天正10(1582)年の本能寺の変にて、織田信長を討った明智光秀。
生年も出自も定かではない彼は、織田信長の協力を得た足利義昭の上洛と将軍就任によって歴史の表舞台に登場する。
だが、義昭と信長が決裂するまでの間、光秀は幕臣であり織田家の家臣であるという複雑な立場にあった。
今回は、大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場するであろう明智光秀の出自と、義昭のもとを離れ織田信長に仕えるまでの経歴を解説する。
明らかでない出自

画像 : 明智光秀 public domain
明智光秀はいつ、どこで生まれたのかが定かでない人物である。
生年については永正13(1516)年説と享禄元(1528)年説のふたつが主な説であるが、確かなことはわからない。
おそらく信長よりは年上であっただろう、と推測されるだけである。
父が誰であったかもわからない。光秀の父とされているのは、鎌倉時代から続く美濃の名門・土岐氏の一族である明智光綱(あけち・みつつな)という人物であるが、この光綱の実在も確証がない。
『続群書類集』に収録されている『土岐系図』など、光秀の系図とされているものは数種類あるが、系図によって『光隆』であったり『光国』であったり、父とされている人物の名前も一致しないのである。
光秀の出自を推測する材料として、同時代の人間たちによる記録がある。
光秀と親密であった公卿・神道家の吉田兼見の日記『兼見卿記』には「美濃の親戚が地元の神社の敷地に城を築いたところ、怪異が起きた。ぜひ祈祷をお願いしたい、と光秀から連絡があった」と書かれている。
また、天正年間に活動していた時宗の宗教家・同念の記録『遊行三十一祖京畿修行記』には「惟任(光秀のこと)は、もと明智十兵衛といって、美濃の土岐一家の牢人であったが、越前の朝倉義景を頼って長崎称念寺の門前に十年間暮らしていた」という記述がある。
また、光秀の妻である妻木氏は、美濃国土岐郡妻木郷(現在の岐阜県土岐市)の領主・妻木氏の出身とされている。
以上のことから、光秀は少なくとも美濃の国人クラスの出身であったのだろうと推測される。
だが、名門土岐一族の血筋であったかどうかは定かではない。
義昭に仕える

画像 : 朝倉義景 public domain
上で取り上げた『遊行三十一祖京畿修行記』の記録からもわかるとおり、信長に仕える以前の光秀は越前に居住していたと推測される。
永禄9(1566)年。足利義昭が朝倉義景を頼って越前にやってきた。
義昭は義景に上洛への協力を求めたが交渉はうまくいかず、しばらく越前に腰を落ち着けることとなる。
永禄11(1568)年7月、義昭のもとに美濃の織田信長から「上洛に協力したい」という連絡があった。
義昭を奉じた信長は同年9月に上洛を敢行し、十四代将軍・足利義栄を奉じていた三好三人衆を京都から追い払う。
そして同年10月、京都において念願の十五代将軍に就任した義昭であったが、翌永禄12(1569)年正月、信長が京都を留守にした隙に、三好三人衆が御座所である京都の本圀寺を襲撃した。
『信長公記』には、防戦した義昭の家臣のなかに『明智十兵衛』という名が記されている。
また、足利義輝と義昭時代の幕臣の名を列挙した史料『永禄六年諸役人附』のなかには、義昭時代の足軽衆として『明智』の名前がある。
以上のことから、永禄9年から11年までの3年間のあいだに、光秀は義昭の家臣となっていたと考えてよいであろう。
ただ、光秀が属していた『足軽衆』とは足利義輝の時代に新設された役職であり、正式な幕臣ではあるものの身分としてはあまり高くない。
将軍の側近であった『奉公衆』『御相伴衆』よりも格下である。
そう考えると、仮に光秀が土岐一族の出身であったとしても嫡流ではなく、かなり末端の血筋であったのではないだろうか。
ふたりの主君

