数々の作品を世に送り出し、江戸のメディア王として一世を風靡した蔦屋重三郎。
寛政9年(1797年)に世を去りますが、その死後も蔦屋重三郎の名は受け継がれ、5代目まで続きました。
今回は歴代の蔦屋重三郎を紹介。果たしてどのような人物だったのでしょうか。
初代・蔦屋重三郎

画像:蔦屋重三郎 山東京伝『箱入娘面屋人魚』よりpublic domain
生没:寛延3年(1750年)1月7日生〜寛政9年(1797年)5月6日没
本名:丸山柯理⇒喜多川柯理(からまる)
両親:父 丸山重助/母 広瀬津与/養親 喜多川氏(蔦屋)
伴侶:錬心妙貞日義信女(戒名のみ伝わる。実名不詳)
子女:娘(実子?養女?)/婿養子 勇助(二代目)
屋号:蔦屋重三郎、蔦屋耕書堂
別号:薜羅館(へきらかん)、蔦唐丸(狂号)
商標:富士山形に蔦葉
ご存知NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」主人公。
幼い頃に吉原五十間道の蔦屋(喜多川氏)へ養子に出され、蔦屋次郎兵衛の店を間借りして書肆「耕書堂」を開業しました。
板元として吉原細見や黄表紙、富本正本や錦絵など様々な出版物を手がけ、やがて江戸出版界の中心地である日本橋の通油町へ進出します。
吉原者に向けられた差別をものともせず、出版を通じて多くの文化人と交流して大成功を収めました。
しかし政権が変わって寛政の改革が断行されると、出版活動に規制がかけられ、政治批判や風刺に対する弾圧が強まります。
次々と仲間たちが筆を置き(文芸活動を引退し)、身上半減(全財産の50%没収)の重刑に処せられてからは、書物問屋としてお堅めの活動にシフトしていきました。
出版業界の冬を乗り越えるべく苦闘する中、脚気によって48歳で世を去ります。
二代目・蔦屋重三郎

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生没:生没年不詳
本名:勇助(苗字不詳)
出身:伊賀屋勘右衛門室の従弟
関係:初代の番頭、のち婿養子
妻子:妻(実名不詳)/実子 尾州永楽屋、祐助(三代目)
二代目蔦屋重三郎は、初代蔦重の番頭を務め、のちに婿養子となった勇助(ゆうすけ)だそうです。
彼の素性は日本橋あたりで板元を営んでいた伊賀屋勘右衛門(いがや かんゑもん)の妻の従弟……ということで、かなり遠いご縁というか、ほぼ赤の他人としか言えません。
しかし初代蔦重亡き後、その未亡人を支えて耕書堂を守り抜いた才覚が認められ、婿養子となって二代目蔦屋重三郎を襲名したのでした。
……今のつた重、此時番頭をつとめ、後室を後見して家を治む。依而(よって)二代の家名を相続す……
※山東京山『蛙鳴秘抄』より
【意訳】今の蔦重(二代目)は当時初代の番頭を努めており、初代の死後に未亡人(初代の妻)を後見して商売を切り盛りした。こうして二代目蔦屋重三郎を襲名したのである。
二代目蔦重は葛飾北斎(かつしか ほくさい)を抜擢し、また初代蔦重と疎遠になっていた喜多川歌麿との関係改善に努めました。
しかし大成功を収めた初代の事業を承継するのは、大変なプレッシャーだったのではないでしょうか。
三代目・蔦屋重三郎

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生没:生没年不詳
本名:祐助(苗字不詳)
出身:二代目の実子
家族:兄 尾州永楽屋
……三代目 尾州永楽屋の弟 今の蔦屋重三郎也……
※霜傑亭越智直澄『牛の歩行』より
三代目は二代目の息子と言われており、ごく順当に事業を承継したのでしょう。
これ以外のことについて詳しく分かっておらず、兄は尾張国(愛知県西部)へ移って書肆「永楽屋」を営んだと言います。
なぜ兄が蔦屋重三郎を襲名しなかったのか、何か兄弟間の葛藤があったのかも知れませんね。
四代目・蔦屋重三郎

