
画像 : 十字軍のコンスタンティノープルへの入城 public domain
十字軍とは、11世紀末に始まった、イスラム教徒の支配下にあった聖地エルサレムを奪還するために、キリスト教徒たちが立ち上げた軍事遠征である。
しかしその実態は、理念とはかけ離れたものであった。
参加者の多くは、まるでゴロツキ・チンピラのような烏合の衆であり、遠征先では略奪・殺戮・暴行が横行した。
彼らの行動は、しばしば宗教的「聖戦」の名のもとに正当化されつつも、現地住民にとっては蛮行そのものであった。
そんな度し難い十字軍とは一線を画す存在として現れたのが、テンプル騎士団である。

画像 : テンプル騎士団の制服(戦闘服ならびに僧服)public domain
彼らは信仰と規律を重んじる戦士集団として、軍事力のみならず道徳的評価においても高い名声を得た。
やがて騎士団は富と権力を手に入れ、欧州社会において無視できぬ存在となっていくが、その栄光は、ある疑惑によって突如として崩れ去ることになる。
13世紀末から14世紀初頭にかけて、テンプル騎士団は「異端」の烙印を押され、投獄と処刑の嵐に巻き込まれていったのだ。
当時の裁判記録の中には、彼らが「崇拝していた」とされる、ある謎めいた存在の名が記されている。
その名は、バフォメット(Baphomet)。
今回は、この不可解な存在とテンプル騎士団の悲劇に迫っていく。
テンプル騎士団壊滅までの流れ

画像 : 中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃 public domain
1099年、十字軍による第1回遠征は、エルサレムの奪還という当初の目的を達成した。
だが、参加者の多くは軍事の素人であり、奪還後の聖地周辺の治安を守るには力不足であった。
こうした混乱の中、1119年に設立されたのが、テンプル騎士団である。
彼らは聖地を目指す巡礼者の護衛を目的とし、修道士としての信仰と騎士としての戦闘能力を兼ね備えた存在として、次第に注目を集めていった。
騎士団は主に貴族階級の出身者で構成され、カトリック教会、特に教皇の強力な後ろ盾のもとに、宗教的かつ軍事的な権威を確立していく。
やがて彼らは聖戦における活躍に加えて、ヨーロッパ各地での所領経営や金融業務にも従事し、修道会の枠を超えた大組織へと発展する。
独自のネットワークと膨大な資産を築き上げたテンプル騎士団は、中世屈指の経済力と軍事力を誇る存在となっていった。
しかし1187年、エルサレムが再びイスラム勢力に奪還されたことで、騎士団はその影響力を次第に弱めていくことになる。
その後も存続はしたものの、かつての威光には陰りが見え始めた。
トドメとなったのが、フランス国王フィリップ4世(在位1268~1314年)による騎士団への弾圧である。

画像 : フィリップ4世 (フランス王)public domain
国王がなぜ弾圧を行ったかは諸説あるが、騎士団からの借金を踏み倒すためとも、その豊富な財産を略奪したかったがためともされている。
1307年10月13日、フランス国内の騎士団員たちは一斉に逮捕され、異端審問にかけられた。
審問官の多くは、騎士団の権威を快く思わぬ者たちで構成され、悪魔崇拝・背教・同性愛・不敬など、100を超えるさまざまな罪状がでっち上げられたとされる。
団員たちは有無を言わさず過酷な拷問にかけられ、罪の自白を強制させられたのち、一人また一人と処刑されていった。
最終的に財産の全てが没収され、騎士団は背教者の汚名を着せられたまま、壊滅してしまったのである。
「バフォメット」とは何なのか

