西洋史

ナイチンゲールの真の功績 について調べてみた【統計学の先駆者】

裕福な家庭に育ち、高い水準の教育を受けた天才少女は、やがて「白衣の天使」と呼ばれるようになった。彼女が後世に残したものはとても多く、「天使」のイメージだけが知られているが、実際は彼女の性格ではなく、傷病者の看護に捧げたその人生こそが「天使の行い」であった。

看護婦を志した少女

ナイチンゲールの真の功績
※フローレンス・ナイチンゲール

フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年5月12日 – 1910年8月13日)は、イギリス人だが両親の2年間の新婚旅行中にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで一家の次女として生まれ、フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられた。

彼女は幼少期より贅を尽くした教育を受けてきた。複数の言語を自在に操り、ギリシア哲学や、数学、天文学、経済学、歴史、美術、音楽、絵画、地理学、歴史学、心理学といった勉強まで。まさに、天才少女である。

ナイチンゲールが成人に達した1840年代、イギリスは『飢餓時代』と呼ばれる経済不況を招き、市民の貧困化が高まっていた。隣のアイルランドにおいても、ジャガイモに蔓延した疫病により大飢饉が発生(ジャガイモ飢饉)、餓死者・他国への移住者が激増した。実状をその目で見るため、病院・慈善施設を訪問するうちに、貧窮・病気による悲惨な生活を余儀なくされた人々に奉仕したいと思うようになり、看護の道を歩み始める。

やがて、ナイチンゲールは看護に理解のある知人たちと出会い、1851年には精神を病んだ姉の看護をするという口実で、ドイツの病院付学園施設カイザースヴェルト学園に滞在する。ここでは、看護婦に対しても教育が行われていた。当時、看護婦は、病院で病人の世話をするためだけの地位として見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていた時代であった。そのため、看護婦の道を志すナイチンゲールとそれに反対する母、姉との関係は険悪となり、家族内の理解者は父だけとなる。

クリミア戦争勃発

ナイチンゲールの真の功績
※クリミア戦争・セヴァストーポリ包囲戦

しかし、1854年にクリミア戦争が勃発した。

フランス、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャ王国(現フランス、イタリアの一部)とロシアが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島(黒海の北岸にある半島)、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。

すると、ナイチンゲールにも転機が訪れた。ロンドンタイムスの特派員により、クリミア戦争における負傷兵の扱いが、後方ではぞんざいなものとなっていることが伝えられるようになると、一気に世論は沸騰する。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固めた。

1854年3月、イギリスのクリミア戦争参戦が発表され、10月にはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かったのである。

そのとき、彼女はロンドンにある『淑女病院』の看護婦長(看護監督)に就任していた。

戦場の現実

ナイチンゲールの真の功績
※看護婦として戦傷兵を見舞うナイチンゲール(1855年)

看護団は11月に現地に到着したが、現地の兵舎病院では陸軍の軍医長官であるホール(1795-1866)の管理体制におかれていた。11月に到着した看護団に対し、ホールはあからさまに看護団を冷遇した。まずは看護団の病院入室を拒否して、従軍そのものに嫌悪感を示したのである。このため、ナイチンゲールら看護婦は、まず同地の不衛生さを取り払うため、病院の便所や手洗い場の清掃に取りかかった。

しかし、味方がいないわけではなかった。ヴィクトリア女王ハーバート戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接自身に届けるよう命じた。ハーバートはすぐにこれを戦地に送り、病院内に貼り出させた。ナイチンゲールと看護婦団、そして傷病兵らは元気付けられ、間接的にではあるが対抗勢力にはヴィクトリア女王からの圧力となる。

同時期には、セヴァストーポリ戦が激化し、スクタリには山のように積み上げられるほどの傷病兵が送られてきたため、ナイチンゲールらは看護にようやく従事できるようになった。ロシア黒海艦隊が立てこもるセヴァストーポリをイギリス・フランス・トルコ連合軍が攻撃したことに始まった戦いは、ほぼ1年にわたって続いた。戦病者も含め両軍で20万人以上の死者を出す激戦となる。

こうした経緯を経て、彼女はスクタリ病院の看護師の総責任者として活躍した。戦後に分かったことだが、着任後に死亡率は上昇 (42%) したものの、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転した。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、このときのナイチンゲールの働きに由来する。

