
画像:ソクラテスに教えを受けるアルキビアデス wiki c François-André Vincent
前5世紀、地中海世界ではアテナイ、スパルタ、ペルシアという3つの大国がせめぎ合っていました。
その激突のただ中で、3つの勢力すべてを渡り歩き、戦争の行方に深く関わった男がいます。
アルキビアデスです。
祖国アテナイでは民衆の寵児として台頭し、追放されると今度は敵国スパルタに知略を授け、さらにペルシアでは両陣営を消耗させる策を説きました。
それでも彼は再びアテナイに迎え入れられ、将軍として返り咲きます。
しかし、彼を待っていたのは栄光ではなく、異郷での悲劇的な最期でした。
今回は、追放と復帰を何度も繰り返したアルキビアデスの波乱の生涯をたどります。
アテナイの寵児、シケリアを夢見る
アルキビアデスは前450年頃、アテナイの名門に生まれました。
父クレイニアスは前447年のボイオティア遠征で戦死し、幼くして父を失った彼の後見人となったのは、アテナイ民主政を主導した政治家ペリクレスと、その兄アリフロンでした。
容姿、才気に恵まれ、名門の家に育ったアルキビアデスは、アテナイでもひときわ目立つ若者へと成長し、のちにギリシアを代表する哲学者ソクラテスとも深く関わります。

画像:哲学の礎を築いたソクラテス public domain
後世の伝記作者プルタルコスによれば、前424年、中部ギリシアの諸都市連合軍とのデリオンの戦いでアテナイ軍が敗れた際、撤退中に危地に陥ったソクラテスを、騎兵として従軍していたアルキビアデスが守ったといいます。
30代にさしかかる頃には、アテナイ市民の視線がいやでも彼に集まっていました。
さらに大きく注目を集めたのが、前415年のシケリア遠征をめぐる論争です。
発端は、シケリア島西部の都市セゲスタがアテナイに支援を求めたことでした。これを好機と見たアルキビアデスは、民会で遠征を強く主張します。
彼は「シケリアを手中にすればカルタゴまで手が届く」と訴え、慎重論を唱えるニキアスを押し切る勢いで民会を遠征へと傾かせました。
最終的には三段櫂船134隻、重装歩兵約5100人を中核とする、当時のアテナイとしては空前の規模の遠征軍が編成されます。
しかし船出の前夜、アテナイ市内で不穏な事件が起きました。

画像:ローマ時代に作られたアテナイのヘルマの複製。ヘルマを破壊することは、アルキビアデスが告発された犯罪の1つであった wiki c QuartierLatin
街中に立つヘルメス神の石像、いわゆるヘルマの顔や性器が、一夜のうちに何者かによって削り取られていたのです。
犯人は分からないままでしたが、この異様な事件はただちに宗教的不敬の問題として受け止められ、政敵たちはアルキビアデスにも疑いの目を向けました。
さらに彼には、私邸で国家的な神聖儀礼を仲間とまねて再現し、神を冒涜したという嫌疑までかけられました。
「帰国すれば死刑判決は避けがたい」そう悟ったアルキビアデスは、イタリア南部のトゥリオイでアテナイ側の監視を振り切り、かつての敵国スパルタへと向かいました。
スパルタへの亡命と王妃への接近

画像:18世紀に描かれた、ソクラテスがアルキビアデスを官能的な快楽の抱擁から引きずり出す画 public domain
単身スパルタに乗り込んだアルキビアデスは、そこでも才覚を存分に発揮しました。
スパルタ式の質素な生活をたちまち身につけて市民たちの信頼を勝ち取った彼は、かつての祖国アテナイを壊滅させるための助言を2つ、惜しみなく与えます。
1つは、シケリア島最大の都市シュラクサイに援軍を送ることでした。
アテナイ軍はこの都市を攻略しようとしており、ここを持ちこたえさせれば遠征そのものを頓挫させられると見たのです。
もう1つは、アテナイ近郊の村デケレイアに恒久的な要塞を築き、周辺農地を押さえてアッティカ地方の生産と、銀の産地ラウレイオンへの行き来を断つことでした。
スパルタはこの進言を実行し、前413年にデケレイアを占拠しました。以後アテナイは年間を通じて農地を脅かされ、生活と財政の両面でじわじわと疲弊していきます。
彼のスパルタでの行動は、軍事面だけにとどまりませんでした。
スパルタ王アギス2世が遠征で留守にしている間に、その妃ティマイアと密通したと伝えられています。
のちに生まれた男児レオテュキデスについては、ティマイアが親しい者たちに「本当の父親はアルキビアデスだ」と漏らしていた、ともいわれます。
帰国したアギス2世の怒りの矛先は当然アルキビアデスに向かい、スパルタ内部での立場も急速に危うくなりました。
こうして前412年頃、アルキビアデスはスパルタをも後にします。
ペルシアの太守との取引と帰還工作

