五胡十六国時代の知略を極めた男
五胡十六国時代、中国北方は異民族と漢人の群雄が割拠し、戦乱が絶えなかった。
その中で、知略をもって国家を支え、歴史に名を刻んだ名参謀がいた。
それが王猛(おうもう)である。
彼は前秦の第3代皇帝・苻堅(ふけん)に仕え、内政と軍事の両面で国家の基盤を築いた。
その才覚は後世、諸葛亮になぞらえられることもあり、王猛の存在なしに前秦の華北制覇はあり得なかったとまで評されている。
王猛の出自

画像 : 王猛(おうもう) public domain
王猛は、325年に生まれた。
彼の出自についての詳細は不明だが、若い頃から聡明で弁舌に優れていたと伝わる。
生まれは北方の地であり、当時の混乱した時代背景の中で育った。
王猛が仕えた前秦は、氐(てい)族の苻氏が統治する国で、初代皇帝となる苻健が建国し、苻生、苻堅と続いた。
王猛が仕官したのは第3代皇帝・苻堅の時代であり、前秦は強国への道を歩んでいた。

画像 : 前秦(ピンク)と前燕 public domain
この時期、華北では前燕と前秦が覇権を争い、北方には代国が存在していた。
一方、南方の東晋は長江の南でかろうじて王朝を維持していた。
苻堅は中華統一を志しており、王猛はその知略をもって彼を支えることになる。
苻堅との運命的な出会いと出世

画像 : 前秦の第3代皇帝・苻堅(ふけん) public domain
『晋書』や『資治通鑑』などでの史料では、尚書の呂婆楼(りょばろう)が「不世出の才」として王猛の名を挙げ、苻堅に推挙したとされる。
苻堅はただちに王猛を召し出し、二人は一堂に会した。
苻堅と王猛は語り合ってすぐに意気投合し、まるで劉備と諸葛亮が出会ったかのようだったという。
こうして王猛は苻堅の側近として仕えることとなる。
苻堅が、暴君だった前皇帝・苻生を廃して即位したのは357年(東晋・升平元年)のことである。
彼は即座に王猛を中書侍郎に任命し、国家機密に関与させた。
さらに王猛は県令として実務を任され、法律を厳格に施行し、氐族豪族の横暴を取り締まった。
この功績が認められ、同年12月には尚書左丞へと昇進する。
その後も王猛は急速に昇進を重ね、359年(升平三年)には侍中・中書令・京兆尹を兼任し、豪族や皇族に対しても容赦なく法を適用した。
同年中には吏部尚書・太子詹事・尚書左僕射と次々に重職を歴任し、ついには輔国将軍・司隸校尉・中書令・尚書左僕射・太子詹事・侍中・領選挙事という、ほぼ政権中枢すべての権限を掌握するに至ったのである。
これらの昇進はわずか二年間の間に集中しており、苻堅がいかに王猛を信頼し寵愛していたかがわかる。
もちろん妬む者も多く、旧臣や皇族たちが中傷したが、苻堅は一才取り合わなかったという。
372年(咸安二年)、苻堅は王猛を「丞相」に任命する。
こうして王猛は、名実ともに前秦の最高責任者となったのである。
王猛の優れた政治能力

画像 : 王猛 public domain
王猛の政治能力は、前秦を短期間で強国へと押し上げた最大の要因の一つである。
特に注目されるのは、その法の運用と人材登用における厳格さであった。
王猛は身分にとらわれることなく、実力と清廉さを重視して人材を選び抜いた。また、貴族や皇族といえども不正を行えば容赦なく処罰し、例外を一切認めなかった。
当然支配層の一部から反発を招くこともあったが、それ以上に強い秩序と信頼をもたらした。
特に、鄴の統治の逸話はよく知られている。
この都市はかつて、前燕の名将・名宰相である慕容恪(ぼようかく)が治め、善政によって民心を掴んでいた。その記憶は前燕滅亡後も住民のあいだに色濃く残っていた。
やがて前秦が鄴を支配下に置き、王猛が政務を執るようになると、民衆はその清廉かつ公平な統治ぶりに驚き、「思いもよらず今日、太原王の治世が甦った」と口々に称賛したという。
これを聞いた王猛は深く嘆息し、「慕容玄恭はまことに一代の奇士であった」と語り、敬意を表して太牢を設けて彼を祀った。
敵国であっても名将であれば礼を尽くしたことから、王猛は人を見る目があり、度量も大きかったことがうかがえる。
また、王猛は六州の官吏任命権を与えられ、英才の登用を一任されていた。
これは単に人材を補充するだけでなく、王猛が体現する「公平無私」の統治理念を地方にも行き渡らせる狙いがあったと見られる。
その成果として、前秦の官僚機構は短期間で整備され、法と秩序が安定した。
王猛の政治手腕の最も優れた点は「厳格でありながら、民の支持を得る」という、一見矛盾するような方針を成功させたことであろう。
彼の治政は、単なる法治主義ではなく、公正さを基礎とした信頼の政治であった。
苻堅が彼に国家運営の中核を託したのも、まさにその一点において、絶大な信頼を置いていたからに他ならないだろう。
王猛の優れた軍事能力
王猛は、将軍としても卓越した能力を備えていた。
その軍略は苻堅からも高く評価され、たびたび前線に立って敵国との戦いを指揮している。
とりわけ、370年の対前燕戦「潞川(ろせん)の戦い」は、王猛の軍才を如実に示す一戦であった。
この年、前燕の将軍・慕容評(ぼようひょう)が率いる大軍と、王猛率いる前秦軍が潞川で対峙した。
『資治通鑑』によれば、王猛の兵力はわずか6万にすぎなかったが、前燕側は主力軍40万を擁していた。
兵力差は、およそ七倍である。
しかし王猛は、敵軍の士気や内情を冷静に分析した上で、開戦前から勝利を確信していた。

