皇家から臣籍降下した氏族の氏神などである。
それでは、「上七社」「中七社」「下八社」ごとに二十二社を紹介していこう。
なお、社名は『日本紀略』の記載名による。
伊勢神宮を筆頭とする最上格式の「上七社」
「大神宮」は、伊勢国の「伊勢神宮」で、伊勢内宮と伊勢外宮の2社。
二十二社の筆頭で、内宮は天皇家の皇祖神・天照大神、外宮は豊受大神を主祭神として祀る。
「岩清水」は、山城国の「石清水八幡宮」。天皇家の祖先神である神功皇后・応神天皇を祀る。
特に応神天皇は八幡大菩薩と同一神とされ、伊勢神宮に次ぐ「第二の宗廟」として皇室から格別な崇敬を受けた。
「賀茂」は、山城国の一の宮である「賀茂別雷神社(上賀茂神社)」・「下鴨神社(賀茂御祖神社)」の2社を指す。
賀茂の名は、古代より京都を開拓した渡来人・秦氏の一族である。
賀茂の地は、古くから古代豪族賀茂氏の勢力範囲であり、両社は平安京の守護神と崇められている。
「松尾」は、山城国の「松尾大社」。同社も京都開拓を担った秦氏と深い関係にあり、その総氏神という。
祭神は大山咋神で社殿の建立は飛鳥時代とされるが、それ以前に松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座に祀っていたと考えられる。
上賀茂・下鴨両社と並んで、京都最古級の神社だ。
「平野」は、山城国の「平野神社」。奈良時代末期には平城宮の宮中に祀られており、平安遷都と同時に平野の地へ遷座したと伝わる。
皇室を離れ臣籍降下した、源氏・平氏・高階・大江・中原・清原・秋篠各氏他の天皇外戚の氏神とされる。
同社は京都有数の桜の名所として知られ、春の時期、約60種400本が競うように開花する。
珍種が多いのは臣籍降下した氏族が、蘇り・生産繁栄を願い各家伝来の桜を奉納したからともいわれる。
「稲荷」は、山城国の「伏見稲荷大社」。全国に30,000社あるといわれ親しまれている「おいなりさん」の総本宮。
祭神である稲荷大神で、稲荷信仰の原点・稲荷山に、今から1,300年の昔、711(和銅4)年に鎮座したと伝わる。
「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣・商売繁昌・家内安全・諸願成就の神として、広く信仰を集めている。
「春日」は、大和国の「春日大社」。
同社の始まりは藤原不比等が、茨城県鹿島神宮より武甕槌命を神山・御蓋山山頂浮雲峰に迎えたとされる。
ただし社伝では、768(神護景雲2)年に称徳天皇の勅命により、藤原永手が社殿を造営したという。
いずれにせよ、藤原氏の氏神として、その隆盛とともに繫栄した。
藤原氏などの有力貴族の氏神が含まれる「中七社」
「大原野」は、山城国の「大原野神社」。
同社は、784(延暦3)年、桓武天皇が長岡京に遷都をした際、藤原氏の氏神・春日大社の神々をこの地に最初に祀ったことにより「京春日」といわれる。
平城京の春日大社とともに、平安京における国家鎮護の社とされた。
藤原氏一族では女性が誕生すると、中宮・皇后になれるように同社に祈願し、祈りが通じてその地位に就くと、華美な行列を整えて参拝することが慣習となった。
「大神」は、大和国の一の宮である「大神神社(おおみわじんじゃ)」。
三輪山そのものを御神体として仰ぐ、原始の神道を今に伝える日本で最古級の神社だ。
主祭神として、大物主大神と少彦名神を配祀。大物主大神は、国造りの神である大国主神の幸魂・奇魂とされる。
『記紀』には、崇神天皇の時代に疫病が流行ったため、大物主大神を祀ったとする伝承がある。
「石上」は、大和国の「石上神宮(いそのかみじんぐう)」。
同社は物部氏の総氏神として、石上大神(いそのかみのおおかみ)を祭神として祀る。
石上大神は、神剣・韴霊に宿られる霊威で、第10代崇神天皇7年に現在の地である石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られたとされる。
同社にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地(ごほんち)と称し、その中央に地中深く主祭神(神剣・神宝)を埋斎し祀っていた。
「大和」は、大和国の「大和神社(おおやまとじんじゃ)」。
同社の主祭神・日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は、崇神天皇の時代にその宮中内に天照大神とともに奉斎されたが、天皇が神威を怖れ、市磯邑(大和郷)に移された。
これが、同社の創建であると伝えられている。
また同社は、戦艦大和の守護神とされ、摂社・祖霊社には、大和と最期をともにした2,736柱の霊が祀られている。
「広瀬」は、大和国の「廣瀬大社」。
同社は、曽我川・大和川・飛鳥川など奈良盆地内を流れる河川が合流する地点に鎮座することから、川の神を祀る社として、龍田の風神・廣瀬の水神と崇められてきた。
その創建は、社伝では崇神天皇の時代とされるが、『日本書紀』には、675(天武天皇4)年4月10日条に、大忌神を広瀬河曲に祀ったとの記述があり、これが実質上の創建年代と考えられる。
「龍田」は、大和国の「龍田大社」。川の神である廣瀬大社と並び、同社は風神として崇敬された。
また、創建年代も廣瀬大社同様に、天武天皇の時代と考えられる。
