
画像 : 狩野光信画『豊臣秀吉像』 public domain
放映前から注目を集める、2026年度NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』。
主人公は、豊臣秀吉(演:池松壮亮)と、秀長(演:仲野太賀)だ。
天下統一へ突き進む兄・秀吉と、その傍らで一途に支え続け、「天下一の補佐役」と称された弟・秀長の生涯を描く戦国ドラマである。
だが、秀吉を支えたのは秀長だけではない。
彼らには、智(とも/演:宮澤エマ)と、旭(あさひ/演:倉沢杏菜)という姉妹がいた。
このうち歴史の表舞台に登場するのは、徳川家康(演:松下洸平)の正室となった妹・旭である。
一方、姉の智は、旭ほどには知られていないのが実情だ。
しかし、二人はともに豊臣家およびその政権にとって重要な役割を果たし、大きな影響を与えた人物である。
今回は、この「豊臣姉妹」に焦点を当て、その波乱に富んだ生涯を紹介する。
秀吉に政略結婚の道具とされた「旭」

画像:旭/朝日姫像(南明院蔵)public domain
「豊臣姉妹」とするからには、姉の智から紹介するのが筋だろうが、本稿ではまず妹・旭から話を進めていきたい。
旭の生年は1543年(天文12年)とされており、智の9歳下、秀吉の6歳下、秀長の3歳下の妹にあたる。
母は、三人と同じく仲(後の大政所/演:坂井真紀)だが、父については、智と秀吉の父である木下弥右衛門とする説のほか、その死後に仲が再婚した竹阿弥との間に生まれた子とする説もあり、史実としては確定していない。
旭といえばやはり、秀吉の意向によって徳川家康との政略結婚の道具にされた「悲劇の女性」というイメージが強い。
そもそも旭には、農民出身の夫がいた。
この夫は秀吉に取り立てられ、佐治日向守を名乗るようになる。
旭と日向守の夫婦仲は良く、幸せな結婚生活を送っていたと伝えられている。
ちなみにNHKのホームページによる旭のプロフィールは、以下のようになっている。
「笑顔が明るい天真らんまんな妹 豊臣兄弟の妹。天真らんまんな性格で、貧しい農家暮らしの中でもいつも前向きで笑顔をたやさない。兄たちが出世したおかげで夫ともども裕福で幸せな暮らしを送っていたが、ある日突然、秀吉によって離縁させられ徳川家康のもとに嫁がされることになる。」
プロフィールにある「ある日突然…………。」というのは、史実では1586年(天正14年)のことだ。
秀吉と家康は、秀吉が明智光秀を討った山崎合戦の後、小牧・長久手の戦いを経てもなお、長く対立関係にあった。
天下統一を進める秀吉にとって、最大勢力を有する大名の一つである家康をいかに従わせるかは最大の課題であり、そのためにあらゆる手段を尽くした。

画像:東照大権現像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)public domain
そこで秀吉が考えたのが、家康に妹・旭を正室として迎えさせる策であった。
当時の家康には多くの側室がいたものの、築山殿を失って以降、正式な正室を置いていなかった。
秀吉はこの事情につけ込み、旭を正室と言いながら事実上の人質として家康へ嫁がせたのである。
こうして秀吉は、家康に対して上洛して臣下の礼をとるよう強く求めた。
それでも家康が応じないと、今度は旭に面会するという名目で、母・仲を家康のもとへ送った。
ここまでされては、家康も上洛を拒み続けることはできず、1588年(天正16年)、ついに上洛し、聚楽第において秀吉に忠誠を誓ったのである。
この政略結婚において、離縁を強いられた旭の夫・佐治日向守は、自害したとも、豊臣家を出奔したともいわれている。
旭は家康に嫁いだのち「朝日姫」あるいは「駿河御前」と呼ばれたが、さまざまな心労が重なったのか病気がちになり、結婚からわずか4年後の1590年(天正18年)正月、48歳でその生涯を閉じた。
晩年、旭は臨済宗に帰依したとされ、家康はその菩提を弔うため、京都・東福寺に南明院を建立した。
同院には、彼女の肖像画が所蔵されている。

画像:瑞龍寺にある朝日姫の墓 public domain
また、駿府の瑞龍寺(静岡市葵区)にも分骨された墓があり、その建立は秀吉によるとする説もある。
とすれば、さしもの秀吉も、この政略結婚の末に望まぬ人生を歩ませた妹に対し、深い自責の念を抱いていたのかもしれない。
悲劇の末に豊臣家の最後を見届けた「智」

