幕末明治

明治の「写真映え美人芸妓」千代葉とぽん太。愛と嫉妬に翻弄された美貌の代償

明治から大正にかけて、有名な芸妓がたくさん誕生しました。

当時の彼女たちの写真を見ると、令和のアイドルが「時代劇で芸妓さんの役をやるときの宣材です!」と言っても通じそうな美少女もいます。

今なら、モデルやアイドルになって華やかな人生を送れそうな彼女たち。けれども、男を糧にし男に狂わされ、波乱の人生を送った女性もいました。

彼女たちは、誰もが羨むような美貌と人気を手に入れ有名人になったものの、最愛の人と結ばれ幸せな結婚生活を全うした……とはいかず、運命に翻弄され激動の人生を送ったのでした。

今回は、そんな中から “千代葉”と“ぽん太”という二人の芸妓の人生を追ってみたいと思います。

画像 : (左)千代葉(のち照葉)/(右)ぽん太 public domain

江戸風から西洋風へと美人の基準が変化した時代

明治維新をきっかけに、日本は近代化へと文化刷新をはかるようになりました。

新政府が推奨する西洋文化は、女性たちのメイク、ヘアスタイル、服装にも大きな影響を及ぼします。

大河ドラマ「べらぼう」で描かれた喜多川歌麿の浮世絵のように、江戸時代は、弓形の眉、おちょぼ口、細く吊り上がった目、瓜実顔でお白い粉で作った白肌が美人の基準。

けれども明治時代になると、お歯黒も眉剃りもやめて現代でも通用しそうなナチュラル感のあるスタイルへと大きく変わっていきます。

さらに、西洋の写真技術が日本に多く流入し“写真撮影”も増えました。

街で評判の美女は新聞記事で取り上げられ、絵葉書や商品の広告などにも登場してあっという間に人気を集めたのです。

中でも有名だったのが、東京・新橋の人気芸妓だった「千代葉(のちに照葉)」と「ぽん太」です。

酒飲みの父にだまされて売られた千代葉

「千代葉」の本名は、高岡たつ。明治29年(1896)に奈良県(大阪説も)で生まれました。

幼くして母を亡くし、弁当屋と茶屋を営む叔母に預けられましたが、12歳の頃、鍛冶職人で大酒飲みの父親に騙され、歌舞伎役者・尾上菊五郎の妾のもとに売られてしまいます。

