北伐の名将 王平

画像 : 三国時代(魏が緑、蜀漢が橙、呉が赤)262年 wiki c 玖巧仔
後漢が崩れた後、中国は魏・呉・蜀の3国が争う三国時代へ入った。
蜀では劉備(在位221~223)の死後、丞相・諸葛亮が国政を担い、227年以降、北方の魏に対して複数回の「北伐」を仕掛けていく。
その北伐で名を上げた武将の1人が王平(おうへい)である。
もとは曹操軍に属して漢中争奪戦に従軍したが、その後は蜀に帰属し、街亭(228年)の敗戦処理や祁山(231年)の防衛、さらに曹爽の侵攻を退けた興勢(244年)などで要所を支えた。
『横山光輝 三国志』でも活躍する王平とは何者だったのか。
今回は正史の記述を軸に、その生涯を辿りたい。
蜀に加わるまで

画像 : 五丈原諸葛亮廟の王平像 Morio CC BY-SA 4.0
後に蜀の名将となる王平だが、正史によれば巴西郡宕渠の出身で、若い頃は外家の何氏に養われたため何姓を名乗っていた時期もあった。
当初は異民族の豪族である杜濩(とこ)と朴胡(ふこ)に付き従い、曹操が漢中を支配した際に王平も彼らとともに曹操に帰順している。
元々異民族に従っていた事から、王平も異民族の出身という説もあるが、そうした勢力に従っていたというだけで彼が異民族だったという明確な記述はない。
魏の武将となった王平は校尉の位を与えられるが、この時期に目立った戦功を挙げたという記録は伝わっていない。
そして219年、漢中争奪戦のさなかに王平は劉備へ帰属する。(演義では徐晃との不和が原因と描かれるが、正史にそのような事情は確認できない)
正史では「漢中に従軍し、のち先主に降る」とあるのみで、詳細な経緯や正確な時期までは明らかでない。
だが、この帰属を契機に、王平は蜀の将として頭角を現していくのである。
敗戦で逆に出世?街亭の戦いの活躍
蜀に加わった王平だが、劉備の存命中の記述はなく、次にその名が出るのは蜀の北伐だ。
馬謖(ばしょく)とともに街亭で魏の迎撃を命じられた王平は、山頂に布陣しようとする馬謖を諌め、街道に陣を敷いて魏の進路を塞ぐよう進言した。
後世の三国志ファンから「登山家」とネタにされる通り、馬謖は王平の進言を却下して山頂に陣を敷き、王平は1000人の兵を連れて別行動を取る。(今思うと、現場の叩き上げである王平と名門のエリートである馬謖の相性は悪く、限りなく最悪に近い人選だった)

画像 : 街亭の戦いで山頂に布陣してしまい途方にくれる馬謖と諌める王平 草の実堂作成(AI)
その後の結果は歴史が伝える通り、蜀の大敗に終わる。
王平が陣太鼓を鳴らして馬謖の救出に現れると、魏軍を指揮する張郃は王平の軍を見て伏兵があると警戒し、それ以上の追撃はしなかった。
王平は、魏軍の撤退を見て自軍の安全を確認すると、敗走して散り散りになった蜀の兵を集めながら蜀への帰還を果たす。
馬謖を初め多くの将が敗戦の責によって処罰を受ける中、王平は撤退時の手腕を評価され、馬謖の役職を継ぐ形で事実上の出世を果たしている。
泣いて馬謖は斬られたのか?
王平の活躍により街亭の戦いで致命的な被害だけは免れた蜀軍だが、最大の戦犯である馬謖の重罰は免れなかった。
演義では「泣いて馬謖を斬る」名場面となっているが、正史では馬謖の最期に関して個人の伝によってバラつきがあり、馬謖伝では獄死、王平伝、諸葛亮伝では処刑となっている。

画像 : 泣いて馬謖を斬る イメージ
一方、向朗伝には、馬謖が戦場(あるいは獄中とする説もある)から逃亡し、蜀軍に捕えられたこと、さらに向朗が私情から馬謖を見逃したため降格処分を受けたと記されている。
このように関係者の伝を比べると、馬謖の最期にはいくつもの食い違いがあるのだ。
馬謖伝以外は処刑に関する記述があるので刑死が有力ではあるが、ここまで記述が一致しないのを見ると、少なくともドラマのように孔明を初めとする蜀の仲間達と別れの挨拶をしながら処刑台に向かったとは考えにくい。
本当に馬謖の死は皆から惜しまれたのだろうか?
いくつもの異説が生じている事実を見ると、いわゆる「泣いて馬謖を斬る」の故事の信憑性には疑問が残る。
北伐の活躍

