
画像:ベネディクト・アーノルド public domain
アメリカ合衆国の独立史において、ベネディクト・アーノルドほど評価が劇的に変遷した人物はほかにいないでしょう。
彼は18世紀後半、独立戦争の初期において、誰よりも勇敢に戦い大陸軍に決定的な勝利をもたらした英雄でした。
しかし、その輝かしい軍歴の終盤において、彼はイギリス軍へと寝返り、独立を夢見た同胞を裏切る道を選びました。
現代のアメリカにおいて、アーノルドの名は裏切り者の代名詞として定着していますが、彼が独立の初期段階で果たした役割がなければ、今日のアメリカ合衆国は存在しなかったかもしれません。
今回はアーノルドがいかにして英雄となり、なぜ反逆の道へ進んだのかをたどっていきます。
若き英雄としての台頭とカナダ遠征
1775年、アメリカ独立戦争が勃発した直後、コネチカット州の商人であったベネディクト・アーノルドは、すぐさま反乱軍側に身を投じました。
彼は植民地側の義勇軍「グリーン・マウンテン・ボーイズ」を率いる民兵指導者イーサン・アレンと共に、ニューヨーク植民地北部のタイコンデロガ砦を奇襲し、大陸軍にとって貴重な重火器を確保することに成功します。

画像:タイコンデロガ砦攻略で知られるイーサン・アレン public domain
この功績により、ジョージ・ワシントン将軍の信頼を得たアーノルドは、さらに困難な任務に挑むこととなります。
それがカナダ遠征でした。
アーノルドは1775年秋、約1100人の兵を率いてメイン州の荒野を強行軍で突き進みました。
未開の密林を抜け、冬の寒さに耐えながらケベックを目指したこの行軍は、兵士の約半数を失うほど過酷なものでしたが、アーノルドは先頭に立って部下を鼓舞し続けたのです。
12月31日に行われたケベックの戦いでは、アーノルドは左足に重傷を負いながらも指揮を執り続けます。
攻撃自体は失敗に終わったものの、その不屈の精神は大陸会議やワシントンに高く評価され、准将へと昇進しました。
1776年、彼はシャンプレーン湖で間に合わせの木造船による艦隊を編成し、バルクール島の戦いで圧倒的な戦力を誇るイギリス海軍と対峙します。
この戦い自体は敗北に終わりましたが、イギリス軍の南下を遅らせたことで、大陸軍に立て直しの時間を与えました。
この時期のアーノルドは、まさにアメリカ独立の立役者の一人であり、兵士たちからも絶大な人気を誇るカリスマ的な指揮官だったのです。
サラトガの勝利と功績への不満
アーノルドの軍歴における頂点は、1777年のサラトガの戦いでした。
この戦いは独立戦争の転換点とされ、後のフランス参戦を促す決定的な要因となります。
しかしこの戦いにおいてアーノルドは、上官であるホレイショ・ゲイツ将軍と激しく対立することとなります。
保守的な防御戦術を好んだゲイツに対し、アーノルドは果敢な攻勢を主張したのです。

画像:ホレイショ・ゲイツ public domain
10月7日のベミス高地の戦いにおいて、アーノルドは解任を言い渡されていたにもかかわらず、馬に跨って戦場へ飛び出しました。
彼は部隊を率いてイギリス軍の防御陣地に突撃し、その戦線を崩します。
この攻撃はイギリス軍に決定的な打撃を与え、やがてバーゴイン将軍を降伏へ追い込む流れを生みました。
しかしアーノルド自身は、この戦いで再び同じ左足に重傷を負い、生涯にわたる障害を残すこととなります。
それにもかかわらず、ゲイツ将軍が大陸会議に送った報告書には、アーノルドの名はほとんど記されませんでした。
それ以前から、アーノルドは自分よりも階級が下の軍人が先に少将へ昇進していく人事案に対し、強い不満を抱いていました。
大陸会議内の派閥争いに巻き込まれ、正当な評価を得られないことに憤慨していた彼は、サラトガでの功績が無視されたことで忠誠心が揺らぎ始めます。
足の負傷によって前線での指揮が難しくなったアーノルドは、1778年にフィラデルフィアの軍政官に任命されました。
ですが、そこでの贅沢な生活や強引な物資調達は市当局との摩擦を深め、やがて軍法会議にかけられる事態へと発展していったのです。
ウェストポイント売却計画と反逆の実行