画像:村雲御所瑞龍寺門跡 本堂御宝前(日蓮宗寺院ページ)
秀吉および秀長の姉・智についてNHKのホームページには、以下のように記されている。
「兄弟に厳しくあたるしっかり者の姉 豊臣兄弟の姉。しっかり者で負けん気が強い。三人の男児を産み育てるが、跡継ぎに恵まれなかった弟の秀吉によって政治の道具として利用される。のちに秀吉の後継者となった長男の秀次は謀反の疑いをかけられ妻子とともに処刑されることになる。」
実は、豊臣家にさまざまな影響を及ぼしたのは、旭もさることながら、この智の方であった。
というのも、智が生んだ三人の男子はいずれも秀吉に取り立てられ、それぞれが豊臣家に重要な足跡を残したからである。
智は1534年(天文3年)生まれとされ、秀吉より3歳上、秀長より6歳上で、木下弥右衛門と仲との間に誕生した。
旭と同様に、智も農民の弥助に嫁ぎ、二人のあいだには1568年(永禄11年)に秀次(治兵衛)、1569年(永禄12年)に秀勝(小吉)、1579年(天正7年)に秀保(辰千代)が誕生した。
長男・次男はいずれも智が30歳半ばで産んだ子であり、特に三男・秀保は45歳の時の子で、当時としてはかなりの高齢出産であった。

画像:豊臣秀次像(部分)瑞雲寺所蔵 public domain
智が生んだ三人の兄弟は、いずれも秀吉に武士として取り立てられ、秀次と秀勝は秀吉の養子となり、秀保は秀長の養子に入った。
また、秀次が一時、阿波の三好家の家督を継いだことに伴い、智の夫・弥助も武士となり、三好吉房を名乗ることとなる。
1591年(天正19年)、秀次が秀吉から関白職を譲られると、智も吉房とともに聚楽第へ移った。
だが同年、秀吉は淀殿との間に生まれた待望の嫡子・鶴松を失ってしまう。
この時、秀次と秀勝が秀吉の養子となり、秀次は正式に秀吉の後継者として認知されることとなった。
しかし、ここから智の人生は暗転する。
1592年(文禄元年)、秀勝が文禄の役で朝鮮へ出征中、巨済島の陣中で24歳の若さで病没してしまった。
その1年後には、実子の誕生を半ばあきらめていた秀吉と淀殿の間に、秀頼が誕生する。
すると1595年(文禄4年)4月、秀長の跡を継いで大和中納言となっていた秀保が、病気療養のため滞在していた紀州十津川で、17歳という若さで不可解な死を遂げてしまう。
秀吉は秀保の死を悼む様子を見せず、秀次に葬儀を密かに済ませるよう命じたため、智が北政所に陳情したことで、ようやく正式な葬儀を行うことができたという。

画像:豊臣秀保 public domain
さらに悲劇は続き、秀吉の後継者とされていた秀次までも、同年7月に突如として謀反の嫌疑をかけられ高野山で自害し、その一族はことごとく粛清されてしまった。
この事件で智は難を逃れたものの、嵯峨野の地に善正寺を建立し、秀次一族の菩提を弔ったのである。
こうして智は、わずか3年のあいだに3人の実子すべてを失ってしまった。
1596年(文禄5年)正月、智は本圀寺の空竟院日禎のもとで仏門に入り、出家して日秀尼(にっしゅうに)となった。
同年、彼女は京都嵯峨野の村雲の地に瑞龍寺を建立した。
これが村雲御所瑞龍寺門跡だが、同寺はその後、堀川今出川から秀次ゆかりの地・近江八幡に移転している。

画像:村雲御所瑞龍寺門跡の石標 public domain
そして1598年(慶長3年)8月18日、智と旭の人生を大きく翻弄した秀吉が死去する。
その最期を見届けた智だったが、1612年(慶長17年)には秀次事件に連座して、讃岐に流されていた夫にも先立たれてしまった。
さらに1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、豊臣方として和歌山城を攻撃した山口兵内の妻で、孫娘にあたる菊までもが処刑されるという悲劇を味わうこととなる。
それでも智は生き続け、秀吉の兄弟姉妹の中で唯一現代にまで子孫を残す存在となり、その系譜には明仁上皇をはじめとする現在の皇族も含まれている。
1625年(寛永2年)4月、彼女は92歳に及ぶ波乱の人生に幕を下ろした。
墓所は、村雲御所瑞龍寺門跡と本圀寺、そして秀次の墓所がある善正寺にあり、同寺には智の肖像画と木像が伝わっている。
※参考文献
『豊臣兄弟と天下統一の舞台裏』 青春出版社刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
























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