南北朝時代

『天皇が誘拐したほどの美女?』後醍醐天皇が最後まで愛し続けた西園寺禧子とは

南北朝時代といえば二人の天皇が存在するという、長い日本の歴史の中でも異例の時代だった。

その南北朝時代が始まるきっかけを作った後醍醐天皇には、これまた異例の恋愛結婚で結ばれた、目に入れても痛くないほど愛する中宮がいた。

彼女の名は「西園寺禧子(さいおんじ きし)」、またの名を「藤原禧子(ふじわらの きし)」という。

画像:中宮禧子(西園寺禧子)と後醍醐天皇。『太平記絵巻』(17世紀ごろ)第2巻「中宮御嘆事」より。埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵。 public domain

革新的な考え方を持ち、破天荒を絵に描いたような後醍醐天皇と相思相愛であった彼女もまた、常識にとらわれない突飛な行動を取る女性であった。

二人は馴れ初めからして、現代人が聞いても驚くような方法で結ばれたのだ。

禧子は『太平記』において、側室に寵愛を奪われた不遇の后として描かれている部分もあるが、決してそんなことはない。

今回は、稀代の愛され中宮・西園寺禧子の生涯をたどりながら、後醍醐天皇との相思相愛エピソードを、二人が交わした和歌とともに紹介していく。

西園寺禧子の出自と後醍醐天皇との馴れ初め

画像:西園寺実兼像(『天子摂関御影』より) public domain

西園寺禧子(さいおんじ きし)は、鎌倉時代後期の公卿・西園寺実兼(さねかね)の三女として生まれた。

正確な誕生年は不明だが1295年~1305年の間に誕生したとされている。母は藤原孝子(隆子とも)という藤原氏出身の女性である。

禧子の幼名は「さいこく」といい、幼い頃から美しく教養にも優れ、父の実兼が初老を過ぎてから生まれた娘ということもあってか、特に実兼からは溺愛されて育ったという。

娘を溺愛する父親にとって、娘の結婚など遠ければ遠いほど良いものだ。しかしある日実兼に、あまりにも早い青天の霹靂が訪れた。

年齢には諸説あるが、おおむね禧子が10代前半であった1313年の秋ごろ、何者かに誘拐されてしまったのだ。
愛する娘を突然さらわれた父親の心労は、如何ばかりであっただろうか。

一時は行方知れずとなってしまった禧子だが、翌年の正月にはその居場所が発覚する。
なんと彼女を連れ去ったのは、のちの後醍醐天皇・尊治親王だった。

禧子の居場所が判明した時には、すでに彼女は妊娠五ヶ月になっていたという。
父・実兼は激怒したものの、すでに既成事実ができあがっていたため、最終的には尊治親王との結婚を受け入れざるを得なかった。

この時、尊治親王は25歳。

最初の正妃である二条為子には先立たれていたため、禧子は尊治親王にとって2人目の正妃となり、天皇として即位後に中宮となった。

ここで2人が送り合った和歌を紹介しよう。

忍び音も けふよりとこそ 待べきに 思ひもあへぬ 郭公かな』-後醍醐天皇

意訳:4月から鳴き始めるというホトトギスの声を聞こうとして、本来はもっと待つものだったのに、思いがけず4月の初日にその声を聞くことができて幸先が良い。しかし、あなたのもとへ忍び通うのは堂々と付き合えるようになってからの方が良かったはずなのに、我慢できず会いに来てしまったが、迷惑だっただろうか?

なきぬなり 卯月のけふの 時鳥 これやまことの 初音なるらむ」-禧子

意訳:ええ、不運にもホトトギスが鳴いてしまいましたね。4月は今日から始まるので、これこそ本当の今年初めてのホトトギスの鳴き声なんでしょう。それにしても、もうホトトギスが鳴く朝が来てしまうなんて、この時期の夜はなんと短いのでしょう。これから夜はもっと短くなりますから、今日で良かったのですよ。

かよふべき 道さへ絶て 夏草の しげき人めを なげく比哉』-後醍醐天皇

意訳:夏草が生い茂り、愛しいあなたのもとへ通う道が途絶えてしまったところに煩わしい人目も増えてきて、あなたのもとへ通う方法すら途絶えてしまい、嘆いているばかりいる今日この頃だ。)

たのめつゝ 待夜むなしき うたゝねを しらでや鳥の 驚すらむ』-禧子

意訳:通ってくれると言っていたのに来てくれないあなたを待つ夜はとてもむなしい。うたた寝をしても、何も知らぬ鶏の鳴き声で目が覚めてしまった。せっかく夢の中でだけでもあなたに逢うことを楽しみにしていたのに。

いつの間に 乱るゝ色の 見えつらん しのぶもぢずり ころもへずして』-後醍醐天皇

意訳:私が隠していた「忍捩摺」の模様のように乱れた恋は、いつの間にバレてしまったのだろうか?あれからまだそんなに時間も経っていないはずなのだが…。

忍べばと 思ひなすにも なぐさみき いかにせよとて もれしうき名ぞ』-後醍醐天皇

意訳:あなたの言う通り、隠しているから大丈夫だと初めは思い込んでいたが、心の中でにやけていたのを周りに隠し通せなかった。一体私にどうしろと、と自問自答したら余計に焦って、例の騒動になってしまったのだ。

