天下御免の色里として知られた吉原遊廓。その歴史は今からおよそ400年前、江戸時代初期にさかのぼります。
今回は吉原遊廓が誕生した歴史を紹介。果たしてどのような経緯があったのでしょうか。
吉原遊廓の父・庄司甚内
吉原遊廓の歴史は慶長17年(1612年)、傾城屋を営んでいた庄司甚内(しょうじ じんない)なる男が、江戸の町奉行であった米津勘兵衛(よねきつ かんべゑ)に対して提出した、遊女街の設立許可要望書に幕を開けます。
この庄司甚内、元は小田原北条氏に仕えた武士の子だったそうです。何でも15歳の時に父親を亡くして以来、傾城屋を営んで来たとか。
傾城屋(けいせいや)とは遊女屋のことで、古来「傾城の美女」などと言うように、ひとたび虜となれば城を傾ける≒財産を使い果たしてしまうくらいの魅力(魔力?)がありました。
話を戻して甚内は、生き延びるためとは言え、傾城屋となって家名を汚したことを恥じていたと言います。
また、別説には駿河国の元吉原宿で傾城屋を営んでおり、江戸の発展に乗じてやって来たとも言われるそうです。
いずれにしても、庄司甚内に傾城屋を代表するほどの力があったのは間違いないでしょう。
幕府の懸念と対策案
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要望書を受け取った徳川幕府当局としては、あまりよい顔をしませんでした。
無理もありません。政権の中枢である江戸城のお膝元に遊女たちが群がっていれば、トラブルの火種でしかないのですから。
【遊女街を置くトラブル想定】
・男女関係のもつれから犯罪が起きる
・遊興費欲しさに犯罪が起きる
・遊女確保するため人さらいが起きる
・素性の分からぬ不穏分子が紛れ込む
……などなど。どう考えても嫌な予感しかしません。
しかし甚内、そんな反応はとっくに想定ずみでした。
甚内はむしろ「当局が色里を管理するからこそ、そうしたトラブルが防げる」と言うのです。
【甚内の提案】
一、遊女街では連泊を認めない。
これによって資金の使い込みや横領を予防できます。
一、遊女の身元確認を徹底する。
人身売買や偽装養子縁組で連れて来られた女性を保護し、そのような斡旋業者を摘発しました。
一、お客の身元確認を徹底する。
当時はまだ親豊臣・反徳川の浪人たちが跳梁跋扈しており、遊女街が出来たら絶好の隠れ家になってしまいます。
また通常の犯罪者や、年貢を逃れた領民らも様々な形でもぐり込めてしまうでしょう。
だからお客やスタッフの身元確認を徹底し、不審な人物は匿うことなく奉行所へ突き出すことを約束したのでした。
遊女街の許可条件は?
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画像 : 『近世女風俗考』より、江戸時代初期の遊女。public domain
粘り強い交渉の結果、豊臣家も滅び去った元和3年(1617年)、ついに町奉行の嶋田利政(しまだ としまさ)が、遊女街の設立許可を出したのです。やりましたね。
ちなみに遊女街の許可条件(元和五箇条)は、以下の通りでした。
一、町の外で商売をしてはならない。また遊女を町の外(例えば大名屋敷など)へ派遣してもならない。
くノ一(女忍者)の例を見るまでもなく、女性は警戒心を解いて情報を引き出す諜報活動に長けていました。敵対勢力に利用される懸念と合わせて、風紀が乱れることを嫌がったのでしょう。一、お客の宿泊は一夜のみとし、連泊・滞在させてはならない。
これは先ほどの提案と同じ。不審者の隠れ家になることや、お金の使い込みに起因する犯罪リスクを抑えようとしています。一、遊女たちの着物は藍染とすること。金銀の箔を貼りつけたような派手な装束を着せてはならない。
派手な装束は風紀を乱す元として規制されました。金銀の箔を貼った着物って、何だかマツ☆ンサ★バみたいですね。一、建物の造りは華美にならぬよう。また町役はきちんとこなすこと。
華美な建物も風紀の乱れを引き起こしかねません。町役とはお上の御用や火事人足の派出など、自治会の務めみたいなものです。一、不審者がいたら匿うことなく、奉行所へ突き出すこと。
これも当初の提案どおりですね。お上に従わぬ不届き者を匿わないのが、吉原遊廓の掟でした。
これらの条件を、甚内はもちろん快諾。さっそく吉原遊廓の建設にとりかかります。
葭(よし)の原に造られた吉原遊廓
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画像 : 『洞房語園』より、元吉原の地図。public domain
さぁやって来ました枯れ野原。だだっ広い空を吹き抜ける風に、甚内は無限の可能性を夢見たことでしょう。
辺りは一面、葭(よし)だの茅(かや)だの生い茂り、この葭原(よしはら→よしわら)を縁起の良い吉原に表記がえしたのでした。
また別説では、かつて傾城屋を営んでいた駿河国元「吉原」に由来すると言います。
まずは甚内、四方に塀をぐるりとめぐらし、出入り出来るのは大門一箇所としました。
これは遊女の脱走防止に役立ちますし、また不審者の潜入監視にも効果的です。
塀と門が出来上がったら、今度は中の敷地を区割りしていきましょう。
大門を入って右手が江戸町(えどちょう)一丁目。甚内たちはこの区域に住みました。
江戸町一丁目の向かい(つまり大門入って左手)は江戸町二丁目。別名を柳町(やなぎちょう)とも言い、鎌倉河岸の傾城屋が集まったそうです。
江戸町の奥には京町(きょうまち)を設け、江戸町と同じく一丁目と二丁目がありました。
京町一丁目には麹町にあった京都六条出身の傾城屋が集まります。
京町二丁目にも、上方よりやってきた傾城屋が入りました。
そして、江戸町二丁目と京町二丁目の間に角町(すみちょう)という配置です。
これは後に新吉原へ移転した後も、同じ街並みでした。
終わりに
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画像 : 『吉原恋の道引』より、大門周辺(江戸町一丁目)の様子。public domain
かくして整備された吉原遊廓が、元和4年(1618年)に開業。
のち明暦2年(1656年)に新吉原へ所替え(移転)を命じられるまで、38年間にわたり大いに栄えたということです。
現代はほとんど名残を留めていない元吉原。
日本橋人形町2~3丁目と、日本橋富沢町にまたがる辺りなので、近くへ立ち寄ったら往時を偲ぶのも一興でしょう。
※参考文献:
・安藤優一郎 監修『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』カンゼン、2016年6月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部
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