幕末明治

もうひとつの戊辰戦争の悲劇「二本松少年隊」※最年少12才で戦争参加

戊辰戦争は、幕末という激動の時代にあって、多くのドラマチックなエピソードが生まれた時代でもある。

その中でも会津藩の白虎隊の悲劇などは戊辰戦争の旧幕府軍における悲話として、しばしば話題にのぼる。白虎隊士が16歳から17歳という若年の少年兵たちであったことがそのエピソードをいっそう有名にしているが、幕末における少年兵の悲劇は白虎隊のみで起こったことではない。

ここでは、現在の福島県二本松市に存在した「二本松藩」の少年兵、「二本松少年隊」について解説しよう。

二本松少年隊とは?

二本松少年隊

二本松城跡

今日、「二本松少年隊」と呼ばれている部隊は、戊辰戦争に出陣した少年兵に後年呼び名がついたものだ。

戊辰戦争当時は「二本松少年隊」という呼称は付けられていなかった。「二本松少年隊」と呼ばれる該当の隊は、そもそもその名がなかったことからもわかるとおり、常設の「少年部隊」であったわけではない。二本松藩はもともと経済的にも、また軍事的・兵力面でも戊辰戦争で対峙する明治新政府軍に正面から当たることなど望むべくもないほどの弱小藩だった。

しかし、二本松藩は奥羽越列藩同盟への信義を通す選択をし、1868年(慶応4年)7月29日の二本松城落城に至るまで徹底抗戦の構えを見せた。後年、「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵部隊が出撃し、悲惨な結果を迎えたのはこのときである。

二本松少年隊はどのような場面で出陣したのか

二本松少年隊

東北の城 白河小峰城

より詳しく、戊辰戦争における二本松少年隊の動きを見てみよう。

まず、舞台となるのは戊辰戦争の中でも激戦となった「会津戦争」である。1868年5月、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍は、東北の玄関口ともいえる「白河小峰城(白河城とも呼ばれる)」を占領した。すぐにでも奪還したかった奥羽越列藩同盟側であったが、秋田側の戦線もあり、すぐに兵力を送り込むことができなかった。

奥羽越列藩同盟側の反撃は、戦力が集中するまでの間は、仙台藩士・細谷直英が率いる農民・博徒・侠客の集団である「衝撃隊(鴉組とも呼ばれた)」による、夜襲攻撃が主であった。ようやく戦力の集結に成功した奥羽越列藩同盟側が総攻撃を仕掛けるも、新政府軍はことごとくこれを撃退した。

このとき、二本松藩の兵は大半が、この白河城の攻防に従軍していた。しかしこの攻防の最中、白河城よりもさらに北方に位置する「棚倉城」が新政府軍の攻撃を受け落城してしまった。また、新政府軍別働隊により、守山藩や平城も奪われることとなった。

そのような状況下で、奥羽越列藩同盟側の三春藩(現在の福島県田村郡三春町)が、新政府側へ寝返るという噂がたち、二本松藩の藩兵は藩内の要所各地へ兵を分派せざるを得なくなった。はたして三春藩は噂どおり新政府軍へ寝返り、7月6日には新政府軍の板垣退助が三春城へ無血入城を果たした。この後、板垣隊は二本松藩の想定をはるかに超えるスピードで二本松城へ進軍してきた。

二本松少年隊はこのような局面で出陣することとなったのである。

なぜ少年が戦争に参加したのか

二本松少年隊

会津戦争

二本松藩は三春藩の寝返りに備えて藩内各所に兵を分けていた。しかし、新政府軍の板垣退助隊は三春城に無血入城後、二本松城に急迫することとなった。

藩内各所に兵を分けていた二本松城は、迫りくる板垣隊を迎撃しなければならなかったが、城は深刻な兵力不足の状況となっていた。これにより、本来は兵となる年齢に達していない少年や、一度隠居した老人までもが兵として出陣することとなったのである。

二本松藩では元来、成人として扱われるのは満20歳であったが、18歳になった者が「成人した旨の届け出」をすることで、兵籍に入ることができた。これを「入れ年」といい、これは二本松藩独自の制度であった。ここからさらに、二本松藩では状況が逼迫していることもあり、7月に17歳までの出陣を許可することになった。これは、「入れ年」を計算すると2歳サバ読むことができることから、実質は15歳から従軍できることになったわけである。

さらにその後、7月27日にはますます戦局が悪化したこと、また、藩の少年たちからの嘆願も加わり、藩は出陣許可を15歳まで引き下げた。つまり、「入れ年」を計算すれば、13歳までが対象となったわけである。

二本松少年隊の出陣者名の中には、13歳どころか12歳の者まで見える。現代で考えれば、中学1年生や2年生の年齢の男子が、重い前装式ライフル銃と脇差を抱えて、勝つ見込みのない戦いへ自ら望んで出陣していったわけであるが、その姿は、二本松藩士や新政府軍の目にどのように映ったであろうか。

現代によみがえる「二本松少年隊群像」


二本松少年隊の最期は、白虎隊士とはまた違った悲惨さであった。

城から出て戦い、飯盛山へ戻って、恥を受けるよりも自刃する道を選んだ白虎隊士とは状況が異なり、二本松少年隊の場合はまさに「城を枕に討ち死に」の道しか残されていなかった。

二本松城は会津藩・仙台藩からの援軍を頼みとしていたものの、両軍とも新政府軍の待ち伏せに遭って二本松城へ到達する前に半壊・撤退してしまっていた。そのような状況下でも二本松城は抵抗を続けていたが、城内にこもる重臣・家老はとうとう抵抗を断念、29日には城に火を放って自刃した。

悲劇はここからで、二本松少年隊は城外で戦っていたため、城内の状況を少年たちは知るすべがなかった。さらに、二本松少年隊の隊長・副隊長が激戦の中戦死を遂げてしまったのである。

二本松少年隊士たちは、指揮を取る者も城内からの指示も届かない中で散り散りとなり、1人ずつ発見されて射殺されたという。

1982年から1995年にかけて修復された二本松城は、今日では城跡として観光地にもなっている。敷地内には、まだ幼さの残る二本松少年隊士が四斤山砲の傍らで戦闘に臨む様子を描写した「二本松少年隊群像」が設置されている。

おわりに

二本松少年隊

戊辰戦争は平たく言えば、日本という国を各藩の集合体ではなく一つの政府による中央集権に変革しようという、支配構造の変更のために起こった戦争である。

新たに日本を支配する勢力にとっては、旧体制の支配者とその支持者は、完全に無力化する必要があったという理屈はある意味では正しいものだっただろう。しかし、その大きな決断の中に、二本松城で起こった少年たちや白虎隊といった悲劇が起こったことは事実である。

無論、現代の理屈で過去の出来事を語っても仕方ないが、そこに思いを馳せることはできよう。

会津や仙台といった頼みの綱を失い、勝敗が明らかな戦局に立ってなお、同盟の信義を貫いた二本松藩、そして二本松少年隊の心意気は、現代でこそ評価されるべきものなのかもしれない。

 

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草の実堂編集部 新井弘樹

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