このように後醍醐天皇と禧子は、人目を盗みながら情熱的なやり取りを重ねて、恋愛関係を築いていった。

2000年代初頭まで、禧子は政略結婚を目論んだ後醍醐天皇に誘拐された哀れな中宮とされてきたが、今日では互いに愛し合い、駆け落ちのような方法を取って結婚を果たしたと考えられている。

後醍醐天皇に逢うために大罪を犯す禧子

画像:左近の桜と紫宸殿 wiki c konohana

後醍醐天皇と禧子の熱愛エピソードとしてよく知られているのが、「左近の桜」にまつわる話だ。

左近の桜とは、京都御所の紫宸殿の階段から見て左側に位置する桜の木で、その枝を折ることは禁忌であり、大罪とされていた。

ところがある春の日、後醍醐天皇が左近の桜を鑑賞していた折に、禧子の使いの者がやってきて左近の桜の枝を折ってしまった。

その所業に驚いた後醍醐天皇は、禧子を御前に召し出して、このように尋ねた。

九重の 雲ゐの春の 桜花 秋の宮人 いかでおるらむ』-後醍醐天皇

意訳:尊き内裏の宮中で咲き誇っている桜の花を、あなたの使い(秋の宮人は皇后宮に仕える人を意味する)はどうして手折ってしまったのだろうか。

それに対して、禧子はこのように返歌した。

たをらすは 秋の宮人 いかでかは 雲ゐの春の 花をみるべき』-禧子

意訳:桜の枝を手折らせるでもしなければ、私は宮中で咲く桜のように尊く愛しいあなたに、どのようにして逢えるのでしょうか。

もちろん愛する禧子にこんなことを言われて、後醍醐天皇が怒るわけがなく、桜の枝を折らせるという大罪を犯した禧子が処罰を受けることはなかった。

むしろ、禧子のこの機転の利いた行為により、二人の愛はさらに盛り上がったことだろう。

当初は娘の結婚に納得していなかった父・実兼も、後醍醐天皇に大切にされている禧子の様子を知るにつれ、次第に心を和らげていった。

やがて尊治親王が後醍醐天皇として即位し、娘が中宮となったときには、老境に差しかかっていた実兼も深く喜んだという。

どうしても皇子がほしかった後醍醐天皇

画像:後醍醐天皇御像 public domain

禧子は結婚当初の妊娠を含め、その生涯で幾度か後醍醐天皇の子を身籠ったが、無事に生まれて成長したのは、皇女・懽子(かんし)内親王ただ一人だった。

懽子内親王誕生後、新たに禧子に懐妊の兆候が見られると、後醍醐天皇は盛大な安産祈祷を始めた。

出産予定日が近付くと、禧子の同母兄やその他の公卿、多くの高僧を呼び寄せて祈祷を行ったため、まだ産気づきもしないうちに世間は祝賀ムードで一杯になってしまった。

しかし、祈祷の甲斐なく禧子の出産はうまくいかず、世間の落胆と嘲笑が禧子の心に大きな打撃を与えた。
後醍醐天皇もそれを心苦しく思ったという。

また、禧子は死産したのではなく、出産自体行われなかったとの記録もあり、一説ではこの時の禧子は実際は妊娠しておらず、想像妊娠だったのではないかとも推測されている。

それでも後醍醐天皇は、出産予定日を過ぎて高僧たちが帰ってしまった後も、ただ一人、禧子の身の安全と皇子の誕生を願い、祈祷を続けていた。

しかし祈りは叶わず、禧子との間に皇子が生まれることはなかった。

そして懐妊騒動から4年後の1330年11月23日、後醍醐天皇は「神聖な夢のお告げがあった」として、護寺僧の文観房弘真に命じて、禧子に密教の特別な儀式を受けさせている。

ここで禧子が受けた儀式・瑜祇灌頂(ゆぎかんじょう)は、真言密教における究極の儀式とされており、密教修行者にとっては即身成仏に次ぐ最高到達点であった。

この1ヶ月前には後醍醐天皇自身が瑜祇灌頂を受けているが、后がこの儀式を受けるのは、インド、中国、日本という仏教を信仰するどの国においても異例のことだった。

禧子の儀式は同年中に強行的に進められたため、これは後醍醐天皇がどうしても禧子にも同じ儀式を受けさせたくて、夢のお告げという体裁を取ったと考えられている。

揺るぎない愛

画像:『太平記絵巻』(17世紀ごろ)第2巻「中宮御嘆事」埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵 public domain