その後、14〜15歳の頃、250円で貸し座敷(料金制の貸し座敷の意味もありますが、女郎屋の意味も)の養女となり、「千代葉」の名で舞妓デビューしました。

当時の彼女は、まるで美人画から抜け出してきたかのように美しく、あっという間に大人気になったそうです。

画像 : 芸妓・千代葉(のち照葉)の絵葉書(1920年代頃)Public domain

ところが、そんな千代葉を疎ましく思ったのが、先輩芸者の八千代でした。

八千代はまだ新米だった千代葉を、旅館に連れ出します。

そして、「舞妓になったら誰もが通る道だ」と騙し、初潮も迎えていない千代葉に自分の元旦那だった男に性の相手をさせたのです。

そんな酷い目に遭った彼女ですが、お座敷で会った歌舞伎役者の2代目市川松蔦(しょうちょう)に恋をします。

一方で、金持ちの小間物屋の若旦那・音峰宗兵衛の座敷にも出るようになり、彼と噂を立てられる仲になってしまいました。

愛の証拠に「小指」を切り落として男に渡す

画像 : 二代目市川松蔦 public domain

その後、市川松蔦は東京へ戻り、千代葉は芸妓仲間の嫉妬もあって、次第に孤独な日々を送るようになりました。

音峰はそんな彼女を不憫に思ったのか、あるいは若さと美貌に惚れ込んだのか、「離婚して妻にする」と約束し、二人の関係は次第に深まっていきます。

ところが、ある日、二人が一緒に旅行した時のこと。

千代葉が市川の写真を持っていたことを音峰が発見し、激怒します。

その怒りは大阪に戻ってからも収まらず、千代葉は次第に冷たくあしらわれるようになりました。

写真1枚持っていただけで、ずいぶん嫉妬深く寛容さがない男性のように思えますが、千代葉はそんな音峰に夢中だったのでしょう。

千代葉は「あなた一人だけ」という思いを示すため、なんと剃刀で小指を切り落として音峰に渡したのです。

歌舞伎『五大力恋緘』で、芸者の菊野が指を詰める場面を思い起こしたためともいわれます。

この出来事は周囲に大きな衝撃を与え、千代葉は大阪に居づらくなり、東京へ移ることになりました。

新橋の芸妓・清香が借金を肩代わりして彼女を引き取り、その後、東京・新橋の新加納屋で「照葉」の名で芸妓として再出発したのです。

美貌とスキャンダルで東京でも大人気に

画像 : 千代葉(照葉)の絵葉書 public domain

しかし東京でも「指詰めをした芸妓」という噂が広まり、「どんな芸妓なのか一目見たい」と客が店に押し寄せました。

照葉はたちまち売れっ子となり、彼女をモデルにした絵葉書やブロマイドも数多く作られるようになります。
その美貌ぶりは、絵葉書屋が「修正がいらないのは照葉だけ」と言うほどでした。

その後、照葉は若き株の仲買人・小田末造と出会い、ハイカラ好みで陽気なその性格に惹かれて結婚します。
「新婚旅行はアメリカへ」と勧められ、夫妻は渡米しました。

しかし、夫は照葉をホテルに残したまま夜遊びを重ね、やがてアメリカ人女性に傾倒するようになります。
一方の照葉も、アメリカ人女学生と親密な関係を持つようになり、夫婦仲は次第に悪化していきました。

