西洋由来の「アンチエイジング(anti-aging)」などという横文字が、平成の世ではもてはやされているようである。
老化を恐がり、豚の胎盤やミドリムシを食して狂奔する、平成の世の者たちに私は言いたい。
「いっそのこと、仙人を目指せ」と。
八仙渡海図 wiki
仙人とは
そもそも仙人とは何か。例えばデジタル大辞泉にはこのように書かれている。
「俗界を離れて山中に住み、不老不死で、飛翔 (ひしょう) できるなどの神通力をもつといわれる人。」
一般的に、仙人の特徴として
1.山中に住む
2.不老不死である
3.空を飛ぶ
という3つの点があげられるようだ。
特に中国において「不老不死」を求める思想は根強い。歴史的に検証してみよう。
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不老不死を求めた皇帝たち
「史記」の始皇本紀によれば、始皇帝の天下統一の2年後(紀元前221年)のこと。
「徐市(じょふつ)という方士が始皇帝にこのように伝えたとされる。
始皇帝 嬴政(えいせい)
「海中有三神山、名曰蓬萊、方丈、瀛洲、僊人居之。請得齋戒、与童男女求之。」
(海中に三つの神山があり、蓬萊、方丈、瀛洲と言って、これに僊人=仙人が住んでいます。斎戒し、童男童女とともに、仙人を探そうと思います。)
占いや、長生きのまじないに通じた者を方士というが、始皇帝の周囲にはこのような方士が多くいて、始皇帝に取り入っていたようだ。
これを受けて、始皇帝は徐市に仙人を探しに行かせるも、徐市は仙人にも会えず、不死の薬も得られなかった。
また同じく「史記」の孝武本紀には、漢の武帝が、不老不死を求めて、神仙思想に心酔した様子が描かれている。
武帝 前漢 第7代皇帝
孝武皇帝初即位、尤敬鬼神之祀。
(武帝は即位した初めから、大変にうやうやしく鬼神の祭祀をした。)
また、斉人公孫卿から、「伝説上の皇帝である黄帝が天に昇った」
というエピソードを聞いた際には、武帝はこう述べている。
「嗟乎、吾誠得如黄、吾視去妻子如脱屣耳。」
(ああ、私が本当に黄帝のようになれるなら、私が妻子を捨てるのは藁ぐつを脱ぐくらいに簡単だろうなあ。)
このように、皇帝が不老不死を求めて、仙人や仙薬をあちこちに探させる過程で、神仙思想は広汎に伝播するようになる。
道教の成立
古代から見られる「不老不死」を求める神仙思想を中心としながら、種々雑多な要素を取り込みつつ、中国固有の宗教として成長していったのものが「道教」である。「道教」は、後漢末から六朝時代にかけて形成されたとされる。
中国において道教の影響は大きい。例えば「三国志」に登場する「黄巾の乱」は道教の教団によるものであった。
窪徳忠(くぼ のりただ)氏は、その著書「道教の神々」の中で、「私ひとりの試論」と限定した上で、道教をこのように説明している。
「道教とは中国古代のアニミスティック(=自然崇拝)なさまざまな民間の信仰を基盤とし、神仙思想を中心として、それに道家(=老子や荘子の思想)、易、陰陽、五行、緯書(=予言)、医学、占星などの説や巫の信仰を加え、仏教の組織や体裁にならってまとめられた、不老不死を主な目的とする呪術的傾向のつよい、現世利益的な自然宗教だ
なかなか日本人にはイメージのしづらい道教であるが、例えば「西遊記」や「キョンシー」などを通じて感じられる、あの独特の中国文化の感じ、といえばおわかり頂けるかと思う。なお、日本でもお馴染みの「風水」も、もともとは道教と深い関わりを持つものであった。
「抱朴子」から学ぶ仙人になる方法
「抱朴子」(ほうぼくし)は317年成立の、道教および神仙道の理論と実践を説く書物である。著者である葛洪(かっこう)は東晋の人であった。