元弘の乱の勃発直前、切迫する情勢の中で後醍醐天皇は禧子のもとを訪れ、別れの挨拶を述べてから笠置山へと向かった。

しかし戦いに敗れ、幕府に捕らえられて六波羅探題に幽閉されてしまう。

一方、禧子は懽子内親王が斎宮となるために籠っていた野宮へと身を寄せ、後醍醐天皇が凱旋を果たすまでの間、夫婦は離れ離れとなった。

離れている間にも禧子は慰めとして、琵琶の名手であった後醍醐天皇に愛用の琵琶を送る際に、紙片を忍ばせ歌を送った。

思ひやれ 塵のみつもる 四つの緒に はらひもあへず かかる涙を』-禧子

意訳:塵ばかりが積もっていくあなたの琵琶に、払いきれないぐらい落ちる私の涙を思いやってください。このままあなたを待っている間に、その昔、後鳥羽院のために琵琶の手入れを続けた藤原孝道のように、私は老いてしまうでしょう。

後醍醐天皇も禧子の想いを受け取り、はらはらと涙を流しながら歌を詠んだ。

涙ゆゑ 半ばの月は くもるとも なれて見しよの 影は忘れじ』-後醍醐天皇

意訳:涙のせいで、この琵琶と月のように美しいあなたが曇って見える。けれどあなたと共に幾度も見た美しい月の光と、その時の月影のように永遠に美しいあなたの面影を、決して忘れはしない。どうかあなたには月のように長く生きてほしい。

かきたてし 音ねをたちはてて 君恋ふる 涙の玉の 緒とぞなりける』-後醍醐天皇

意訳:確かに昔は琵琶をかき鳴らしたものだが、今はもう弾くことはない。音楽の楽しみよりも、あなたとの恋の方がずっと大切なのだ。琵琶の弦は、あなたを想って流れる涙を連ねて首飾りにするために使おう。『源氏物語』の大君は、自らの命が脆く儚いからと言って、薫との契りを拒んだ。けれど私はたとえ短き命であっても、何度生まれ変わっても、あなたと永遠の契りを結ぼう。

今生の別れを覚悟していた禧子と後醍醐天皇だったが、二人が交わし合う愛に変わりはなかった。

その後、後醍醐天皇が隠岐へ配流された頃から、禧子は心身の不調をきたし、治療を拒んで臥せる日々を送るようになる。
憂いに沈んだその生活は、徐々に彼女の命を蝕んでいった。

後醍醐天皇が隠岐に流されてから約1年4ヶ月後の1333年7月、元弘の乱に勝利して京に凱旋した天皇は、建武の新政を開始し、禧子も中宮として宮中に復帰する。

しかし彼女の体調は悪化の一途をたどり、その年の11月に崩御した。

晩年まで禧子を想い続けた後醍醐天皇

画像:後醍醐天皇塔尾陵 wiki c KENPEI

後醍醐天皇は禧子の死後、最晩年にこのような歌を詠んでいる。

あだにちる 花を思の 種として この世にとめぬ 心なりけり』-後醍醐天皇

意訳:あの西行が歌ったように、桜の花はどれだけ観る者が愛おしく思っても、何とも思わずに儚く散ってしまうが、その心こそが桜が真に神々しい理由なのであろう。しかしたった一人残された私の心には、儚く散った桜花のようなあの人が憂いの種になっている。ああ、この世は何と物憂いものなのだろう。

また、禧子がこの世を去る約3ヶ月前、皇子をもうけていなかったにもかかわらず、彼女には「皇太后」の称号が贈られている。

本来、「皇太后」とは后位を経験し、かつ現天皇の生母に限って与えられる称号である。
しかし後醍醐天皇は、その慣例を破ってまで、最愛の禧子に皇后としての最高位を与えたのである。

とはいえ、後醍醐天皇を深く愛していた禧子にとって、何よりも大切だったのは、出会った時から一貫して変わらぬ夫の深い愛情だったに違いない。

生前、禧子は来世でも後醍醐天皇と結ばれることを願い、次のような歌を詠んでいる。

まよふべき 後のうき身を 思にも つらき契は 此世のみかは』-禧子

意訳:迷うに違いない来世の哀しき身に思いを馳せると、あなたとのつらい契りは、この世だけのことではないと思うのです。あの藤原俊成の歌のように、あなたと私の身を焦がすような燃える恋は、たとえ二人が生まれ変わったとしても永遠に続くのですから…

禧子は、その高貴な出自や、後醍醐天皇がしばしば月の光にたとえた美貌に加え、古歌や古典に深く通じ、教養あふれる和歌を情熱的に詠む、並外れた知性の持ち主でもあった。

古典の世界を自在に操るその感性は、同じく詩歌を愛した後醍醐天皇の心を強く揺さぶった。

当初こそ後醍醐天皇は、政略の一環として禧子に近づいたのかもしれない。
しかし互いを深く知るにつれ、やがてその思いは真の愛情へと変わり、後醍醐天皇は禧子に心から魅了されていった。

桜花のように気高く咲き、月光のように静かに世界を照らす禧子の存在は、政争に明け暮れた後醍醐天皇にとって、何ものにも代え難い心の支えであったに違いない。

参考 :
内田 啓一 (著)『後醍醐天皇と密教
日栄社編集所 (編集)『新・要説 大鏡・増鏡 二色刷3 (新・要説シリーズ)
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

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娘に毎日振り回されながら在宅ライターをしている雑学好きのアラフォー主婦です。子育てが落ち着いたら趣味だった御朱印集めを再開したいと目論んでいます。目下の悩みの種はPTA。
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