偉大な父に対して、パッとしない二代目という図式は、世にはよく見られるものだ。
そして歴史の世界でもまたそれは顕著である。武士の時代を到来させた立役者の「平清盛」。だがその跡を継ぎ平家の棟梁となった「平宗盛」は、平家を滅亡させてしまった「愚将」としてのイメージが強い。だが本当に宗盛は愚将であったのだろうか。
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1.「平家物語」の描く「平宗盛」像
平宗盛は、久安三年(1147年)に父・清盛と母・時子の間に生まれた。清盛の三男であったが、二男の基盛がすでに亡くなっていたために、「平家物語」では、嫡男重盛に続く、二男として描かれる。
宗盛が「平家物語」に初めて登場するのが、巻一の「吾身栄花」だ。兄である重盛と並び左右の大将を独占する記事である。
一門共に繁昌して、嫡子重盛、内大臣の左大将、次男宗盛、中納言の右大将、三男知盛、三位中将、嫡孫維盛、四位少将、すべて一門の公卿十六人、殿上人卅余人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人なり。
この人事に不満を持った藤原成親は、平家打倒の第一弾の動きとなる「鹿ヶ谷の謀議」を企てる。
「平家物語」初登場から既に宗盛は“疫病神”のようなポジションを担わされているとも解釈できる。
その後、宗盛の名は「平家物語」中に登場はするものの、目立った言動は描かれない。
「平家物語」中で宗盛が存在感を増して描かれるのは、嫡男重盛が亡くなってからのことだ。
特に印象的なのは、源頼政の嫡男である仲綱の愛馬「木の下」を強引に奪った話だろう。
ようやく名馬「木の下」を手に入れて喜ぶ宗盛の姿。
「あッぱれ馬や。馬はまことによい馬でありけり。されどもあまりに主が惜しみつるがにくきに、やがて主が名のりを金焼にせよ」とて、仲綱といふ金焼をして、むまやに立てられけり。客人来て、「聞こえ候ふ名馬をみ候はばや」と申ければ、「その仲綱めに鞍置いてひきだせ、仲綱めのれ、仲綱め打て、はれ」などのたまひければ、
(「ああ素晴らしい馬だ。この馬は本当にいい馬であるよ。けれどもあまりにも持ち主が惜しんでいたのが憎たらしいので、すぐにその持ち主の名前の焼き印を押せ。」といって、「仲綱」という文字の焼き印を馬に押して、その馬を馬屋に立てなさった。客人が来て「噂に聞きます名馬を見たいです。」と申したところ、「その仲綱めに鞍をのせて引っぱり出せ、仲綱めに乗れ、仲綱めを打て、なぐれ。」などとおっしゃったので、)
無理矢理手に入れた馬に、もとの持ち主の名を焼き印で押して虐待するという愚かさ。
これがきっかけとなって源頼政は以仁王に謀反を勧めて、平家打倒の令旨が発せられるのである。
平家打倒の動き第二弾をもしっかり誘発しているという点で、見事なまでの愚か者キャラである。
この源頼政と以仁王の謀反はすぐに鎮圧されたが、この時に発せられた以仁王の令旨を受けた各地の源氏が立ち上がり、平家を都落ちさせてしまう。
一の谷の合戦、屋島の合戦と、宗盛を棟梁とした平家は、無惨にも敗北を重ねていく。
壇ノ浦の合戦においても宗盛は、田口重能の裏切りを見抜いて斬ろうとした知盛を止めて、
「見えたる事もなうて、いかが頸をば斬るべき。さしも奉公の者であるものを。」
(はっきりとした証拠もないのに、どうして首を斬ることができようか。これほどの奉公の者なのに。)
などと述べて、その後、まんまと裏切りにあってしまい無能ぶりを発揮する。
そして平家一門の者たちが次々と入水をしていく中、宗盛は死に切れない。
大臣殿親子は海に入らんずるけしきもおはせず、ふなばたに立ちいでて四方見めぐらし、あきれたる様にておはしける
(宗盛親子は海に入ろうとする様子もおありでなく、舟の端のところに立って出て四方を見渡して、呆然とした様子でいらっしゃった)
あまりの情けなさに周囲の侍が海へ突き落とすも、水泳が達者であったために沈むこともなく、
なまじひにくッきやうの水練にておはしければ、しづみもやり給はず。
(なまじ、極めてすぐれた水泳の達人でいらっしゃったので、沈みなさらなかった。)
結局源氏に生け捕りにされるという、素晴らしきまでの格好悪さを見せる。
なお「平家物語」の異本のひとつである「源平盛衰記」は、「宗盛が本当は清盛の子で無かった」
という説を、この壇ノ浦合戦に挿入する。
本当は男子が欲しかったのに女子が生まれてしまったために、唐傘を商う僧の家に生まれた子と取り替えたという逸話である。
同じく「源平盛衰記」は生け捕りになった後の宗盛が京で人目にさらされて渡される場面に癩人法師たちの噂話として、
「宗盛は妹である建礼門院徳子と肉体関係を持ち、その結果誕生した子を高倉天皇の子と偽って、安徳天皇として王位につけた」
という話を掲載する。
「愚」どころでなく「人間として完全に終わっているレベル」の記述である。
その最期についても格好悪さ全開の描かれ方である。
源義経の配慮で招かれた本性房湛豪という僧の説法により、ようやく斬られる覚悟を決めて念仏を唱え、安らかな死を迎えられそうに見えたその時。
大臣殿念仏をとどめて、「右衛門督もすでにか」とのたまひけるこそあはれなれ。公長うしろへよるかと見えしかば、頸はまへにぞ落ちにける。善知識の聖も涙に咽び給ひけり。
(宗盛殿は念仏をとめて「右衛門督清宗もすでに斬られたのか」とおっしゃったのは本当に悲しいことだ。公長が後ろに近寄ると見えたところ、首は前にと落ちてしまった。)
何ともタイミングの悪い奴…。そこで念仏やめたらダメやろ。おい!
「平家物語」巻十一『大臣殿被斬』は三位以上になった人物でありながら、前代未聞の晒し首となった宗盛についてこう述べる。
「生きての恥、死んでの恥、いづれも劣らざりけり。」
(生きている時の恥、死んでからの恥、どちらも劣らないほどの大変な恥であった。)
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