画像 : 魏と蜀の主な戦いがあった地域 (参考:みてみんのマップを元に作成)
その後も蜀は北伐と撤退を繰り返すが、いずれの戦いにも王平は従軍している。
特に目覚ましい活躍を見せたのは231年の第四次北伐で、魏と蜀の両軍が祁山で睨み合う我慢比べが続く中、魏の司馬懿は持久戦を選択するが、兵糧に陰りが見え始めた事と、攻撃を主張する張郃の進言もあって魏が先に動く。
司馬懿は孔明、張郃は王平をそれぞれ攻めるが、魏延、呉班、高翔といった蜀の武将が司馬懿の軍勢を撃破し、張郃も守りを固めた王平を攻略出来ず、こちらも撃退されている。
蜀はこの戦闘で勝利したものの、魏に致命的な被害を与えられたわけではなかった。
むしろ、援軍の到着によって兵糧問題が解消した事と、兵糧を現地調達していた蜀軍への警備を強化する事により、今度は蜀軍が兵糧不足に陥る。
これ以上の持久戦は不可能と判断した蜀軍は撤退を開始するが、その途中で追って来た張郃を射殺している。

画像 : 張郃が木門道で蜀軍の伏兵に遭い、矢を受けて戦死する場面を描いた清代の挿絵 public domain
張郃の戦死に王平が関与した記述はないが、第一次北伐ではその追撃を抑え、第四次北伐でも攻撃を退けたことを思えば、王平の手腕は評価されるべきである。
234年の第五次北伐で孔明が陣没すると、蜀軍は遺言に従い撤退を開始する。
しかしその途上、撤退の主導権を巡って楊儀と対立していた魏延が兵を挙げ、進路を遮る事態となる。
これに対し先鋒に立った王平は、魏延の兵に向かって「丞相が亡くなって間もないのにお前たちは何をしているのだ!」と一喝した。
兵士たちは動揺して離散し、魏延は孤立する。最終的に魏延は馬岱に討たれ、騒動は終息した。
三国志の著者である陳寿は、この一件について「魏延の討伐は王平の功績である」と評しており、討ち取った馬岱以上に王平を高く評価している。
一喝するだけで魏延の兵たちを退けた王平の威厳は、相当に立派なものだっただろう。
北伐後の王平
諸葛孔明という大黒柱を失った蜀は、以降10年に渡り国力回復に専念する。
だが、弱った国を見逃すほど魏は甘くはない。
244年、魏の曹爽(そうそう)が10万の兵を率いて漢中に攻めて来たのである。
王平が率いる漢中の防衛軍は3万足らずで、実に3倍以上の戦力差があった。
諸将は「漢中を放棄し、蜀の入り口である漢城・楽城を固守して援軍を待つべきだ」と進言する。
しかし王平は、漢中を失えば形勢は決定的に不利になると判断し、前進して迎え撃つ策を選んだ。
王平は魏軍の進路である駱谷道を見越して興勢山に布陣し、進軍を阻む。
魏軍は隘路で足止めされ、大軍ゆえに補給が滞り始める。蜀が北伐で苦しんだ兵糧難が、今度は魏軍を襲うこととなった。

画像 : 成都武侯祠の費禕塑像 wiki c Morio
やがて後方の涪(現在の四川省綿陽市)に駐屯していた蜀軍主力が到着し、さらに成都から大将軍・費禕(ひい)の援軍も合流すると、戦局は完全に膠着した。
攻めあぐねた曹爽は撤退を決断したが、退路でも追撃を受け、損害を出しながらの退却となった。郭淮らの奮戦により壊滅は免れたものの、魏の遠征は失敗に終わったのである。
この戦いを「興勢の役(こうせいのえき)」という。
王平にとっては生涯最後の大規模戦闘であり、守将としての経験を総動員して蜀を守り抜いた一戦であった。
王平は文字が読めなかった?
興勢の役から4年後の248年に王平は病没し、蜀の名将として生涯を終える。
守備戦で大きな失点を犯すことなく、武将として非の打ち所のない生涯だったが、これだけの豊富な経験がありながら、実はほとんど文字の読み書きが出来なかったという。
王平が知っている文字は10字程度だったとされる。

画像 : 張嶷・馬忠・王平の石像(右が王平) Bunkichi Chang CC BY 2.0
項羽のように「自分の名前だけ読み書き出来れば十分」と最初から放棄していたわけではなく、軍に携わって多忙だったからとの理由だが、決して無学だったわけではない。(異民族との関わりから文字のない生活をしていた説も存在する)
自身の口述から代筆して貰った文章は至極真っ当なものであり、史書に関する造詣も、誰かに史記や漢書を読んでもらい、その内容を深く理解していた。
これだけの地頭があれば空いた時間にでも文字を学べたと思うが、普段の王平は隅で静かに座り、冗談も言わない、気難しい人物で、あくまで自分の仕事のみに集中していた。
必要以上に人と関わるのが好きではなかったため、コミュニケーションのために文字を学ぶつもりがなかった、文章は誰かに読んで貰えば十分、といったところだろうが、これも名将の意外な横顔といえる。
史では「忠勇而嚴整(忠義に厚く勇敢で、しかも規律に厳正)」と評され、蜀後期を支えた将の一人として位置づけられているが、その性格のためか、『三国志演義』では正史ほど目立った活躍は描かれず、比較的地味な存在にとどまっている。
後世の評価という点では損をしている側面もあるかもしれない。
しかし王平は、生涯を通じて蜀の防衛に身を捧げた武将として、確かな足跡を残した人物だったと言えるだろう。
参考文献 : 陳寿『三國志』卷43「蜀書十三 黃李呂馬王張傳」王平伝(裴松之注)
文/mattyoukilis 校正/草の実堂編集部























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