
画像 : 義経がチンギス・ハンに!? public domain
源義経といえば、鎌倉幕府の初代征夷大将軍・源頼朝の異母弟として活躍し、数々の武勲を立てた名将として知られている。
しかし頼朝との確執から朝敵として追われ、最期は自刃に至るという壮絶な末路をたどった。
その一方で、幼少期に天狗に師事したという話や、鎧を着たまま舟から舟へピョンピョンと飛び移ったという逸話など、人間離れした伝説も数多く語り継がれている。
なかでも突飛なものとして知られるのが「義経は実は死んでおらず、モンゴルへ逃れてチンギス・ハンと名を変えた」という伝説である。
チンギス・ハンといえば、モンゴル帝国を築いた初代皇帝として名高い人物である。
ただし、義経=チンギス・ハンであることを示す一次史料は存在せず、現在の歴史学では支持されていない。
それでもなお義経が秘かに生き延び、辺境の地で英雄となったとする伝説は人々の想像力をかき立て、これまでにもさまざまな異説が語られてきた。
今回は、正体が義経だと噂される人物たちを紹介したい。
義経、チンギス・ハン説
まずは、代表的な義経=チンギス・ハン説から見ていこう。
史実において義経は、1189年6月15日、衣川館で自刃したと伝えられている。
その後、首級は鎌倉に送られて首実検が行われたとされるが、この経緯をめぐっては後世にさまざまな疑惑も生じ、生存説の根拠の一つとなった。
室町時代には義経が北方へ向かう物語が描かれ、江戸時代には蝦夷やさらにその先へ向かったとする伝説が広まった。
19世紀に著書『NIPPON』(1832〜1851年)の中で、この種の伝説を紹介した人物の一人が、日本に西洋医学を伝えたことで名高いフィリップ・シーボルトである。

画像 : シーボルト public domain
彼は義経にまつわる噂を収集し、大陸へ渡ったという伝説を記した。
その記述によれば、秘かに生き延びた義経は、まず蝦夷へと逃れた。
その後ユーラシア大陸へ渡り、各地を転々とした末、ついにはモンゴル高原へと辿り着く。
そして、名を「チンギス・ハン」と変え、高原一帯を支配するに至ったというのだ。
チンギス・ハンが即位の際に掲げた旗は「九本の房(九旒)がついた白旗」であったとされる。
また、義経をはじめ源氏の旗も白旗であり、シーボルトはその類似性に着目している。
ただし、源氏の白旗に九旒のような要素は確認されておらず、両者の共通点はあくまで「白旗」である点にとどまっている。
この種の伝説はその後も語り継がれ、1879年には外交官の末松謙澄が、英語論文の中で義経=チンギス・ハン説を体系的に論じている。
この論文は海外にも紹介され、同説が広く知られるきっかけの一つとなった。

画像 : 小谷部全一郎 public domain
さらに1924年(大正13年)には、牧師である小谷部全一郎が『成吉思汗ハ源義經也』を刊行し、同説は一般大衆の間にも広まっていった。
同書では、先述の白旗の九本の房が、義経の通称である九郎判官(くろうほうがん)を表しているとし、チンギス・ハンの別名「クロー」も、その名残だと主張している。
しかし、チンギス・ハンの別名が「クロー」であったという事実は、現在まで確認されていない。
『成吉思汗ハ源義經也』は、こじつけとみられる論証が多く、当時の学界からは無理のある解釈だと批判された。
それでも同書は飛ぶように売れ、文化人の間でも問題視されるなど、さまざまな議論を呼んだのである。
義経、神となる

画像 : オキクルミとなった義経 草の実堂作成(AI)
義経は大陸のみならず、経由地である蝦夷においても、数々の伝説を残したといわれている。
蝦夷の先住民であるアイヌ民族には、「オキクルミ」と呼ばれる神の伝承が伝わっている。
オキクルミは人間の姿で地上に現れ、火や道具の使い方、狩猟の知恵などを人々に授け、怪物や悪しき存在を退治し、人々の暮らしを守った神として語り継がれている。
そしてこのオキクルミこそが、義経であるとする説が存在していたのだ。
水戸黄門として知られる徳川光圀は蝦夷に調査団を派遣しており、その報告の中では、義経をオキクルミと結びつけるような伝承が語られていたという。
さらにその報告では、義経の相棒として名高い武蔵坊弁慶も、オキクルミの兄弟とされる神・サマイクルと結びつけて語られている。
サマイクルは、オキクルミの兄弟とされる神で、英雄として語られたり邪神とされることもある存在である。
その性格は伝承によって異なり、善悪の境界が曖昧な、いわば対となる存在として描かれている。

画像 : 武蔵坊弁慶 public domain
こうした説は、もともと異なる形で伝えられていたアイヌの神話と、和人側の義経北行伝説が重なり合うことで生まれたと推測されている。
その名残として、北海道日高地方にある沙流郡平取町には、義経を祭神とする「義経神社」が鎮座している。
義経、世界を八艘飛び
江戸時代中期以降に広がった義経伝説の中には、義経が中国王朝「清」の祖となったとする、さらに大胆な説も生まれた。
義経がモンゴルで死去したのち、その子孫が満州へ移り、やがて建国したのが清であるというのである。
この説の根拠としては、清という字を「清和源氏」と結びつけたり、清国皇族の姓「愛新覚羅(アイシン・ギョロ)」の響きを、日本神話の「葦原中国(あしはらのなかつくに)」に重ねたりする説がある。

画像 : 愛新覚羅溥儀 public domain
さらに、義経は「極寒の大地シベリアにまで足を踏み入れていた」という伝説もある。
大正時代のシベリア出兵では、日本軍がハバロフスクを占領した際、現地の博物館に義経の甲冑が展示されていたという話や、ニコリスク(現在のウスリースク)で、日本兵が現地の芝居を見学したところ、笹竜胆(源氏の家紋)入りの鎧を着た役者が登場したという話も伝えられている。

画像 : 世界を股にかける義経 草の実堂作成(AI)
義経=チンギス・ハン説をはじめ、蝦夷の神話や遠くシベリアにまで広がるこれらの伝説は、いずれも史実としての裏付けがないものばかりである。
しかしその一方で、義経がいかに人々の想像力をかき立てる人物であったかを物語っているともいえるだろう。
彼の生涯が早くして閉じられたからこそ、その物語は国境を越え、さまざまなかたちで語り継がれていったのかもしれない。
参考 :
『NIPPON』『成吉思汗ハ源義經也』
斉賀万智「山科における義経の伝承基盤に関する一考察」『国文学研究ノート』55、41-56頁 他
文 / 草の実堂編集部
























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