葛洪の遠縁に葛玄という人がいた。この人は仙人左慈の弟子であった。左慈は魏の曹操の時代に活躍した人であり、「正史三国志」や「三国志演義」にも登場する。
出典「正史三国志」(魏書武帝紀第一)
左慈は「煉丹の術(不老不死の薬を作ること)」を葛玄に伝え、葛玄はそれを鄭隠に伝えた。そして鄭隠の弟子にあたるのが葛洪である。
その葛洪の記した「抱朴子」は仙人となるための具体的方法を記した書として知られている。
なお、「抱朴子」(巻二 論仙)において仙人はこう定義されている。
上士挙形昇虛、謂之天仙。
(上士は飛挙して虚空へと昇るもので、これを天仙という。)中士游於名山、謂之地仙。
(中士は名山に遊ぶものであり、これを地仙という。)下士先死後蛻、謂之屍解仙
(下士はまず死んだ跡に抜け殻となるものであり、これを屍解仙という。)
そう、仙人にもランクづけがあるのだ。上士以外は空が飛べないし、下士に至っては、なんと、「一度死ななければならない」
とのことである。
いわゆる一般的理解における仙人は、上士である「天仙」に該当するようだ。
それではいよいよ「抱朴子」の記述を通じて、具体的に仙人となる方法を見てみよう。
まず葛洪は仙人となるために必要なことは、いわゆる「服薬」であることを強調する。
葛洪は「抱朴子」(巻四 金丹)で、「丹薬(還元変化させた薬)と、「金液(金を液化したもの)の二つを挙げて、この二つこそが仙道の極意であって、
服此而不仙,則古来無仙矣。
(これを服用しても仙人になれないなら、古来仙人などいなかったことになる。)
とまで述べている。
そしてその理論的根拠として、
夫金丹之為物、焼之愈久、変化愈妙。
(そもそも、丹薬は焼く程に霊妙な変化をする。)黄金入火、百煉不消、埋之、畢天不朽。
(黄金は火を入れて何度鋳っても消えないし、地中に埋めても永遠に腐らない。)服此二物、煉人身体、故能令人不老不死
(この二つを服用して、人の体を錬成するからこそ、人を不老不死にできる。)
と述べ、様々な丹薬の作り方を列挙し、さらに金液の作り方を記す。
ここでは「金液の作り方」を参照してみよう。
合之用古称黄金一斤,並用玄明龍膏、太乙旬首中石、氷石、紫游女、玄水液、金化石、丹砂、封之成水。
(金液を調合するには、昔の秤を用いて黄金を一斤とって、水銀、雄黄、氷石、戎塩、酢、消石、丹砂を混ぜ合わせておき液体を作る。)
ただし
「この合成には、百日間の斎戒をして俗人との交際を絶つことが必要である」
と述べた上で、
「名山の東に流れる川のほとりに精舎を建ててとりかかれば、百日で合成できる」
としている。
その効能は以下のように述べられている。
服一両便仙
(一両服用すればすぐに仙人になれる。)
なお、金液服用後すぐに「昇天(空を飛ぶこと)」をしたい場合は、前もって一年間穀物を絶ってからこれを服用することが必要であるとしている。
これこそが、まさに「天仙になる方法」である。(ちなみに穀類を絶つことは「辟穀」と言われ、これも仙人になるためにしばしば触れられる方法のひとつである。)
また、このようにも述べている。
其次有餌黄金法、雖不及金液、亦遠不比他薬也。
(次には黄金を固形で食べる方法がある。金液には及ばないが、他の薬よりはずっと効果がある。)
これなら現代の我々にも財力さえあればすぐにできそうな感じがする。
ただし、この黄金を固体で食す方法では、「天仙」にはなれず「地仙」にしかなれないとしているので、その点は注意が必要である。
なお、「抱朴子」において葛洪は丹薬や金液以外の植物など(キノコや松など)も仙薬としてある程度効果があるとしている。その点は「抱朴子」(巻十一 仙薬)に詳しい。興味がある方は参照して欲しい。
また「抱朴子」には薬や食物を摂取する以外の仙人となる方法が記されている。
