
画像 :ホレーショ・ネルソン public domain
ホレーショ・ネルソンは、18世紀から19世紀初頭にかけて活躍したイギリス海軍の提督である。
サン・ビセンテ岬の海戦、ナイルの海戦、そしてトラファルガーの海戦と、ヨーロッパの運命を左右する数々の決戦で勝利を収め、名声を不動のものとした。
国民からは熱烈に支持され、死後には国家的英雄として称えられる存在となった。
今回は、ネルソンが「イギリス海軍の英雄」と称されるまでの軌跡を、その人生とともに辿っていきたい。
幼少期からの勇敢さ

画像 : 1781年、23歳のネルソン(ジョン・フランシス・リゴー画)public domain
ホレーショ・ネルソンは1758年、イギリス東部ノーフォークの牧師の家に生まれた。
11人の兄弟姉妹の6番目で、家を継ぐ権利は長男に限られていたため、自らの道を切り開かねばならなかった。
頼りとしたのは海軍軍人であった叔父であり、これが彼を大海原へと導くきっかけとなる。
体は虚弱で病気がちだったが、気性は負けん気に満ちていた。
1773年、若きネルソンは北極探検に参加し、氷原でホッキョクグマを追いかけて撃とうとしたという。
病弱な少年が、命知らずの行動で仲間を驚かせたこの出来事は、後の「恐れを知らぬ提督ネルソン」の原点ともいえるだろう。
フランス革命後の快進撃

画像 : フランス革命『バスティーユ襲撃』1789年 public domain
フランス革命が1789年に勃発すると、その余波は瞬く間にヨーロッパ全体へ広がっていった。
革命政府の拡張政策に各国が警戒を強め、ついに1793年、イギリスもフランスに宣戦布告。
ここから長きにわたる英仏戦争が始まった。
ネルソンは地中海方面で奮戦し、1794年のカルヴィ包囲戦では砲弾の破片を浴びて右目の視力を失った。
さらに1797年、カナリア諸島サンタ・クルス・デ・テネリフェ攻撃で激しい銃撃を受け、右腕を切断する重傷を負う。
視力と片腕を失いながらも、彼は失意に沈むどころか、ますます戦意を燃やし続けた。

画像 : ナイルの海戦 public domain
そして1798年、エジプト遠征中のナポレオン艦隊がアブキール湾に停泊しているとの報を受けると、ネルソンは夜を衝いて突入する。※ナイルの海戦
イギリス艦隊は敵の両舷を挟撃し、仏旗艦ロリアンは大爆発を起こして沈没。ほとんどのフランス艦が壊滅し、ナポレオンの野望に大きな打撃を与えた。
ナイルの海戦の大勝利はヨーロッパ全土を震撼させ、ネルソンの名は一躍「祖国の救い主」として轟き、彼はイギリス貴族に列せられることとなった。
英雄の愛
若き日のネルソンは、勝気な性格だけでなく整った容貌の持ち主としても知られていた。
戦場での輝かしい活躍とともに、彼は瞬く間に英雄視される存在となったが、名声の陰には常に囁かれる噂があった。
その中心にいたのが、エマ・ハミルトンである。

画像 : エマ・ハミルトン public domain
エマは貧しい家に生まれ、若くして画家や貴族たちのモデルや愛人を経ながら華やかな社交界に登場し、やがて60歳を迎えた駐ナポリ英国大使ウィリアム・ハミルトン卿の妻となった女性だった。
1798年、ナイルの海戦で大怪我を負ったネルソンがナポリで療養した際、彼を看病したのがエマである。
やがて二人は深い関係に陥り、ついにはハミルトン卿も含めた三人で社交界に姿を現すという異例の関係を築いた。
この「奇妙な同盟」はヨーロッパ中の話題となり、英雄ネルソンを称賛する声と同じくらい、非難と好奇の眼差しを集めることとなった。
最後の戦い
ネルソンはしばしの間、エマと娘ホレイシアと共に束の間の安らぎを過ごした。
しかし1805年、ナポレオンの覇権を賭けた大決戦が迫る。
フランスは同盟国スペインの艦隊を糾合し、ヴィルヌーヴ提督の指揮のもと三十三隻の大艦隊を編成。
対するイギリスはネルソン率いる二十七隻。
数で劣るイギリスに勝機はあるのか、全ヨーロッパが息をのんだ。

画像 : トラファルガーの海戦 public domain
10月21日、トラファルガー沖。
ネルソンは独自の戦術「ネルソン・タッチ」を駆使し、敵の横隊を縦陣で切り裂いて分断した。
各個撃破を狙うこの果敢な戦法は、彼の指揮の真骨頂であった。

画像 : ネルソン・タッチの図。フランス・スペイン連合艦隊(青)の脇腹をイギリス艦隊(赤)が突く Pinpin CC BY-SA 3.0
数的不利を覆したイギリス艦隊は連合軍を次々と打ち破り、海戦史に残る大勝利を手にした。
この勝利が、その後一世紀にわたりイギリスが「海の覇者」として君臨する礎となった。
しかし栄光のただ中で、ネルソンは倒れた。
敵艦ルドゥターブルのマスト上から放たれた銃弾がネルソンの肩を貫き、背骨に達したのである。
船室へ運ばれた彼は静かに最期を迎え、「私は義務を果たした」と言葉を残したという。享年47。
通常、戦死者は海に葬られるのが慣例だった。
だが、国民的英雄ネルソンは異例の扱いを受け、遺体はブランデーに浸されて母国へと運ばれた。
帰国時に液体の量が減っていたことから「水兵たちが勇気を授かろうと密かに口をつけた」との噂が広まり、やがてそれは「ネルソンの血」と呼ばれる伝説となった。
のちにイギリス海軍の常用酒であるラム酒と結び付けられ、今でもラム酒を「ネルソンの血」と呼ぶことがあるという。

画像 : ネルソン像 public domain
トラファルガーの海戦とナイルの海戦で連敗を喫したナポレオンは、ついにイギリス本土への侵攻を断念した。
以後、大海原はイギリスのものとなり、その覇権は一世紀以上にわたり揺るがなかった。
12歳で海軍に身を投じて以来、幾多の傷を負いながらも最後まで祖国のために戦い抜いたネルソン。
その名は今なお「イギリス海軍の英雄」として語り継がれ、海に生きる者たちの心を鼓舞し続けている。
参考 :
【ネルソン提督大事典】コリンホワイト(著), Colin White (原名),山本史郎 (翻訳)他
文 / 草の実堂編集部
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