日本人で、西郷隆盛の名を知らない人は恐らくいないだろう。
上野の象徴として建てられた銅像は威風堂々としていながら、版画で残された彼の眼差しには優れた知性を感じる。しかし、明治維新における新政府軍のかなめとして、明治政府の要人として活躍した西郷の最後は自刃であった。
なぜ、西郷は政府を敵に回してまでも西南戦争に散ったのか。
2018年の大河ドラマ『西郷どん』の主人公でもある西郷の胸のうちを調べてみた。
西郷隆盛の政策
明治6年、明治新政府において陸軍大将兼参議(軍人でありながら、政治にも参加する)になった西郷は、明治4年(1871年)に特命全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために欧米歴訪にあたり、留守政府を任されていた。
新政府が「富国強兵」の国策により、政治だけではなく、軍事的にも欧米各国と肩を並べるべく、まい進していた時代である。
当時の問題に対朝鮮外交があった。発端は、明治元年に朝鮮側が維新政府の国書の受け取りを拒絶したことに始まる。朝鮮は、鎖国攘夷・排日政策を示したのだ。
これに対し、政府内では武力を以って対応すべきという主張が出ていた。だが、西郷はまずその実態を調査すべく、自ら全権大使として韓国を訪問すると主張する。
数度の議論や説得があったものの、最終的にはこの問題は西郷に委ねられることになった。
しかし、である。
明治6年に岩倉具視が帰国すると西郷が全権大使になるということを了承しなかった。さらには岩倉の工作により、天皇は西郷派遣を無期延期するとの裁可を出したので、西郷は辞職した。
その影響は大きく、西郷に続いて政府の政治家・軍人・官僚が大量に辞任することになる。
これが明治六年政変であった。
私学校と後進の育成
野に下った西郷は、明治6年(1873年)11月10日、鹿児島に帰着し、しばらくは気ままな生活を続けていたが、鹿児島県下には明治の世に馴染めずに行き場がない壮年者や、それに同調する若者が溢れる始末であった。
それでは新時代にふさわしい人材は育たないと考えた有志の説得により、西郷は県令(県知事)の協力を得て、県下にいくつかの私学校を設けた。そこでは、文武(政治と軍事)、農業などを教えることで、正しい日本の心を持った人材を育てようとする。
私学校の運営が軌道に乗ると、西郷はふたたび気ままな暮らしをするようになったが、私学校の力が大きくなり、やがて県政に対する影響力が強まると、政府に目を付けられるようになった。
※私学校正門跡
もちろん、西郷に反乱を起こす思いなど毛頭なかったが、その才能を知る政府が、勝手に脅威と感じていたのだ。
明治9年(1876年)3月に廃刀令が出され、士族とその子弟でが多く在籍する私学校では、政府への反発が強まる。士族とは名ばかりの存在になってしまったからだ。それにより九州各地で小規模な反乱が相次ぐようになった。
西南戦争勃発
政府は、鹿児島での反乱を警戒し、鹿児島の弾薬庫から火薬類を秘密裏に搬出する。火薬や弾薬の所管は陸海軍にあったが、もともとは旧藩士が購入したり、製造したものであるから勝手に持ち出すのは言語道断と、騒ぎになった。おまけに状況偵察と謀略のために24名の警察官を鹿児島に潜入させていたことが発覚。
これにより、私学校の若者たちは政府に反旗を翻し、火薬庫襲撃を決行する。さらにそれに触発された多くの鹿児島士族たちも合流し、戦力が整うことになる。
その知らせを受けた西郷は「ちょしもうた!(しまった)」と叫んだといわれている。若者たちの政府に対する悪感情を知りながらも、まさか襲撃などしないだろうという読みの甘さに対してだった。
※鹿児島暴徒出陣図
ここに西南戦争が始まったのである。
西郷参戦
薩軍に合流した西郷は、やむなく軍を率いて部隊を編成した。西郷軍となった彼らが目指したのは、当時、九州における政府の拠点であった熊本である。熊本鎮台(日本陸軍の最大の部隊単位。現在での師団に相当する)を攻め落とすことが最初の目的であった。
ここで、西郷の葛藤がわかる。
政治の世界から離れ、それでもなお日本国家のために若者の教育に尽力した。それは、安易に「力」による問題解決をさせないためである。維新の際には江戸無血開城まで実現させた西郷にとって、対話による解決は夢物語ではなかったのだ。
それが、私学生に伝わらなかった辛さ。そして、それを伝え切れなかったことに対する自責の念。さらには、同じ国民である鹿児島県民を危険視する政府の姿勢。
そのときの西郷に出来ることは、時代の流れに身を任せることしかなかった。
※城山の戦い
西郷軍は薩摩武士の恐るべき白兵戦によって新式銃を装備した政府軍を随所で破り、九州各地で半年にわたる激戦を繰り広げた。しかし、数に押される西郷軍は陣地を奪われこそすれ、奪うことが出来なくなっていく。
そのような戦況の中、西郷は鹿児島県城山の戦いにて複数の弾丸に倒れ、死を覚悟すると部下に首を刎ねさせた。享年51歳。
西郷隆盛が伝えたかったもの
一説によると、熊本鎮台にいた山県有朋が西郷暗殺を計画、それを知った西郷が怒って挙兵したともいわれる。しかし、それしきのことでわざわざ若い命を無駄にさせるような男ではない。
若者たちの熱意に押され、時代の流れに呑まれて西南戦争を戦ったものの、彼には戦いの結果が見えていた。それでも戦った理由は、政府への「警鐘」である。
明治になり、わずか十年。国家としての体裁は保っていたが、当時の日本には外国と戦争をする余裕などない。ましてや、国内すら統率できていないのだ。それを忘れた政府に、そして国民に、西南戦争を通して「日本はまだ本当の意味で新時代を迎えていない」ことを知らせようとしたのである。
こうした内乱がなくならぬ限り、日本の夜明けとはいえない、と。
朝鮮との安易な戦いの道を避け、日本の実情を見抜いていた西郷らしい戦いだった。
『幕末・明治・大正 回顧八十年史』(1933年出版) –
最後に
西郷隆盛は、西南戦争を無意味なものにしないために戦った。
そして、まさにそれは無意味な戦いではなかった。
明治天皇は西南戦争終結直後、宮中の歌会で「西郷隆盛」という題を出している。
「これまでの西郷の功績は極めて大きなものである。この度の過ちでその勲功を見過ごすことがあってはならない」
との言葉だった。
天皇にここまで信頼された男は、きっと天皇の心に大きな教えを残したに違いない。
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