大正&昭和

『結婚詐欺で逮捕された男と結婚』昭和のスター女優・川崎弘子の愛に生きた生涯

昭和初期、哀愁漂う天性の美しさを持ち、多くの観客の心をとらえた映画女優がいた。

彼女の名は、川崎弘子

当時、弘子は時代を代表する人気スターの1人であり「銀幕の恋人」と呼ばれた。

しかし人気絶頂の中、素行が悪いことで有名だった尺八奏者と結婚し、スターの座を捨て家庭に入ることを求めたのだった。

今回は、昭和映画史に名を残した女優・川崎弘子の生涯をたどっていきたい。

極貧時代にスカウトされ映画界入り

画像 : 川崎弘子 池田義信監督作『春よ心あらば』(1935年、松竹)public domain

1912年(明治45年)4月、川崎弘子(本名・石渡シヅ)は川崎大師の門前に生まれた。

実家は菓子屋を営んでいたが、父が別事業に失敗し、ほどなくして急逝する。

家計は急速に困窮し、母が針仕事で生計を立てる中、弘子も尋常高等小学校高等科を卒業すると、料理屋やガラス工場で働き家計を支えた。

その最中に転機が訪れる。

松竹蒲田撮影所の俳優・木村健児の目に留まり、スカウトされたのである。

画像 : 木村健児 public domain

弘子は憂いを帯びた美貌の持ち主であったが、当初は女優になる意思はまったくなかった。

だが撮影所次長・六車修の熱心な説得に心を動かされ、1929年(昭和4年)、松竹蒲田へ入社する。

芸名は出身地と弘法大師にちなみ「川崎弘子」と名付けられた。

入社後、彼女はメロドラマ作品を中心にキャリアを重ね、演技力を磨いていく。

1930年(昭和5年)には小津安二郎監督『朗らかに歩め』、清水宏監督『青春の血は踊る』で、高田稔・岡田時彦ら松竹を代表する二枚目俳優と共演し、一気に注目を集めた。

その後も清水作品に出演し続け、蒲田映画を担う有望株として期待される存在となる。

悲劇的ヒロインを演じた時の表現力は特に高く評価され、次代を担う女優と称されるまでになった。

1932年(昭和7年)には映画雑誌『キネマ旬報』の表紙を飾る。

当時は外国スターの写真が多く採用されていた時代であり、その中で日本人女優として表紙を飾ったことは、川崎弘子が映画界で突出した存在となった証であった。

人気絶頂の中、素行が悪い尺八奏者と結婚する

画像 : 川崎弘子と田中絹代「地上の星座」public domain

川崎弘子は、流し目と柳腰が印象的な典型的日本美人として知られ、「銀幕の恋人」の愛称で親しまれた。

松竹の看板女優・田中絹代と人気を二分し、ミーハー層には田中、知識層には弘子が支持されるという構図も生まれた。

とりわけ大学生からの支持は圧倒的であり、新聞広告や化粧品をはじめとする商品宣伝にもたびたび登場するなど、まさに人気の絶頂にあった。

その最中の1933年(昭和8年)、主演映画の音楽を担当した尺八奏者で作曲家の福田蘭童(ふくだ らんどう)と出会い、交際へと発展する。

福田は明治期の洋画家・青木繁を父に持つ人物であり、音楽家としての才能と同時に、放埒な私生活でも知られていた。

1934年(昭和9年)2月、作家・直木三十五の死去に伴う追善の席で行われた、麻雀賭博行為が発覚する。

同年4月、作家や女優らとともに一斉検挙されると、これを契機に蘭童の日頃の素行が一斉に新聞で取りざたされ、各紙が連日報じる大騒動へと発展した。

さらに、1932年(昭和7年)から1934年にかけて「複数の女性を誘惑し金銭を借りたのち関係を絶つ」という行為を繰り返していたことが暴露され、1934年3月、結婚詐欺容疑で逮捕される。

当初は容疑を否認していたが途中から犯意を認め、同年10月、懲役10ヶ月の実刑判決が下された。

この事件は大きく報じられ「女蘭童」「学者蘭童」「偽医者蘭童」など、職業名に「蘭童」を付して詐欺師を揶揄する言葉が流行するほどであった。

そんな福田との交際は、映画スターとしての弘子の立場に影響を及ぼすと周囲から強く反対されたが、弘子は翻意せず、信念を貫いた。

翌1935年(昭和10年)、2人は結婚する。

11月の披露宴では、作家の菊池寛と、松竹蒲田撮影所長の城戸四郎が仲人を務め、菊池は「この結婚が失敗したら、すべて福田君の責任である」と述べ、城戸も福田に対し、妻を不幸にしないよう固く誓わせたという。

スターの座より家庭生活を求めた女優の最期

画像 : 川崎弘子 五所平之助が監督した松竹作品『花婿の寝言』右は俳優の長谷川一夫(1935年)public domain

当時、映画スターの結婚は人気低下につながるとしてタブー視されていた。

弘子もその例外ではなく、結婚後は松竹の若手女優の台頭もあって、人気は次第に下降線をたどった。

それでも1939年(昭和14年)1月には大幹部待遇となり、なお田中絹代に次ぐ地位にあった。

福田蘭童との結婚生活については、マスコミから「もう別れましたか?」などと質問されることもあったが、夫婦仲は円満だったという。

戦後、福田はNHKの人気番組『笛吹童子』のテーマ曲を作曲し、再び注目を集める。
一方の弘子も、戦後しばらく映画出演を続けたものの、1958年(昭和33年)をもって完全に引退した。

美貌と演技力を備え、将来を嘱望された存在でありながら、弘子は家庭生活を選んだとされる。

引退後には「これでやっと、人に見られずに大根1本が買えるわ」と周囲に語り、再び映画やテレビ出演の依頼があっても決して応じなかった。

旅行好きの福田の留守を守り、静かな家庭生活を送る日々であった。

しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。
弘子は酒を飲まない生活であったにもかかわらず、肝臓を患い、病状は悪化していった。

医師から余命を告げられた福田は、弘子を海外旅行に誘う。

弘子は「死んでもいいから連れて行ってほしい」と述べ、医師の許可を得てニューギニア、オーストラリア、ニュージーランドなどへ旅したといわれる。

自ら死期を悟っていた弘子は、福田に「納棺の時は川崎大師の節分のとき、年女として着た白衣と緋の袴を着せてほしい」と頼んだ。

約8年に及ぶ闘病の末、1976年(昭和51年)6月、肝硬変のため64歳で生涯を閉じた。

その数ヶ月後、福田は『サンデー毎日』に寄せた追悼文「亡き妻を憶う」で「貞淑な妻だった。わたしのために、一生を台なしにした可憐な妻でもあった。すまぬ」と綴っている。

同年10月、福田も脳卒中でこの世を去り、弘子の後を追うように生涯を終えた。

参考:
大島幸助「銀座フルーツパーラーのお客さん」文園社
齋藤桂「1933年を聴く」NTT出版 他
文 / 草の実堂編集部

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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