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生没:生没年不詳
本名:不詳
別号:三亭春馬(さんてい しゅんば。二代目)
活動:戯作、狂歌など
初代蔦重が安永2年(1773年)に開業した耕書堂(※)は、文久元年(1861年)に廃業してしまいました。
(※)日本橋に進出した天明3年(1783年)をもって耕書堂の開業とする説もあります。
この代かは分かりませんが、天保8年(1837年)には吉原細見の株(ここでは発行する権利)を伊勢屋三次郎(いせや さんじろう)に売却しました。
吉原細見と言えば吉原者の初代蔦重が、出世の足がかりとした家業の切り札。それを手放さざるを得なかったのですから、相当に苦しかったのでしょう。
四代続いた大店(おおだな)をつぶしてしまって面目ないと思ったか、あるいはようやく肩の荷が下りてせいせいしたのか……。
当人は二代目三亭春馬として、戯作や狂歌など創作活動を展開したそうです。プロデューサーとしてより、クリエイター向きだったのでしょう。
五代目・蔦屋重三郎

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生没:生没年不詳
本名:喜多川竹吉(たけきち/たけよし)
家族:父 喜多川松芳(まつよし)/兄(実名不詳)
四代で廃業してしまった耕書堂ですが、五代目の蔦屋重三郎は明治初期まで小売業を営んでいたと言います。自社で出版はせず、仕入れた書籍を販売していたのでしょう。
……実家の蔦屋に継嗣が絶へたので、松芳の二男即ち竹吉翁が出でゝ、蔦屋の名跡を継ぐことゝなつたのである……
※木村捨三『木村仙秀集 3』「耕書堂蔦屋重三郎」より
四代目が亡くなり、後継者が絶えてしまった蔦屋を、親戚の喜多川竹吉が継ぎました。
この文面からすると、積極的に本屋を経営したい意欲より、どちらかと言えば「蔦屋重三郎の名を絶やすのは忍びない」と言った義務感の方が強く感じられます。
(※あくまで筆者の個人的感想です。当人は必死に蔦屋重三郎の名を盛り立てようとしていたのかも知れません)
しかしそれでは長く続くはずもありません。いつしか商売も立ち消え、蔦屋重三郎の名を継ぐ者もいなくなってしまったのでした。
終わりに
今回は歴代の蔦屋重三郎について紹介してきました。
歴代の蔦屋重三郎は東京都台東区にある正法寺(日蓮宗)に眠っており、今も多くの人々が遺徳を慕って参詣すると言います。
その墓銘には各人の戒名と没年月日が刻まれており、各代のそれが推測できるかも知れません。

画像:正法寺に眠る蔦屋代々の墓銘。Wiki c(GPZ400roman氏)
初代:幽玄院義山日盛信士/寛政9年(1797年)5月6日
初代母か:■■院松日秀信女/寛政4年(1792年)10月26日
初代妻:錬心院妙貞日義信女/文化8年(1811年)10月18日
二代目?:勇山院松樹日行信士/天保4年(1833年)5月26日
三代目?:得法院志雲日信士/弘化元年(1844年)9月6日
四代目?:■心院義覚日慈信士/文久元年(1861年)10月1日
※■は判読できず。
こうして見ると、三代目?の戒名と、四代目?の没年月日が気になります。
三代目?得法院志雲日信士/弘化元年(1844年)9月6日
他の戒名は「日」の後にもう一文字入れていますが、この戒名だけ日信士と一文字少ないのです。
戒名は御布施を積むほど文字が多いと聞くので、もしかしたら経済的苦境が反映されているのかも知れません。
四代目?■心院義覚日慈信士/文久元年(1861年)10月1日
こちらは耕書堂の廃業と同年に亡くなっています。あまりのショックで倒れてしまったのか、あるいは自ら……どうなんでしょうか。
五代目蔦屋重三郎が世を去った後、その名を受け継ぐ者は絶えてしまいました。
しかしかつて書をもって世を耕す心意気で時代を駆け抜けた男の精神は、今も多くの人々に影響を与え続けています。
7月を迎え、折り返しとなったNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」。まだ半年もあるのに早くもロスな気分です。
これからも、蔦重たちの活躍を見届けていきましょう!
※参考:
・江戸時代から五代続いた、蔦屋重三郎の歴代当主の経歴や本名を知りたい。|レファレンス協同データベース
・鈴木俊幸『近世文学研究叢書9 蔦屋重三郎』若草書房、1998年11月
・『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』浮世絵太田記念美術館、1985年2月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部
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