光を掲げる貴婦人

ナイチンゲールの真の功績

※1854年頃のナイチンゲールの写真

しかし、ナイチンゲールの素顔は現実的、合理的、戦略的で、「天使」の呼び名とは大きく異なっていた。

ナイチンゲールが戦場で「敵味方もなく」看護したという記録はなく、「看護師は誰もが自己犠牲を惜しまぬ白衣の天使であるべきだ」などとも考えていなかった。それを表す彼女の言葉が残っている。

『看護の仕事は、快活な、幸福な、希望に満ちた精神の仕事です。犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、活発な女性こそ、本当の看護師といえるのです』

看護婦とは「専門職」であり、自分のなかに看護を生きがいと思える前向きな気持ちが必要だと考えていたのである。

実際、効率的に患者を治療するためには、銃弾を受けて手足が使えなければ切断手術、木片が刺さっても切断手術。それも麻酔などはない。患者が暴れるようなら銃の台尻で後頭部を殴り、失神させてでも治療を続行したという。

一方で、傷口の消毒から衛生における体の洗浄、また包帯、寝具、衣類など日用品を自前で調達、そして、常に患者のそばから離れることなく、ろうそくのランプを手に夜回りを行った。そのため、ナイチンゲールは『光を掲げる貴婦人』とも呼ばれた。
これも前線での物資不足を補って適切な治療を施すためであり、夜回りも自己犠牲ではなく、必要性があって行ったのである。

戦場において一番大切なことは「良好な衛生環境を維持すること」を感じたナイチンゲールは治療とともに、病院内の衛生面の改善にも尽くした。後の調査で分かったことだが、看護団が活躍するまでの多くは、蔓延する感染症など不衛生だったことが原因だと推測された。

終戦後


※ナイチンゲールが考案した「鶏のとさか」と呼ばれる円グラフ。クリミア戦争での負傷兵たちの死亡原因を、予防可能な疾病、負傷、その他に分けて視覚化している。

クリミア戦争が終結し、帰国したナイチンゲールはヴィクトリア女王と謁見、勲功を讃えられた。この頃には国民的英雄として祭り上げられることを快く思わず、帰国の際も偽名を使って帰国している。しかし、彼女の本当の功績はこの後に作られた。

まず、ナイチンゲールチームはバーリントンホテルに集結し、戦時の報告書をもとに病院の状況分析を始める。そして、数々の統計資料を作成した。それは、衛生環境の改善が大事だということを軍の上層部に分かってもらうため、幼い頃から数学と統計学が得意だったナイチンゲールが作成した「野戦病院での死亡統計」などであった。これは扇状の円グラフだったため、『鶏のとさか』と呼ばれており、イギリスでは、ナイチンゲールを統計学の先駆者としている。

さらに、軍司令部の無能さや非情さ、物資の補給を滞らせる政府や軍当局、病院管理者を激しく批判した。

このように政治的な働きも行うことで、1860年には「ナイチンゲール看護学校」が完成。同年、彼女は『看護覚書』を完成させ、看護教育者のバイブルとして広く読み継がれていった。さらに、銀行家だったスイスのアンリ=デュナン(1828-1910)が彼女の看護活動に感銘を受け、1863年ジュネーヴにおいて国際赤十字社を設立して活動を行い、翌1864年には赤十字規約によって条約が締結され、16ヵ国が参加、国際赤十字連盟の成立に至った原点というのは、紛れもなくナイチンゲールの功績があったからこそである。

最後に

ナイチンゲールが実際に看護婦として働いたのは、なんと2年半しかなかった。

帰国後に病により、その後の54年間はベット上の生活を余儀なくされながらも、衛生管理の改善、看護婦の重要性などを説き、1910年8月13日に死去。享年90であった。しかし、彼女の看護婦としての「表の顔」が世界に知れわたったことは、結果的に看護婦の地位向上にもつながったのである。

余談だが、『光を掲げる貴婦人』伝説は、現在の看護学生の戴帽式の際、ナイチンゲール像が手にするろうそくから、学生たちが自身のろうそくに分火し、『ナイチンゲール誓詞』を交わすという儀式に受け継がれている。

ナイチンゲール誓詞

われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん

わが生涯を清く過ごし わが任務(つとめ)を忠実に尽くさんことを

われはすべて毒あるもの 害あるものを絶ち 

悪しき薬を用いることなく また知りつつこれをすすめざるべし

われはわが力の限りわが任務の標準(しるし)を高くせんことを務べし

わが任務にあたりて 取り扱える人々の私事のすべて

わが知り得たる一家の内事のすべて われは人に洩らさざるべし
      
われは心より医師を助け わが手に託されたる人々の幸のために 身を捧げん

 

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