江戸幕府を開いた徳川家康、幕府の基礎を固めた徳川秀忠はどちらも征夷大将軍として大きな功績を残している。
しかし、3代将軍・徳川家光についてはどうだろうか?
すでに江戸幕府が磐石といえる体制を築いた時代において、どのような功績を残したのか。為政者としての徳川家光について調べてみた。
生誕
※徳川家光
徳川家光(慶長9年7月17日(1604年8月12日)~慶安4年4月20日(1651年6月8日))は、2代将軍秀忠と、浅井長政の娘であり織田信長の姪にあたる江の次男として生まれた。
祖父の家康は翌年に将軍職を秀忠に譲位して駿河に隠居したため、家康との接点は少ない。家光は次男ではあったが、長男の長丸は幼くして亡くなり、いずれは将軍職に就くことがほぼ決まった中で育った。そのため、幼名も祖父と同じ竹千代を与えられる。
誕生してからは、後に春日局で呼ばれる福が乳母となり大切に育てられた。
春日局
※春日局(斎藤福)
しかし、慶長11年(1606年)、家光2歳のときに弟の国松(後の忠長)が誕生すると、両親は忠長に愛情を注ぐようになり、家光は疎外されてゆく。これを案じた乳母の福は、駿府まで直々に赴き、家康に実状を訴えたのである。
将軍家の乳母へあがる以前の福は、稲葉正成の後妻であり、3人の子を授かったのだが、夫の正成と正式に離縁する形で乳母となった。離縁については「正成から言い渡された」「福から去った」「将軍家から正式に召されて仕方なく」などの諸説がある。
正成と離縁し、将軍家の乳母となるということは、実子との縁も断たねばならない。そのため、福は家光を我が子のように可愛がっていた。それが、何としても家光を将軍とするために動いた理由である。この事態を憂慮した家康は、「年齢が上のものが継ぐべきだ」という態度を明確にし、家光の世継決定が確定したという。
この話は、家光死後の創作だというのが定説となっているが、江の没後は家光の側室探しに尽力したりと、その愛情は本物であったようだ。
将軍へ
元和2年(1616年)に家康が死去したために延期されていた元服は、元和6年(1620年)に済ませ、名も竹千代から家光に改めた。「家」は家康の「家」で、以後の徳川将軍家ではこの「家」が嫡男に使用する通字となった。
元和9年(1623年)、父の秀忠は家光に将軍職を譲位すると、江戸城の西の丸に隠居し、家光が本丸へ移る。しかし、家康と秀忠の時と同じように、家光に対しても秀忠は政治的実権は譲らず、その影響力によって公家の娘である鷹司孝子(たかつかさたかこ)を家光の正室として迎えさせた。
幕政は二元政治のもとに置かれたが、寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると、そこから家光の将軍としての力量が試されることとなる。
幕府機構の確立
※藤堂様御国入行列附版画
まず、将軍を最高権力者である「公方(くぼう)」の位に置いた。公方は古代においては天皇を指し、鎌倉、室町と時代が下がるにつれ、江戸時代には王権をほぼ全て掌握する将軍の別称として完全に定着し、「公方」と言えば徳川将軍だけを意味するようになる。
公方となった家光は、旗本を再編し、幕府には老中、若年寄、奉行、大目付といった役職を設け、泰平の世を維持するための幕府機構を確立した。重臣としては、大老の井伊直孝、土井利勝、酒井忠勝などがいる。
さらに熊本藩主・加藤忠弘を改易するなど、有力大名の改易と転封を行い、重要な拠点には譜代大名を配し、徳川家の支配力をさらに固めていった。この頃には豊臣家の家臣だった外様大名も、ほとんどが政治の舞台からは退いており、諸大名においては感情的な反発は低かったと思われる。
寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加え、徳川家の支配力はさらに高まった。
鎖国とキリシタン弾圧
そして、家光の政策において最も影響の大きかったものが、寛永18年(1641年)にオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させたことと、キリシタンへの弾圧政策の推進であった。
鎖国は、宣教師を工作員とした欧州各国の内政干渉と植民地化を予防するためという面から一定の効果があり、後の国内産業の発展にも繋がったと肯定的な評価もある。徳川家康が奨励した朱印船貿易も、事実上は宣教師の密航の手段となっており、対外政策として適切ではないとして終えることとなる。それに代り、長崎の出島(対オランダ)、対馬(対中国、朝鮮)、薩摩(対琉球)、松前(対アイヌ)の4ヵ所を貿易の窓口として、これを「四口(よんくち)といった。
一方で、キリシタンに対しては、過剰なまでの迫害を行い全国規模での粛清が行なわれた。どちらの政策においても、家光が単に外国を嫌悪していたとする説もあるが、重臣の意向も積極的に取り入れるという柔軟な姿勢も見せている。
最後に
家光の政策においては、秀忠に続き、徳川の支配力をさらに強めることと、鎖国という対外的な2つの面に絞られていた。それにより江戸幕府は以後200年以上も続くことになったのである。
決して派手ではないが、祖父や父に負けないほどの大きな功績を残していたのだ。
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