
画像:丸岡城内に残るお静の慰霊碑。人柱となった女性の名が、今もこの場所に刻まれている。public domain
福井県の丸岡城に、お静という女性の伝説が残っている。
天正四年(1576年)、柴田勝家の養子、柴田勝豊が城を築こうとしたが、石垣を何度積み直しても崩れたため、人柱(ひとばしら)を立てるほかないという話になった。
人柱とは生きた人間を土の中に埋め、神に捧げることで工事の成功を祈る風習だ。
そこで名乗り出たのが、城下に暮らす貧しい片目の女、お静だった。
お静が出した条件は1つだけだった。「自分を埋めるかわりに息子を武士に取り立ててほしい」というのである。
話はまとまり、お静は石垣の下に埋められ、城はようやく完成した。
ところが勝豊はまもなく他の領地へ転封となり、息子を武士にするという約束は果たされなかった。
以来、お静の怨霊は毎年春の堀の水を溢れさせ、城下に雨を降らせたという。
「お静の涙雨」という伝説である。
人柱に選ばれたのは、弱い人間だった
人柱伝説は全国にある。城や橋、堤防などの大きな建造物では、工事が難航すると「人を埋めれば治まる」という話が語られてきた。
興味深いのは人柱の選び方だ。

画像 : 水野勝成 public domain
元和5年(1619年)、水野勝成が備後国福山(現在の広島県福山市)に福山城を築いていた頃の伝承では、「明朝、最初に城の前を通った者」を人柱にすると決めたという。
翌朝、最初に通りかかったのは、魚売りの久松という男だった。
久松は承知して埋められ、残された妻子には城主から手当が出たと伝えられる。
福山城は1622年ごろに完成し、正式には久松城と呼ばれた。
江戸時代の伝承では、米子城下を流れる加茂川の堤防が何度も決壊したため、翌朝最初に通りかかった者を人柱にすることになった。
翌朝、最初に現れたのは猿回しの男で、男は連れていた猿とともに土手に埋められ、その場所は「猿土手」と呼ばれるようになったと伝えられている。
「最初に通りかかった者」というルールは、一見すると無作為に見える。
だが実際に伝説の中で選ばれるのは、行商人や使い走り、旅芸人など、共同体の周縁にいる者たちであることが多い。お静もまた、貧しく、しかも片目の女として語られている。
志願したにせよ偶然にせよ、人柱として埋められるのは、いつも社会的に弱い側だった。
江戸城から骨が出た日

画像:皇居西の丸の伏見櫓。この櫓の修復工事中に十六体の人骨が出土し、『人柱か』と騒がれた。public domain
ここまで見てきたのは各地に残る伝説である。では人柱は実際にあったのだろうか。
大正12年(1923年)の関東大震災は、江戸城にも被害を与えた。
その翌々年、二重櫓の修復工事が始まると、地中から16体の人骨と古銭が発見され、新聞は「人柱発見か」と書きたてた。
民俗学者の南方熊楠は、世界各地の人身御供の例を引きながら、こうしたことがあっても不思議ではないと述べた。さらに歴史学者の喜田貞吉も、1925年の論考『人身御供と人柱』で、伏見櫓の下から出た人骨を人柱として論じている。
だが、この発見をそのまま人柱とみることはできない。伏見櫓の下には、築城以前に寺院の墓地があったとする見方があり、出土した人骨もその埋葬者だった可能性が高いからである。
人柱伝説は全国に残るが、発掘によってそれを裏づける物証が出る例はきわめて少ない。
考古学的に「これは人柱だ」と確定できる事例は、国内ではほとんど確認されていないのが実情である。
なぜ伝説だけが残ったのか

画像:城の礎に埋められたのは、いつも名前のない人間だった。public domain
証拠がないのに伝説は全国にある。この食い違いをどう考えるべきなのか。
ひとつ言えるのは、巨大な建造物にはそれにふさわしい物語が必要だったということだ。
城や橋、堤防の建設現場では、事故や疫病、過酷な労働によって命を落とした者が実際にいた。そうした無名の死者の記憶が、「人柱」という物語のかたちで土地に残された可能性はあるだろう。
そして、その物語を語り継いできた人々がいたことだけは確かである。
参考文献 :
礫川全次編著『生贄と人柱の民俗学』批評社、1998年
小松和彦責任編集『怪異の民俗学 7 異人・生贄』河出書房新社、2022年
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

























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