養生之尽理者、既将服神薬、又行気不懈、朝夕導引、以宣動栄衛、使無輟閡、加之以房中之術、節量飲食、不犯風湿、不患所不能,如此可以不病。
(長生法を極めた者は、既に神薬を服用する前提として、呼吸法を怠らず、朝夕導引をして、血のめぐりが滞らないように体を動かし、加えて房中術をおこない、飲食を節制し、風や湿気に犯されないようにして、できないことをくよくよしないことだ。こうすれば病気にならないはずだ。)
呼吸法の重要性、さらに「導引」といういわゆるエクササイズのようなものの重要性を述べる。この「導引」は、例えば、熊や鳥などの動物の動きを真似た動作をおこなうものなどである。
そして、何とも興味深いのが「房中」。いわゆるセックスである。房中については、「巻六 微旨」に詳しい。
人不可以陰陽不交、坐致疾患。若欲縱情恣欲、不能節宣、則伐年命。
(人は陰陽の交わりを欠かしてはいけない。行わないでいると病気になる。だが、もし情欲をほしいままにして、節制できないならば、寿命を損なうことになる。)
そして、ここから先は意味深な内容が続く。
善其術者、則能卻走馬以補脳、還陰丹以朱腸、採玉液於金池、引三五於華梁、令人老有美色、終其所稟之天年。
(その術に長けている者は、走る馬を逆走させることで頭脳を補い、陰丹を朱腸に還したり、金池から玉液を採ったり、三五を華梁に引き込んだりして、年を取っても美しい容姿を保ち、天寿を全うできる。)
このうち三五は「上中下の三つの丹田」と「五臓の気」であるとされる。また「華梁」は鼻のことのようだ。
だが、それ以外の語はなかなか意味を読み取るのが難しいようで先学も苦労されているようだ。
私なりに考えてみよう。
「走馬」は射精のことか、「陰丹」は女性器か、「朱腸(陽?)」は男性器なのか…。「金池」とか「玉液」ってのは…うむむ…。
わかるような、わからないような表現が並ぶ。読者諸君も、夜の営みの際にでも、各自のパートナーとともに研究してみて欲しい。
一方で、「抱朴子」(巻三 対俗)にはこんな真面目な記述もある。
欲求仙者、要当以忠孝和順仁信為本。
(仙人になろうとする者は、要するに、忠・孝・和・順・仁・信を基本となすべきだ。)
いわゆる儒教的道徳の実践をせよというわけである。実は「抱朴子」の筆者の葛洪は神仙思想に通じる一方で、儒者でもあった。
なおここまで引用してきた「抱朴子」はいわゆる『内編』である。「抱朴子」という書物には『外編』というものあって、こちらはいわゆる普通の儒教のテキストである。
「抱朴子」内編の序文には、この書物を記した動機として
「世間の儒者が周公や孔子ばかりを尊重するあまりに、人間は死ぬものだという固定観念から逃れられないで神仙思想を信じない」
ことへの反感があったことが記されている。
そして内編序文はこう結ばれる。
豈求信於不信者乎。
豈に、信ぜざる者に信ずるを求めんや。(信じたくない奴は信じなくていいぜ!)
まとめ
儒教思想が中国において重要なものであったことは確かである。だが、それにもまして神仙思想、そしてそれを中心としつつ発展していった道教もまた、中国の歴史においては非常に重要なものである。
葛洪が儒教思想ばかりでなく、神仙思想に興味を持ち、「抱朴子」を記しておいてくれたことは非常に意義深いことであった。
なお、現代においても、道教の伝統は中国において生き続けている。
仏教の寺院にあたるものを「道観」という。
その最大のものが北京市の「白雲観」である。
ここには「中国道教協会」の本部も置かれており、今も道士たちが修行に勤しんでいるとのことだ。
中国道教協会公式HP → http://www.taoist.org.cn/loadData.do
私も機会があれば是非訪れてみたいものである。
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