三国志随一の美女・甄氏の誕生とその美貌
漢末の混乱期、中山郡毋極県(現在の河北省無極県)の名門・甄家に、後に「三国随一の美女」と称される女性が誕生した。
彼女の名は甄氏(しんし)。本名は史書には伝わっていないが、後に魏の文昭皇后として歴史に名を残すことになる。
甄氏は光和5年(183年)12月に生まれ、家族によれば「毎晩彼女が眠るたびに、まるで玉の衣がその身を包んでいるかのように見えた」という。
これを聞いた人々は吉兆と捉えた。
父の甄逸は上蔡県令を務めた地方の名士であったが、甄氏が3歳の時に亡くなり、幼い彼女は深い悲しみに沈んだ。
その後、著名な相士・劉良が甄家を訪れて、彼女の面相を見ると「この子は将来、貴くなるだろう」と断言したという。
成長するにつれ、甄氏の並外れた資質が明らかになっていった。
8歳の頃、家の前で馬術の曲芸が披露されると、姉たちが興味津々に見物する中、彼女だけは冷静に座して「女子が見るべきものではない」と言い放った。その姿は、年齢を超えた品格がすでにあった。
9歳になると読書に没頭して書を学んだ。兄から「女は機織りを学ぶものだ」とたしなめられると、「賢女は皆、歴史に学ぶものです」と返したという。
184年、黄巾の乱が勃発すると、甄氏の聡明さが発揮されることとなる。
当時、飢饉に苦しむ民衆たちは金銀財宝を売り払い、食料を確保しようとしていた。
甄家はこの機に乗じて穀物を買い占めようとしたが、まだ十代半ばだった甄氏は母に進言した。
「乱世に富を蓄えれば災いを招きます。それよりも困窮する人々を救い、徳を積むべきです」
この言葉に甄家は従い、蓄えていた穀物を民衆に施した。その結果、河北一帯を略奪の嵐が襲った際にも、恩義を感じた人々が甄家を守ったという。
その美しさと知性、品格は、早くから河北全土に知れ渡っていた。
建安年間になると、河北の雄・袁紹は、次男の袁熙(えんき)と甄氏の婚姻を決めた。
人々は彼女を「天が授けた宝玉」と称賛した。
肌は玉のように透き通り、柳の枝のようにしなやかな体躯、漆黒の瞳を持ち、「姿は驚鴻のごとく、游龍のごとし」と当時の記録にも残されている。
袁熙の妻から曹丕の寵妃へ
しかし、建安9年(204年)、曹操軍が冀州の鄴城を攻略すると、彼女の運命は大きく変わることとなる。
城が陥落した際、曹操の嫡子である曹丕(そうひ)は、いち早く袁家の屋敷に入り込んだ。
そこでは、姑である劉夫人の膝に顔を伏せ、塵にまみれた甄氏の姿があったという。戦乱の混乱の中にあっても、その美しさは輝きを失わず、目にした曹丕の心を強く惹きつけた。
『世説新語』には、曹丕が甄氏の乱れた髪を整え、顔の塵を拭う場面があり、この行為は単なる気まぐれではなく、彼女を手に入れたいという強い意志の表れとして描かれている。そして曹操もこの縁組を認め、甄氏は曹丕の側室となった。
この婚姻の背景には、単なる個人的な情愛を超えた政治的な計算もあった。
甄氏は袁紹の次男・袁熙の妻であり、袁氏は河北の有力な士族と深い関係を持っていた。そのため、彼女を迎え入れることは、袁氏の旧臣や河北の名族の心をつなぎとめる上でも、有効な手段と考えられたのである。
しかし、この決断は倫理的な問題を孕んでいた。後世の逸話では、孔融が「武王が殷を滅ぼし、妲己を周公に与えた」と皮肉ったと伝えられる。
いずれにせよ、敵将の妻を娶る行為は、当時の儒教的価値観から見ても異例のことであった。
宮廷での栄華と失寵
こうして甄氏は曹丕の寵妃となり、建安21年(216年)までに曹叡(そうえい : 後の明帝)と、娘の東郷公主(とうきょうこうしゅ)を出産した。
その後も甄氏は、曹丕に側室を迎えるよう勧めるなど、理想的な后妃としての振る舞いを見せていた。
また、建安22年(217年)、義母である卞夫人が病床に伏せると、甄氏は昼夜を問わず看病し「真の孝婦」と評された。
この頃の彼女は、曹操からも高く評価され、建安13年(208年)には夭折した曹沖の冥婚相手として甄家の娘が選ばれるなど、甄家と曹氏との結びつきは深まっていた。
しかし、曹丕が皇帝に即位すると、甄氏の立場は一変してしまう。
延康元年(220年)、曹操の死を受け、曹丕が魏王の座を継ぎ、まもなく魏の皇帝となると、宮廷内の勢力関係が大きく動き始めた。
新たに郭貴嬪、李貴人、陰貴人といった側室たちが台頭し、甄氏の影は次第に薄くなっていったのだ。