画像:妻ペギー・シッペンと娘 public domain
フィラデルフィアでの軍政官時代、アーノルドは親英派の家系の娘であるペギー・シッペンと結婚しました。
この結婚が、彼のイギリス側への接近を加速させたと言われています。
重い負債を抱え、さらに大陸会議からの度重なる批判に晒されていたアーノルドは、ついにイギリス軍のジョン・アンドレ少佐と秘密裏に接触を開始します。
彼は自らの地位を利用し、大陸軍に有利な情報を売ることで金銭と名誉を得ようと考えたのです。
1780年、アーノルドはワシントンに働きかけ、ハドソン川の要衝であるウェストポイント要塞の指揮権を手に入れます。
この要塞は、北部の植民地を分断しようとするイギリス軍の進撃を阻むための極めて重要な拠点でした。
そして、イギリス軍総司令官ヘンリー・クリントンに対し、ウェストポイントの守備計画と、そこを陥落させるための手引きを2万ポンドとも3万ポンドともされる巨額の報酬で売り渡そうとしたのです。
9月21日の夜、アーノルドはイギリス軍のアンドレ少佐と密会し、要塞の図面を含む機密書類を手渡しました。
しかし、帰路のアンドレが大陸軍側の民兵に拘束され、所持品からアーノルドの筆跡による書類が見つかったことで、計画は一気に露呈します。
ワシントンがウェストポイントに到着する直前、アーノルドは自らの窮地を察知し、妻と子を残してハドソン川を下り、イギリス軍の艦船に逃げ込みました。
イギリス軍将軍としての活動と晩年

画像:ジェファーソン・デイヴィスと共にアーノルドが地獄にいる様子を描いた風刺画(1865年) public domain
イギリス軍に合流したアーノルドは、准将の階級を与えられ、今度はかつての仲間たちを攻撃する側に回りました。
彼はバージニア州での作戦を指揮し、リッチモンドを焼き払うなど苛烈な戦いぶりを見せ、1781年には故郷であるコネチカット州のニューロンドンを攻撃し、グロトンハイツの戦いで大陸軍の守備隊を壊滅させます。
かつての英雄が故郷を蹂躙する姿に、アメリカ国民の怒りは頂点に達しました。
同年、ヨークタウンの戦いでイギリス軍が降伏し、戦争が終結へ向かうと、アーノルドはイギリス本土へ渡ります。
彼はロンドンで英雄として迎えられることを期待していましたが、現実は厳しいものでした。
イギリスの政界や軍部でも、国を裏切った人物を心から信頼する者は少なく、常に懐疑の目に晒されることになります。
特にホイッグ党の議員たちからは「アンドレ少佐を見捨てて自分だけ生き延びた卑怯者」として非難を浴びました。
その後、アーノルドはカナダのニューブランズウィックで貿易事業を営むなどして再起を図りますが、訴訟沙汰や不運に見舞われ、経済的な成功を収めることはできませんでした。
1801年6月14日、彼はロンドンで失意のうちに60歳でその生涯を閉じます。
死の間際、かつてサラトガの戦いで着用した大陸軍の古い軍服を身にまとい、自分を裏切り者へと追い込んだ運命を嘆いたという逸話も残されていますが、その真偽は定かではありません。
「裏切り者」というレッテルを剥がすことは叶わぬまま生涯を閉じたアーノルドですが、彼がアメリカ合衆国という国家の誕生に不可欠な役割を果たしたことは、否定できない歴史の一幕と言えるでしょう。
参考文献 :
The Life And Treason Of Benedict Arnold/Jared Sparks(著)
文 / 草の実堂編集部

























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