近年は、風の難を防ぐことから航海安全の信仰を集め、航海・航空に関連する企業や人々の信仰を集めている。
「住吉」は、摂津国の一の宮である「住吉大社」。同社は祭神として、伊弉諾尊が禊祓を行った際に海中より出現した底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神。
さらに三神を鎮斎した伝わる神功皇后を祀る。
住吉大社は、神道で最も大切な禊祓(みそぎはらい)で出現し住吉三神を祀る全国2,000社以上の住吉神社の総本社として、航海安全・和歌の神として崇敬を集めている。
水の神・風の神・貴族の氏神など多彩な「下七社」
「日吉」は、近江国の「日吉大社(ひよしたいしゃ)」。
同社は、比叡山の西方の麓・大津市坂本に鎮座する天台宗の護法神である。
その創建は、社伝では崇神天皇の時代とされ、平安京遷都の際に、この地が都の表鬼門(北東)にあたることから、平安京の魔除・災難除を祈る社として朝野の崇敬を集めた。
全国で4,000社に近い日吉・日枝・山王神社の総本宮として、山王総本宮と称される。
「梅宮」は、山城国の「梅宮大社」。同社は、橘氏の氏神として知られ、平安時代前期に嵯峨天皇の皇后で仁明天皇(にんみょうてんのう)の母である橘嘉智子(檀林皇后)によって現在地に遷座したとされる。
社伝では、子ができなかった橘嘉智子が同社に祈願したことで皇子を授かったといい、その伝承に因んで子授け・安産の神として信仰され他、酒造の神としても信仰されている。
「吉田」は、山城国の「吉田神社」。
同社は、鎌倉時代以降は、卜部氏が神職を相伝するようになり、室町時代末期には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始。その拠点として境内に末社斎場所大元宮を建立した。
しかし、元々は859(貞観元)年に、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まり、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。
「廣田」は、摂津国の「廣田神社」で、皇室の祖先神を祀る。
同社の主祭神・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)は、伊勢神宮の天照大神の荒魂(あらみたま)である。荒魂とは、神の持つ荒々しい性格で、人に祟りを及ぼすような霊力をいう。
神功皇后の三韓征伐の際に天照大神の神託があり、和魂が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと言ったとされ、その荒魂を廣田に祀ったとされる。
「祇園」は、山城国の「八坂神社」。
同社の元の祭神であった牛頭天王が、祇園精舎の守護神であることから、祇園社と呼ばれていたが、明治の神仏分離令で素戔嗚尊に改められ、八坂神社となった。
毎年、7月1日から31日まで、1か月にわたって繰り広げられる祇園祭は同社が別当を務める。
「北野」は、山城国の「北野天満宮」。
同社は、福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、菅原道真を祭神として祀る全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社だ。
「丹生」は、大和国の「丹生川上神社上社」・中社・下社」の総称だ。
同社の祭神・罔象女神は、伊邪奈岐命・伊邪奈美命の子神で、水一切を司る神様。水利の神・水の祖神として、古くは雨師の神として、旱ひでり続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど水神として朝野の崇敬を集めてきた。
創建は、社伝によると675年・天武天皇4年とされるが、戦国時代以降は所在地が不明となった。
しかし、明治維新後に研究調査が行われ、川上村に鎮座する神社が有力視され、それぞれ丹生川上神社となったという。
「貴布禰」は、山城国の「貴船神社」。同社の創建の年代は不詳だが、社伝によれば、天武天皇6年には社殿造替が行われたとされ、その創建は極めて古いと考えられる。
また、約1600年前に神武天皇の皇母・玉依姫命が現在の大阪湾から船に乗り、淀川・鴨川・貴船川を遡り、水源の地として現在の奥宮に至り、祠を建てたのが同社の起源との伝承がある。
日照りの時には黒馬を長雨の時には白馬・赤馬を献じて、雨乞い、雨止みを祈願した水の神として、歴代朝廷から篤く信仰された。
二十二社の内、有力な神社には天皇の参拝が行われた。これを神社御幸と称するが、天皇自身が直接本殿などで神拝することはなかった。
天皇は社頭近くの御在所まで出向き、そこからは祭使が神前に天皇の御願を伝えた。これは、天皇が直接参拝できるのは、皇祖神・天照大神を祀る伊勢神宮に限られていたからだという。
二十二社制は、室町時代半ばまで続いたが、以降は一時途絶した。
しかし、江戸時代に入り上七社を対象とした七社奉幣が再開し、かろうじて復興を遂げている。
※参考文献
古川順弘著 『神社に秘められた日本史の謎』宝島社 2024.9
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。