画像:コインに刻まれたティッサフェルネス肖像 wiki c Classical Numismatic Group,Inc.
行き着いた先は、小アジア西部を統治するペルシアの太守ティッサフェルネスの宮廷でした。
アルキビアデスはここで、かつての敵同士であるスパルタとアテナイの双方を手玉に取る提言を持ち込みます。
彼はティッサフェルネスに「スパルタとアテナイのどちらかを完全に勝たせてはならない。両者を消耗させ、ペルシアが漁夫の利を得るべきだ」と説きました。
ティッサフェルネスはこの方針に沿うように動き、スパルタへの資金援助を意図的に滞らせました。
3度目の乗り換えで、アルキビアデスは今度は地中海全体の天秤を操る立場に立ったのです。
同時に彼は、アテナイへの帰還も静かに準備していました。
サモス島に駐留するアテナイ艦隊の将校たちに接触し、「ペルシアの支援を得るには民主政の制限が条件だ」と伝えます。
この動きは、前411年にアテナイ本国で起きた寡頭政変、すなわち少数者が実権を握る四百人評議会の成立を後押しする一因となります。
しかし皮肉なことに、サモスの艦隊兵士たちは民主政支持を崩さず、アルキビアデス自身を指揮官に選びました。
政変を利用しながらも艦隊の民主派に乗ることで、アルキビアデスは組織を手中に収めたのです。
前410年のキュジコスの海戦では、アルキビアデス率いるアテナイ艦隊がスパルタ艦隊を完全に撃破し、将軍ミンダロスを戦死させました。
この敗北を受けて、スパルタは和平を探ります。ですが、アテナイでは民衆派の政治家クレオポンらがこれを受け入れませんでした。
その後もアルキビアデスは、ヘレスポントス沿岸の要地アビュドスや、黒海への入口を押さえる重要都市ビュザンティオン方面で戦果を重ねていきます。
そして前407年、アテナイへ帰還したアルキビアデスを、市民たちは熱狂して迎えました。
かつて下した死刑判決は取り消され、彼は陸海にわたる最高司令官として遇されます。
国外へ追いやられたアルキビアデスは、8年後にはふたたび英雄として迎え入れられたのです。
ノティオンの敗戦から暗殺まで

画像:アルキビアデスの像 public domain
しかし、アルキビアデスの足元はいつも砂上の楼閣のようでした。
復権からわずか1年足らず、アルキビアデスが補給任務で不在にしていた間に、腹心アンティオコスが厳命を無視してスパルタ将軍リュサンドロスの艦隊に独断で戦いを挑み、ノティオン沖で敗れたのです。
アルキビアデスは戦闘に直接関わっていませんでしたが、アテナイ市民は司令官の責任を問い、再び彼を解任しました。
こうして彼は、トラキアに築いていた自前の城砦へ退きます。
前405年、アテナイ艦隊がアイゴスポタモイに停泊していたとき、彼は将軍たちのもとを訪れ「この場所は補給に不利で危険だから、近くの港町セストスへ移るべきだ」と忠告しました。
しかし、その進言は聞き入れられませんでした。
ほどなくリュサンドロス率いるスパルタ艦隊の奇襲によってアテナイ艦隊はほぼ壊滅し、ペロポネソス戦争はアテナイの敗北で終わります。
降伏後、スパルタ主導の三十人政権がアテナイを掌握すると、アルキビアデスは小アジア内陸のフリュギアへ逃れ、ペルシア王アルタクセルクセス2世に接近しようとしました。
ですが、スパルタ側の働きかけを受けたペルシアの有力者ファルナバゾスの側では、すでに彼を消そうとする動きが進んでいたと伝えられています。
前404年頃、夜中に住居を包囲した襲撃者たちが火を放ち、外へ飛び出したアルキビアデスは矢を浴びて倒れました。
40代半ばの最期でした。
1人の才覚がこれほど多くの国家の運命に食い込んだ例は、きわめて異例です。
アルキビアデスは単なる裏切り者という枠に収まらない、歴史を一人で書き換えてしまった怪物のごとき天才だったと言えるでしょう。
参考文献
『戦史』上・下 /トゥキュディデス(著),小西 晴雄(訳)
『プルタルコス英雄伝』上/プルタルコス(著),村川 堅太郎(訳)
文 / 草の実堂編集部

























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