
画像 : 歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島 CC0
北方領土、すなわち択捉島(エトロフとう)、国後島(クナシリとう)、色丹島(シコタンとう)、歯舞群島(ハボマイぐんとう)の四島は、現在、ロシア連邦によって実効支配されている。
この占領の歴史的経緯と背景は複雑で、第二次世界大戦終結時の国際情勢と、それに続く冷戦構造、そして日露(日ソ)間の条約解釈の相違に深く根ざしている。
この問題の解決は、戦後70年以上を経た今もなお、日本外交の最重要課題の一つであり続けているのである。
帝国日本の敗北とソ連の参戦

画像 : 北方領土 public domain
北方領土がソ連の占領下に入った直接的な契機は、第二次世界大戦末期におけるソビエト連邦の対日参戦である。
1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本への攻撃を開始した。
これは、同年2月のヤルタ会談における米英ソ三巨頭の秘密協定に基づいていた。
この協定では、ソ連が対日参戦する見返りとして、千島列島の引渡しや南樺太の回復などが定められていたとされる。
日本がポツダム宣言を受諾し、終戦を決定した後も、ソ連軍は侵攻を継続した。
停戦後の軍事行動とソ連の主張

画像 : 実効支配領域の変遷(1875年:樺太・千島交換条約 1905年:ポーツマス条約 1945年:第二次世界大戦の終結)Furfur CC BY-SA 4.0
ソ連軍は、日本の降伏後である1945年8月18日から9月5日にかけて、北方四島への上陸と占領を完了した。
これは国際法上、日本の主権下にあった領土への不法占拠と見なされる。
日本政府は、この四島は歴史的にも国際法的にも日本固有の領土であり、1951年のサンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」には含まれないと主張している。
具体的には、四島は1855年の日露通好条約において日本の領土として確定しており、その後の1875年の樺太・千島交換条約で確定した千島列島とは別個のものと捉えられている。
一方、ロシア側は、北方四島は第二次世界大戦の結果としてソ連領となり、サンフランシスコ平和条約やそれに先行するヤルタ協定に基づき、正当に獲得したと主張している。
特に、ロシアは四島を含むクリル諸島(千島列島)全体が、第二次世界大戦の結果、合法的にソ連(ロシア)の主権下に入ったと見なしているのである。

画像 : 千島列島(クリル列島)public domain
平和条約の未締結と問題の固定化
北方領土問題が長期化した最大の要因は、日本とソ連(現ロシア)との間で平和条約が未だに締結されていないことにある。
1951年に日本と連合国の間で締結されたサンフランシスコ平和条約に、ソ連は署名しなかった。
その後、1956年の日ソ共同宣言によって国交は回復し、戦争状態は終結したが、領土問題の解決は将来の平和条約交渉に委ねられた。
この共同宣言では、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すことが明記されたが、残りの択捉島と国後島の帰属については合意に至らなかった。
冷戦終結後、ロシア連邦がソ連の継承国となった後も、この基本的な対立構造は変わっていない。
ロシアは四島を自国の領土として実効支配を強化しており、日本は四島の帰属が確定しない限り、平和条約を締結しないという立場を堅持している。
解決の展望と国際社会の動向

画像 : 国後島 public domain
現在、ロシアは北方四島での軍事施設の増強やインフラ整備の拡大を進めており、地対空ミサイルの配備や住民向け住宅建設などを通じて、実効支配をさらに強化している。
これにより、領土問題の解決は一層困難な局面を迎えている。
一方で、日本政府は「四島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」という基本方針を堅持し、公式には交渉の再開を求め続けている。
しかし、2022年のロシアによるウクライナ侵攻以降、ロシアは対日制裁への報復措置として平和条約交渉を一方的に中断しており、対話の機会は事実上失われたままである。
国際社会の多くの国々は、ロシアの行動を国際法秩序を揺るがすものとして批判しつつも、日露双方に対話継続の重要性を訴えている。
北方領土問題の解決は、日本の主権回復のみならず、国際的な法の支配の回復と東アジアの安全保障バランスの安定に直結する課題であり、今なお極めて重要な課題であるといえるだろう。
文 / エックスレバン 校正 / 草の実堂編集部
























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