特に郭貴嬪(後の文徳郭皇后)は曹丕の寵愛を受けるようになり、甄氏との関係は決して良好ではなかったとされる。
『漢晋春秋』には、甄氏が「新たな后妃たちが皇室の血を汚している」と発言したとされ、それを郭貴嬪が「皇帝を批判する謀反の言葉」として曹丕に報告したという記述がある。
しかし、後世の歴史家で『三国志』に「注」を付した裴松之(はいしょうし)は、これを「誇張の可能性がある」と指摘しており、郭貴嬪の関与の程度については不明な点も多い。
とはいえ、甄氏が冷遇されるようになった背景には、郭貴嬪ら新たな寵妃の存在が、少なからず影響していたことは確かだろう。
賜死を命じられる
黄初2年(221年)6月、甄氏は「怨言を発した」との理由で、曹丕から賜死(しし)を命じられる。
※賜死とは、皇帝が臣下に死を命じることで、毒酒や白綾(首を吊る布)を下賜され、自害を強制される。
しかし、これは口実の一つで、政治的な理由も大きく関わっていたと考えられている。
まず、甄氏の兄・甄儼がかつて袁紹の重臣だったことが問題視された。曹魏の新政権にとって、袁紹の旧臣との繋がりは潜在的な脅威とみなされていたのだ。
次に、甄氏の息子・曹叡が15歳になる頃、「彼は本当に曹丕の子なのか?」という疑念が、宮廷内でささやかれ始めた。
曹叡は、袁熙の妻だった甄氏が生んだ子であるため、「実は袁熙の子なのではないか?」という噂が絶えなかったのだ。
さらに、甄氏の出身である河北の名門士族は、かつて曹操が勢力を広げる際には重要な役割を果たしたが、魏の皇帝となった曹丕にとっては、自身の権力を強化する上で邪魔な存在となりつつあった。
そのため、甄氏を排除することで、河北士族の力を削ぐ狙いがあったと考えられる。
死後の屈辱
甄氏の死は、単なる賜死にとどまらず、政治的な意味を持つ儀式的なものだった。
彼女の亡骸は「髪を乱し、顔を覆い、糠で口を塞ぐ」という屈辱的な形で処理された。
この異常な扱いには、三つの意図が込められていたとされる。
第一に、怨霊が祟るのを防ぐための呪術的な処置。
第二に、外戚の影響力を排除するための示威行為。
第三に、彼女を皇后の資格すらない存在として扱うことで、その名を歴史から抹消しようとする試み。
これはかつて、漢の呂后が戚夫人に対して行った無惨な処刑と同様に、見せしめの意味合いが強かった。
しかし、甄氏の存在は決して消えることはなかった。
彼女の息子・曹叡が即位すると、すぐに「文昭皇后」の諡号が贈られ、太和4年(230年)には大規模な改葬が行われた。
曹叡の即位に関しては、先述したようにその血統を疑問視する声もあった。しかし曹叡は聡明で学問にも優れ、曹丕からも高く評価されていたため、黄初7年(226年)に曹丕が崩御すると、順当に後継者として帝位に就いた。
『魏書』によると、改葬の際に「天子羨思慈親(天子は母を偲ぶ)」と刻まれた玉璽が納められたとされる。これは、曹叡が母の名誉を回復し、「聖母伝説」を築こうとした象徴的な行為だった。
さらに、曹叡は甄氏の甥である甄像を伏波将軍に任命し、甄家の一族を次々と要職に登用することで、母の名を魏王朝に刻み込もうとした。
また、曹叡の行動には母への追慕だけでなく、郭皇太后への強い恨みもあったようだ。
『漢晋春秋』によれば、曹叡は郭皇太后が甄氏の死に関与したと考え、彼女を快く思っていなかったという。甄氏が臨終の際、「息子を李夫人に託す」と言い残していたこともあり、曹叡と郭皇太后の関係は良好ではなかった。
青龍3年(235年)、郭皇太后が崩御すると、曹叡は彼女の遺体を甄氏と同じように「髪を乱し、顔を覆い、糠で口を塞ぐ」形で扱わせたという。
これは母の死に対する報復であり、曹叡は母の正統性を再確認するとともに復讐を果たしたのだった。
そして皮肉にも、曹丕が恐れていた「外戚の権勢」は、甄氏の死後に実現してしまう。魏晋時代を通じて、甄家は「皇后の実家」として影響力を持ち続け、西晋の成立にも関与することになる。
甄氏を抹消しようとした試みは、逆に彼女の名を歴史に刻み込む結果となったのである。
参考 : 『正史 三国志』『漢晋春秋』『魏書』他
文 / 草の実堂編集部
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