画像 : 将軍 イメージ 草の実堂作成(AI)
敵将・慕容評は、軍中において水や資源の使用にすら課金するなど、兵士たちに不満を抱かせていた。
王猛はこれを見抜くと、燕軍の輜重(物資)を焼き払ってさらに混乱を誘った。動揺した慕容評は出撃を決意するが、王猛は予め戦陣を整え、軍を鼓舞して開戦に備えていた。
こうして潞川での戦いは前秦軍の大勝に終わり、敵の主力は壊滅した。
さらに王猛は前秦軍を率いて一気に東進し、前燕の都・鄴城を包囲し、最終的には燕の皇帝・慕容暐(ぼようい)を捕らえ、ついには前燕を滅ぼした。
前燕は当時、157郡、246万戸、990万人の人口を有していたとされる。
この広大な領域を一挙に併呑したことで、前秦は中国北部の覇者へと躍進したのである。
また、王猛は各地の平定にも尽力し、占領地での統治も怠らなかった。
王猛の軍才は、前秦の北方制覇における大きな原動力だったのだ。
王猛の死と前秦の運命
前燕を滅ぼし、華北の大半を手中に収めた前秦は、王猛の知略によって絶頂期を迎えていた。
しかし375年、王猛は病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
苻堅は王猛の死を深く嘆き、「天は朕に中国を平定させぬつもりか、なぜ景略を奪ったのか」と涙したと伝えられている。
王猛の葬儀は極めて手厚く営まれ、その功績はなおも称えられ続けた。
王猛の死は、前秦にとって決定的な損失だった。彼は単なる参謀といった存在ではなく、政治・軍事の両面にわたって国家を支えた中心人物であり、王猛がいたからこそ苻堅の統治は機能していた。
事実、王猛の存命中は政権が安定していたが、彼の死後、前秦は次第に内部分裂を起こすようになる。
その最も象徴的な出来事が、「淝水(ひすい)の戦い」である。

画像 : 淝水の戦いの情勢図、黒線は淝水の戦い以前の境界線。赤線は戦いの勝利後の境界線。public domain
苻堅は、王猛亡き後も統一の野望を抱き、南方の東晋へと大軍を進める。
しかし、王猛を失った苻堅の戦略は甘く、驕りと油断によって致命的な失敗を犯す。
東晋の将軍・謝玄(しゃげん)率いる精鋭軍により前秦軍は総崩れとなり、苻堅の覇業は潰えた。
実際に王猛は生前、東晋攻略には反対していた。
結局、王猛の死後わずか10年足らずで前秦は崩壊し、苻堅も部下の裏切りによって殺害されてしまったのである。
王猛の偉業は、後世においても高く評価され、唐代に太宗李世民の命で定められた「武廟六十四将」の一人に列せられた。
五胡十六国時代の人物で『武廟六十四将』に選ばれたのは、王猛と慕容恪の二人だけである。
後世もっとも広く知られる名軍師・名宰相といえば三国時代の諸葛亮であるが、史実における軍功は特筆するほどでもなく、政治的理想や人格面で評価されることが多い。
これに対して王猛は、実際に国を強化し、戦によって天下の趨勢を左右した実務家としての側面が強い。
王猛は、知略と実行力によって乱世を動かした、まさに「現実の名宰相」であったと言えるだろう。
参考 : 『晋書』『資治通鑑』他
文 / 草の実堂編集部
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