妃嬪が多すぎた古代中国の皇帝たち

画像 : 皇帝と妃たちイメージ 草の実堂作成(AI)
絶対権力の象徴であった古代中国の皇帝は、後宮に数百、時に数千の妃嬪を抱えていた。
これは単なるぜいたくや享楽の結果ではなく、王朝国家の制度や身分秩序の中で、自然に生じた側面も大きい。
皇帝の婚姻は本来、血統を維持するためのものであった。
しかし実際には、その時々の有力家との関係や政治状況などの積み重ねにより、後宮が肥大化していく傾向が見られた。
例えば、前漢の武帝(漢武帝)の後宮は、妃嬪や宮人を含めて数千人から1万人規模に達していたとも伝えられている。
正確な人数は不明だが、前漢後期に後宮が極めて大規模であったことは確かである。
唐代では、玄宗(李隆基)の「後宮佳麗三千人」がよく知られる。
これは白居易『長恨歌』に基づく文学的表現だが、玄宗期の後宮が膨張していたことを象徴的に示している。
北宋に入っても、11世紀前半には宮中に仕える女性が2,000〜3,000人規模に及んでいたとされる。
後宮は制度化された巨大組織であり、皇帝個人の裁量だけでは運営できない存在となっていた。
だが、妃嬪の数が増えすぎると、別の問題を生む。
誰を寵愛するかは、感情の問題であると同時に、後宮内の力関係や外戚勢力に直結する要素となった。
寵愛の偏りは嫉妬や争いを招き、出産の有無は一族の命運を左右する。
皇帝にとって「今夜誰のもとへ向かうか」は、決して軽い選択ではなかったのである。
そうした状況の中で、皇帝が妃嬪を選ぶ際の工夫や出来事が、やがて逸話や伝承として語り継がれていった。
今回は、その中でも特によく知られた三つの方法を取り上げる。
羊に選ばせる

画像 : 車に乗り後宮を巡る司馬炎 武帝後宮巡回絵 public domain
晋の武帝 司馬炎にまつわる話として、最もよく知られているのが「羊車選妃」である。
後宮を巡る際、羊に車を引かせ、羊が立ち止まった先の妃をその夜の相手としたという逸話だ。
この話は、単なる噂話ではなく『晋書』に記されている。
武元楊皇后伝によれば、司馬炎の後宮が急激に膨張したのは、呉を滅ぼし天下統一した後である。
呉の宮人が大量に晋の後宮へ移されたことに加え、天下統一を背景に全国規模での選妃が行われたため、後宮は万人に近い規模へ膨れ上がってしまったのだ。
妃嬪があまりに多くなったため、司馬炎自身も「どこへ行くべきか分からなくなった」という。
その結果、羊車に乗り、気の向くままに進ませ、止まった場所で休むようになったのである。
また、妃嬪たちは羊車を自分のもとへ導くために、戸口に竹葉を挿したり、地面に塩水を撒くなど、羊の好みに合わせた工夫を凝らしたとされる。
「羊車選妃」は奇抜な話として語られがちだが、その背後には、後宮がすでに制御しきれない規模に達していたという現実が浮かび上がる。
蝶に選ばせる

画像 : 蝴蝶選妃 イメージ 草の実堂編集部(AI)
唐の玄宗(李隆基)にも、後世の逸話集ながら、選び方そのものに触れる記述が存在する。
唐代の説話集『開元天宝遺事』には、玄宗が後宮の妃嬪が多すぎて選びきれず、いくつかの奇抜な方法を用いたと記されている。
ただし同書は、唐代開元・天宝年間の宮中雑事や風俗を集めたもので、史実というよりも、当時の人々が抱いた記憶や噂を写し取った性格の強いものである。
隨蝶所幸
開元末,明皇毎至春月,旦暮宴於宮中,使妃嬪輩爭挿艶花。帝親捉粉蝶放之,隨蝶所止幸之。後因楊妃專寵,遂不復此戲也。【意訳】
開元年間の末、唐の明皇(玄宗)は春になると、朝夕に宮中で宴を開き、妃嬪たちに艶やかな花を競って挿させた。皇帝みずから粉蝶をつかんで放ち、蝶が止まった者をそのまま臨幸したという。のちに楊妃が専ら寵愛を受けるようになると、この遊びは行われなくなった。※王仁裕『開元天寶遺事』巻四「隨蝶所幸」より引用
玄宗は妃嬪たちに頭へ花を挿させ、そこへ蝶を放ち、蝶が止まった妃をその夜の相手としたという。
また別の形では、各宮殿の前に花を飾らせ、蝶がどの宮に留まるかで寵幸の相手を決めたとも伝えられる。
これは後世に「蝴蝶選妃」と呼ばれた。
他には、螢火虫(ホタル)を用いた方法も記されている。
これは夜に螢火虫を放ち、妃嬪たちに捕らえさせ、最初に捕まえた者を寵幸したというもので、「螢幸」と呼ばれた。
いずれも偶然性に任せる点が共通しており、皇帝自ら選ぶという行為を、意図的に外部へ委ねた形になっている。
これらの方法は、史実の細部をそのまま再現したものとは言い切れないが、玄宗期の後宮が過剰な規模に達していたことを映し出す逸話と言えるだろう。
札で選ぶ

画像 : 翻牌子 イメージ 草の実堂作成(AI)
清代に入ると、皇帝の「今夜の相手」をめぐる扱いは、大きく性格を変える。
羊や蝶に委ねる伝承とは異なり、清朝では後宮の夜が制度として管理されるようになった。
皇帝が誰と夜を共にするかは、「翻牌子(ふぁんぱいず)」と呼ばれる手続きによって決められた。
妃嬪の名を書いた札を用い、内務府の敬事房がこれを準備し、皇帝が選ぶ。
この仕組みは偶然や遊興のためのものではなく、血統管理と宮廷規律を目的とした、きわめて実務的な制度であった。
ここで重要なのは、選択そのものが私的判断から切り離された点にある。
清代の皇帝は、後宮における行動すら記録と管理の対象とされ、妃嬪との関係も制度の枠内に置かれた。
選ぶ行為は依然として皇帝に委ねられていたが、その過程は制度の中に組み込まれていたのである。
この意味で翻牌子は、後宮の肥大化が行き着いた一つの帰結であったと言える。
こうして見ると、皇帝が妃嬪を選ぶ方法は、時代によって大きく異なっていた。
だが、その根底にあった問題は一貫している。
妃嬪が多すぎるという現実が、選び方そのものを工夫させ、語らせ、制度化させてきたのである。
参考 : 王仁裕『開元天寶遺事』『晋書』列伝第一『欽定大清會典事例』他
文 / 草の実堂編集部
























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