中世ヨーロッパに、その時代の常識をはみ出すような発想をもった学者がいました。
ペトルス・ペレグリヌス(フランス語名 : ピエール・ド・マリクール)と呼ばれる人物です。
磁石をめぐる鋭い観察と実験によって、現存する最古級の磁石研究を残した人物として名を残しました。
今回は、ペレグリヌスの知的冒険の足跡を辿ってみましょう。
謎めいた中世の渡り歩き

画像 : アンジュー伯シャルル1世 wiki c Sailko
ペトルス・ペレグリヌスは13世紀フランスの人物で、詳しい経歴はほとんど伝わっていません。
ラテン語では一般に Petrus Peregrinus de Maricourt と記され、「ペレグリヌス(巡礼者)」という呼称で知られました。
通称のPeregrinus(巡礼者)は、彼が十字軍に参加した経験から来ているとする説もあります。
ペレグリヌスの出身地は、ピカルディ地方のマリクールと考えられており、現在のフランス北部、ペロンヌ近郊にあたります。
彼の名前が歴史に登場するのは、1269年の ルチェラ包囲戦(イタリア南部)の場面です。
彼はこのとき、シャルル1世(アンジュー公、後のシチリア王)が率いる軍のテント内で、戦時技術者として従事していたと伝えられています。
ただし、この記述は限られた写本にのみ確認されるもので、彼が実際にシャルル1世の軍に属し、戦時技術者として活動していたかどうかは断定できません。
また、同時代のイングランドの哲学者ロジャー・ベーコンが、ペレグリヌスを「実験を重んじる数学者」として高く評価したとされる逸話も伝えられています。
磁石への挑戦

画像:鉄の釘を引き付ける天然磁石のロードストーン public domain
1269年、ペトルス・ペレグリヌスは『Epistola de magnete(磁石に関する書簡)』と呼ばれる短い論考を書き残しました。
この書簡は大きく二部に分かれており、第1部では磁石そのものの性質が、第2部ではその性質を生かした装置や応用が語られています。
内容はきわめて実験的で、手を動かしながら考える姿勢が随所に見られます。
まず第1部で、彼は実験を通じて「磁極」の概念を明確にしました。
球形に整えたロードストーン(天然磁石)の表面に鉄針を置き、針が指し示す方向を一本ずつ書き留めていく。
そうした作業を重ねることで、磁石には向きの異なる二つの極があり、それぞれが引き合ったり、反発したりすることを示したのです。
さらに彼は、磁石を割っても、その破片一つ一つが再び向きを持つことに注目しました。
磁力は表面だけの性質ではなく、石全体に行き渡っている。
そうした理解に到達していた点は、当時としてはかなり先進的でした。
一方で、ペレグリヌスの思考には中世らしい宇宙観も残っています。
彼は、磁石が一定の方向を指すのは地球そのものの力ではなく、天空にある天の極の作用によるものだと考えました。
この発想にもとづいて、羅針針が向きを定める仕組みを説明しようとしたのです。
装置と実用、中世の技術者の顔

画像 : 鉄を赤熱し、南北方向に保持して鍛打することで地磁気により磁化される過程を示した図(ウィリアム・ギルバート『De Magnete』1600年) CC BY 4.0
第2部では、磁石の性質を生かした具体的な装置について語っています。
なかでも重要なのが、「湿式コンパス」と「乾式コンパス」という2つの方位測定器です。
湿式コンパスは、磁石を組み込んだ部品を水に浮かべ、その向きによって方位を知る方法です。
ペレグリヌスは、これに目盛や補助具を組み合わせ、天体の方向を測る装置として使える可能性にも言及しています。
一方、乾式コンパスはより革新的でした。
これは磁化した針を軸で支え、自由に回転できるようにした構造で、蓋や盤面には方位目盛が刻まれていました。
後世に普及する乾式羅針盤の基本的な発想が、すでにここに示されています。

画像 : 1269年の書簡を元に描かれた回転するコンパスの針 public domain
こうした装置の記述からは、ペレグリヌスが抽象的な理論にとどまらず、実際の航海や観測に役立つ技術を強く意識していたことがうかがえます。
磁石の性質を理解するだけでなく、それをどう使うかまで描いた点で、彼は理論家であると同時に技術者でもあったのです。
驚くことに、さらに彼は「永久機関」の構想にも挑みました。
彼の案は、磁石と歯車を組み合わせた回転機構で、磁力の引力・反発を利用し、永久に動き続ける輪を作ろうというものです。
もちろん現代の物理学からすれば実現不可能ですが、中世におけるその発想力は驚異的なものでした。
近代科学の萌芽として
ペレグリヌスの業績は、その後の科学史において決して小さなものではありません。
彼は、磁石の性質を実験にもとづいて整理し、体系的に記述した最初期の人物の一人と位置づけられています。

画像:ウィリアム・ギルバート public domain
16世紀の自然哲学者ウィリアム・ギルバートは、磁石研究の集大成ともいえる『De Magnete』(1600年)を著すにあたり、ペレグリヌスの実験や考察を重要な先行例として受け継ぎました。
地球そのものを巨大な磁石と捉えるギルバートの理論は、中世から近代へとつながる転換点とされていますが、その背景にはペレグリヌスが示した実験的な探究の積み重ねがあります。
もちろん、ペレグリヌスの考えがすべて正しかったわけではありません。
磁力の起源を天の極に求める説明は、後の地磁気理論とは異なります。
それでも、観察と実験を重ね、自然の性質を実用へと結びつけようとした姿勢は、近代科学の芽生えと呼ぶにふさわしいものでした。
強固な宗教的世界観に覆われた中世にあっても、ペレグリヌスは観察と実験で自然に迫ろうとした本物の学者だったといえるでしょう。
参考 :
『科学史から見た中世』/村上陽一郎(著)
『近代科学を支えた思想』/村上陽一郎(著)
『科学史 技術史事典』/伊東俊太郎 他(編)
文 / 草の実堂編集部
























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