画像:足利義昭坐像(等持院霊光殿安置) public domain
将軍就任以降、信長は義昭に軍事力を提供し、義昭は信長に政治的な正当性を与える関係となった。
いわば連立政権である。
この両者の関係のもとで、光秀の立場も複雑なものになった。
身分としては幕臣であるものの、政権運営の実務を担っている織田家の一員としても働かなければならなくなったのである。
永禄12(1569)年から翌永禄13(1570)年にかけて、光秀は丹羽長秀や木下秀吉、村井貞勝、朝山日乗など、織田家の家臣と連署した行政文書を発行している。
内容は、畿内各地の荘園における国衆や幕臣の違乱(押領や領界侵犯)への停止命令、公家である日野家と一条家の紛争に対する介入などである。
永禄12(1569)年11月、本願寺顕如は、三好氏を支援しているのではないかという疑惑への否定を義昭に申し入れている。この書状の宛先となっているのが光秀である。
光秀が、外部から義昭への連絡を取り次ぐ役割を担っていたことがわかる。
また、この年の正月、公卿である山科言継は、義昭の側近である『奉公衆方』への挨拶まわりをしている。
その訪問先のなかには『明智十兵衛』の名がある。
光秀が、短期間で幕臣としての地位を大きく上昇させたことを示してはいないだろうか。
一方で、光秀は信長からも次第に重用されるようになっていく。
元亀元(1570)年の越前・若狭攻めから光秀は織田家の合戦に従軍するようになり、元亀2(1571)年には信長から近江国志賀郡を拝領している。
この時期の光秀は、幕臣でもありながら信長にも仕えるという、いわばふたりの主君を持つ両属の立場であった。
義昭から信長へ

画像:五ヶ条の条書(石川武美記念図書館成簣堂文庫所蔵)public domain
だが、信長と義昭の連立政権は決して順風満帆ではなかった。
将軍就任から2年も経たない永禄13(1570)年1月、信長は義昭に対して『五箇条の条書』を突きつける。
「諸国へ御内書を出すときは信長が副状を出す」「信長は天下のことを任されたので将軍の上意を得るようなことはしない」など、信長が義昭の行動を制限して権限の委譲を迫るような内容である。
果たしてこの文書がどれだけの強制力を持っていたのかはわからないが、信長と義昭の間に不協和音が出始めていたことは間違いないだろう。
この文書の宛先も光秀と朝山日乗となっており、ふたりはこの条書の証人ともいえる立場だったことがわかる。
いわば光秀は、信長と義昭の対立に巻き込まれたも同然であった。
また元亀2(1571)年、光秀は、義昭の近臣である曽我兵庫助乗に対して「義昭のもとを暇乞いしたいのでとりなして欲しい」という直筆の書状を出している。
光秀がなぜ義昭のもとを離れたいと思ったのか、また、義昭が光秀の申し出を許可したかどうかはわからない。
ただ、この時期にはすでに光秀も義昭に対してなんらかの不満を抱いていたことをうかがわせる。
そして元亀4(1573)年2月、義昭と信長は決裂する。
甲斐の武田信玄の西上を受けた義昭が、反信長派に鞍替えするかたちで挙兵したのである。
この挙兵に際して、光秀は義昭をはっきりと見限った。
義昭の挙兵直後、光秀は信長の命令によって、義昭方についた近江志賀郡の石山城と今堅田城を落城させている。
この後、同年4月に義昭は信長と一度は和睦するものの、7月に再び宇治槇島城にて挙兵。
ところが、頼みにしていたはずの武田信玄は4月に信濃で病死していた。
信長はすぐさま出兵し、義昭が挙兵して間もない7月16日から槇島城攻めを開始する。この軍勢のなかには光秀もいた。
それから2日後の7月18日、義昭は信長に降伏し、19日に京都を追放された。実質的な室町幕府の滅亡である。
そして室町幕府の滅亡は、光秀の両属状態が解かれたことを意味する。
この瞬間から、天正10(1582)年6月の本能寺の変まで、光秀は信長を主君として活躍することになるのである。
参考資料 :
『明智光秀・秀満』小和田哲男著 ミネルヴァ書房
『考証明智光秀』渡邊大門編 東京堂出版
『明智光秀の生涯』諏訪勝則著 吉川弘文館
『信長家臣明智光秀』金子拓 平凡社新書
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部
























この記事へのコメントはありません。