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首では運べなかった?秀吉の朝鮮出兵で削がれた耳と鼻を供養する耳塚(鼻塚)【京都市】

平安時代の終わりごろから江戸時代の初期にかけて、武家社会では現代では考えにくい慣習がいくつも行われていました。

その中でも戦で殺害した敵の首を切り取り、それを倒した証として報告していた首検分(くびけんぶん)は、今となってはあまりにも異様に感じます。

少しでも名のある武将を倒すことが重要だった時代、首検分は「戦果の確認」でもあり、その後の恩賞にも影響することから、武士たちは積極的に敵の首を取り、それを証拠として持ち帰っていました。

首ではなく耳や鼻を削ぎ落とした「耳塚(鼻塚)」

しかし朝鮮出兵では、首の代わりに鼻や耳を削ぎ、それを戦功の証として扱った記録があります。

画像:耳塚 ※筆者撮影

画像:耳塚 ※筆者撮影

鼻や耳を戦功の証として扱ったことを物語るものが、耳塚(鼻塚)です。

場所は京都国立博物館と京阪七条駅の間にあります。

画像:耳塚の説明板 ※筆者撮影

耳塚(鼻塚)に関する説明書きがあります。

朝鮮出兵に関するものであることから、その下にハングル語での説明があります。

耳と鼻をそぐように命じた秀吉は塚を建て供養した

画像:耳塚 ※筆者撮影

全国統一を成し遂げた秀吉は、次の攻撃対象を大陸に定めて2度の朝鮮出兵を行いました。

特に2度目の慶長の役では、朝鮮半島に攻め込んだ日本兵が、朝鮮兵や援軍の明兵だけでなく、一般民衆の鼻や耳まで大量に切り取ったとされます。
それらを京都に持ち帰って埋めたものが耳塚(鼻塚)であると、明治から昭和にかけての民俗学者・南方熊楠(みなかた くまぐす)は論証しました。

複数の豊臣政権下の大名が発給したとされる「鼻請取状」では、三万もの鼻削ぎ(鼻を削って塩漬けにして持ち帰った)ことが確認できるとのこと。

ただしこれは一部であり、実際にはもっと多かった可能性があります。

画像:耳塚 ※筆者撮影

耳や鼻をそぎ落とすことを命じたのは秀吉で、その背景には朝鮮半島から首を運ぶことが現実的でなかったことや、敵将の格より数(一般兵や現地の民衆)にシフトしていたことから、そぎ落とす対象の数が飛躍的に伸びたとされます。

また、当初は耳も含まれていたとされるものの、やがて鼻が中心になったことや、朝鮮出兵でも名のある敵将クラスであれば従来通り首を塩漬けにして運んだとも言われています。

鼻と耳の検分が終わった後に埋められ、その上に塚を築いたのが耳塚(鼻塚)です。

慶長2年(1597年)9月28日に大法要・供養の儀がもたれ、その場には400人ほどの僧侶が出席したと伝わっています。

豊臣秀吉の三百年の修営供養碑

画像:耳塚敷地内の碑 ※筆者撮影

耳塚(鼻塚)は柵で仕切られ入口は鍵があるので、柵の外からしか確認できませんが、敷地内にひとつの石碑があります。

これについては刻んでいる文字も見えなかったのですが、京都市による説明を見つけました。

それによれば、これは1898(明治31)年に行われた豊臣秀吉の三百年忌に関する石碑でした。

豊公三百年祭が行われるタイミングで、耳塚(鼻塚)とその周囲が整備されています。

画像:耳塚 ※筆者撮影

(江戸時代の初め塚の上に建てられた五輪塔)

石塚の柵(玉垣)には当時の著名俳優が寄進したものもあり、その役者名が刻まれているとのこと。

画像:耳塚敷地内の碑 ※筆者撮影

耳塚(鼻塚)の下にある記念碑は、改修事業の経緯を示すために建立されました。

篆額(てんがく:記念碑の表札のようなもの)は、陸軍大将大勲位功二級彰仁親王、漢文での撰文(せんぶん:記念碑に刻んだ本文)は、前天台座主大僧正妙法院門跡村田寂順の名が刻まれています。

耳塚(鼻塚)の隣で明治天皇がご休憩

画像:耳塚公園の碑 ※筆者撮影

耳塚(鼻塚)のすぐ横にある耳塚公園では、ふたつの石碑を見つけました。

ひとつ(右側)は文字が大きく、明治天皇御小休所下京第二十七区小学校跡と書いてあり、京都府が建立しました。

もうひとつ(左側)はそのことに関しての詳細が刻まれた碑で、地元の人たち(貞教小学校区民)が建立しました。

いずれも1941(昭和16)年に建てられたとのこと。

画像:耳塚敷地内の碑 ※筆者撮影

左側の碑です。

1869(明治2)年に開校した旧京都市立貞教小学校(2002年閉校)に関するもの。

もともとこの地にあった小学校は、豊国神社を1877(明治10)年に建てるために移転します。

画像:耳塚敷地内の碑 ※筆者撮影

移転前の1872(明治5)年、明治天皇が六大巡幸(ろくだいじゅんこう)として回った際に、小学校に立ち寄り休憩をしたことを示す石碑です。

つまり当時この場所に小学校があって、明治天皇が立ち寄ったという証を石碑として残したわけです。

画像:耳塚 ※筆者撮影

当時から耳塚の存在は知られていましたが、明治天皇が耳塚を目指して立ち寄ったというより、小学校の見学「教育現場の視察」という側面が強いとのこと。

また明治天皇が立ち寄ったことから、当時の槙村正直京都府知事が小学校に「貞教」の名をつけたとのこと。

明治天皇が意識していたかどうかはともかく、記録上そこに耳塚(鼻塚)があったから立ち寄ったというわけではなかったようです。

画像:耳塚 ※筆者撮影

耳塚(鼻塚)
住所:京都府京都市東山区茶屋町533-1
アクセス:京阪七条駅から徒歩5分

参考文献:
藤木久志著「雑兵たちの戦場」朝日新聞社 1995年10月24日
笹間良彦著「図説日本戦陣作法事典」角川ソフィア文庫 2022年4月21日
佐伯真一「『耳塚』と『耳堂』の史実と伝承」青山学院大学
伊勢貞丈著「軍礼抄」1775年
京都市 /現地の説明板・石碑
文 / 奥河内から情報発信 校正 / 草の実堂編集部

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歴史・地域文筆家。国内外問わず歴史が好きなことから様々な時代の歴史の執筆を手掛け、楠木正成や五代友厚などを取り上げた小説の電子書籍を出版している。
2021年に大阪府河内長野市に移住。同年9月から2026年3月まで「奥河内から情報発信」という名でYahoo!ニュースエキスパート地域(河内長野市など)を担当。2026年1月からは自サイト「南河内ニュース」を立ち上げ、主に南河内地域の知られざる、また埋もれた歴史を自ら歩き回って掘り起こしを行いながら、歴史を知らない人でもわかりやすい文章の執筆に心がけている。
知る人ぞ知る南河内ゆかりの人物の歴史小説のコンテストにも何度か応募し最終審査近くまでの実績あり。

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