その後、知人であった俳優・映画プロデューサーの早川雪洲の勧めでパリに渡り、現地で出産したとも伝えられています。

大正12年(1923)には「小田照葉」の名で映画に出演し、女優としても活動しました。

やがて小田とは離婚し、別の男性と再婚するものの、その結婚生活も長くは続きませんでした。

以後はバーの経営、自伝の出版、芸妓への復帰、年下の青年との逃避行など、波乱に富んだ生活を送ったとされています。

時期は定かではありませんが、二度の自殺未遂を図ったという証言も残っています。

こうした遍歴の末、照葉は昭和10年(1935)、39歳で久米寺にて得度し、「智照(ちしょう)」と名乗るようになりました。

画像:1948年(円内も智照)public domain

恋愛遍歴に終止符を打ち仏門

彼女にどのような心境の変化があったのかはわかりません。

男と出会っては恋をして結ばれるも、浮気をされたり束縛されたり追いかけられたり……そんな人生に、疲れたのでしょうか。

昭和10年(1935)、荒廃していた京都嵯峨野にある祇王寺の庵主となり、親族の男性とともに、復興させたのでした。

祇王寺は、白拍子の祇王が、平清盛の寵愛を受けるも心変わりにより都を追われ、母と妹とともに出家、入寺した悲恋の尼寺として知られています。

智照こと高岡たつは、明治、大正、昭和、平成を生き抜き、平成6年(1994)に98歳でその激動の生涯の幕を閉じました。

画像:京都 嵯峨野 祇王寺 photo-ac rupann7777777

美貌でビール会社の広告塔になった「ぽん太」

同じく美貌と才能で一世を風靡した新橋の人気芸者、「ぽん太」は、本名・谷田恵津(子)といいます。

明治13年(1880)、東京品川で生まれました。

花柳界には「箱屋」という芸妓のマネージャーが(箱を担いでいたことからその名前が付いたそう)いたのですが、恵津の父親は、その箱屋だったそうです。

恵津は、12歳で新橋の「玉の家」で半玉となり、「ぽん太」でデビュー。その美貌であっという間に評判になりました。

ぽん太の美しさは、ビール会社のポスターのモデルに起用されたほど。

その撮影に関わったのが、造り酒屋の養子で14歳ほど年上の鹿島清兵衛でした。

画像:写真家の鹿嶋清兵衛 (1866-1924) public domain

二人は撮影しているうちに仲良くなり、清兵衛は、家も家業も捨てて彼女を後妻に迎えたそうです。

作家の斎藤茂吉が『三筋界隈』という随筆で、この頃ぽん太の美しさに触れています。

〜ぽん太の写真が三、四種類あり、洗い髪で指を頬ほおのところに当てたのもあれば、桃割に結ったのもあり、口紅の濃く影うつっているのもあった。

私は世には実に美しい女もいればいるものだと思い、それが折にふれて意識のうえに浮きあがって来るのであった。
ぽん太はそのころ天下の名妓として名が高く、それから鹿島屋清兵衛さんに引かされるということで切しきりに噂に上った頃の話である。〜

写真で見る、ぽん太の美しさに、うっとりと見惚れている様子が浮かぶようです。

画像:新橋「玉の家」半玉のぽん太 public domain

道楽者で独占欲の強い写真家の夫

ところが、この鹿島清兵衛という男は非常に型破りな道楽もので、ぽん太の人生に大きな影響を与えたのでした。

清兵衛は写真に強い関心を持ち、自らスタジオを構え、機材を海外から取り寄せ、外国人写真家の展覧会を開催するなど、莫大な資金を写真に投じていたといいます。

一方で嫉妬心も強く、ぽん太を別宅に移して住まわせるなど、強い独占欲を見せる夫でもありました。

やがて清兵衛は鹿島家と離縁し、写真館を開業するものの閉鎖に追い込まれます。

大阪での再起もかなわず、再び東京に戻って小さな写真館を開きましたが、火薬事故で指を失い、写真家としての道を断念せざるを得なくなりました。

ぽん太は長唄や踊りを教えたり、踊り子として地方を巡ったりしながら、家計を支えたと伝えられています。

この頃、父親の経営する病院でぽん太の姿を見かけた斎藤茂吉は、このように書いています。

〜ある時、鹿島ゑ津子さん(ぽん太)がほかの芸人のあいまに踊を舞ったことがある……(中略)……人生を閲けみして来た味あじわいが美貌のうちに沈んでしまって実に何ともいえぬ顔のようであった。

私が少年にして浅草で見た写真よりもまだまだ美しい、もっと切実な、奥ふかいものであった。〜

美貌はなお衰えていなかったものの、度重なる心労や疲労が、その表情に影を落としていたのかもしれません。

14歳ほど年の離れた夫を、ぽん太は献身的に支え続けたといいます。

この夫婦を知る森鴎外は、二人の様子を「病人とそれを支える看護婦のようだった」と表現し、その姿をもとに小説『百物語』を書きました。

手先の器用だった清兵衛は、事故で指を失った後も能管の技を磨き、笛師として活動を続けましたが、大正13年(1924)、体調不良のため亡くなりました。

翌年、ぽん太もまた肝臓がんで45歳の生涯を閉じます。

二人の間には、生涯で12人の子があったと伝えられています。

美貌ゆえに波乱の人生を送った二人

ほぼ同じ時代を、有名な芸妓として生きた千代葉とぽん太。

人も羨むほどの美貌を持ちながら、その人生は常に周囲の視線や人間関係と切り離せないものでした。

その歩みが本当に幸福だったのかどうかは、本人にしか分かりません。

ただ確かなのは、二人がその時代の中で、美貌という才能と引き換えに、重い選択を迫られ続けたということでしょう。

参考:
「朱より赤く 高岡智照尼の生涯(窪美澄、小学館)
『黒髪懺悔 照葉手記』他
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

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アパレルのデザイナー・デザイン事務所を経てフリーランスとして独立。旅行・歴史・神社仏閣・民間伝承&風俗・ファッション・料理・アウトドアなどの記事を書いているライターです。
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