画像 : アンティオキアを攻める十字軍 public domain
前述したように、テンプル騎士団に対する異端審問の中で、団員たちが崇拝していたとされた存在の名が記録に残っている。
それが「バフォメット(Baphomet)」である。
この名が史料上に初めて現れるのは、1098年のアンティオキア攻囲戦においてである。
アンティオキアはかつて東ローマ帝国の支配下にあったが、1085年頃にはイスラム勢力の手に落ちていた。
ある十字軍兵士の手紙には、イスラム教徒たちが「バフォメト(Baphometh)」の名を叫んでいたと記されている。
この記述は曖昧であり、文脈からしても神名を呼んだのか、罵声をあげたのか、詳細は明らかではない。
それから1300年代初頭頃までの間に、バフォメットの名は歴史上に散発的に登場したが、その正体について詳しく言及されることはなかった。
一説によるとバフォメットの名は、イスラム教の預言者マホメットが訛ったものだともいわれている。
このように、神話も伝承もない謎めいた存在のバフォメットであったが、その後の1307年の異端審問の際には、拷問にかけられた団員たちが「異教の神」あるいは「悪魔」としてこれを崇拝していた、ということにされてしまった。
団員たちが自白したとされる内容もバラバラであり、その姿は3つの顔を持つ異形だったり、猫であったり、両性具有であったりと、一貫性に欠けていた。
いずれにせよ敬虔なクリスチャンであるはずの団員たちは、よく分からない異教の悪魔を崇拝していた罪で、片っ端から処罰されてしまったのである。

画像 : 火あぶりにされる団員 public domain
近世におけるバフォメットの解釈
このように実態が不明瞭なバフォメットであったが、その姿や設定に関する肉付けは19世紀以降、盛んに行われるようになる。
オーストリアの歴史研究者、ジョセフ・フォン・ハンマー・プルグスタル(1774~1856年)は自身の論文内で、両性具有の異形の怪物の図像を提示し、これをバフォメットであると主張した。『※Mysterium Baphometis Revelatum(バフォメットの神秘の解明)』

画像 : ジョセフ・フォン・ハンマー・プルグスタルの論文内で紹介されたバフォメットの図 public domain
彼はテンプル騎士団を、バフォメットを信奉していた異端であると論じたが、学術的な証拠は一切なく、各方面より批判を受けた。
しかしこのバフォメットの図像は、後世の芸術家やオカルト研究家たちに大きな影響を与えたとされている。
とりわけ決定的だったのが、フランスの魔術師・作家エリファス・レヴィ(1810〜1875年)による『高等魔術の教理と祭儀(1854年)』である。
この著作においてレヴィは、「メンデスのバフォメット」として知られる図像を創出した。

画像 : エリファス・レヴィ『メンデスのバフォメット』 public domain
この図像は、善と悪、男と女、精神と物質といった二元的要素の統合を象徴する存在として描かれており、悪魔というよりは神秘主義的な均衡の象徴とされていた。
しかしそのインパクトの強い外見から、以後のオカルティズムやサブカルチャーにおいて、「悪魔バフォメット」のイメージがほぼレヴィの図像に固定されることとなる。
現代においても、バフォメットといえばこのレヴィの図を元にしたヤギ頭の姿が主流であり、多くの創作作品に引用され続けている。
おわりに
なお、テンプル騎士団の大量逮捕が行われたのは、1307年10月13日である。
この日付が「金曜日の13日」であったことから、のちに不吉な日とされる「13日の金曜日」の語源となったという俗説が存在する。
ただし、この説に明確な裏付けはなく、あくまで後世に生まれた伝承の一つにすぎない。

画像 : ジャック・ド・モレー(テンプル騎士団最後の総長)public domain
また、騎士団最後の総長であったジャック・ド・モレー(1244年頃〜1314年)は、火刑に処される直前、フランス国王フィリップ4世を呪う言葉を口にしたと伝えられている。
「神の法廷に召喚してやる」との言葉通り、モレーの処刑からほどなくしてフィリップ4世は脳卒中に倒れ、回復することなく世を去った。
果たしてこれは偶然か、それともモレーの呪い、あるいはバフォメットの祟りであったのか。
その真相は、今なお闇の中である。
参考 :『Mysterium Baphometis revelatum』『高等魔術の教理と祭儀 祭儀篇』『地獄の辞典』
文 / 草の実堂編集部
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