前回の「キリスト教を分かりやすく調べてみた【カトリック,プロテスタント,正教会】」では、神の意味とか教派の違いなどをお話しましたが、今回はもう少し深くお話したいと思います。
「聖書」と「祈り」についてです。
やっと核心に近づけた感じですね(笑)
では、まずは聖書のお話から始めましょう。
[ikemenres]聖書
キリスト教において、聖書は教典であり聖典です。ユダヤ教でも同じで、イスラム教では教典とされています。
日本語だと聖典も教典も同じような扱いですが、聖典は「神様のありがたい教えや聖人の行いを記したもので、その宗教の中で最も大切な書物」のこと。一方、教典はその参考書みたいなものと考えればいいでしょう。イスラム教の聖典は「コーラン」がありますからね。
ちなみに、聖書は「世界一のベストセラー」なんて言われますが、どのくらいの発行部数なのか調べてみたところ、「多くが無料で配布されたため、正確な部数は不明」だそうです。当然と言えば当然ですね(笑)
でも、推定ですがギネスブックによると3,880億冊となっています。
そして、キリスト教の聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」があります。
その違いは何でしょうか?
旧約聖書
※レンブラント作「モーセの十戒」
聖書を「旧約聖書」、「新約聖書」と分けて呼ぶのはキリスト教だけです。
旧約聖書は、キリスト教が誕生する以前のお話で、新約聖書はイエスが亡くなったあとにキリスト教の信徒により記されたものだからです。旧約聖書で重要なのは「モーセとユダヤの民がヤハウェという神と契約をする場面」です。
神様を相手に契約っていうのも凄いですが、とにかく居場所がない彼らにヤハウェは、
「私を信じるなら、お前たちに約束の地を与えよう」
という契約です。これが「旧約」の意味なんですね。ちなみに日本ではエホバと呼ばれたりもしますが、これは間違った読み方で正しくは「ヤハウェ」「ヤーウェ」だそうです。
他にも、「アダムとイブ」「ノアの箱舟」「バベルの塔」、そしてこのモーセの話など、私たちが聖書の物語として知っている多くのエピソードが旧約聖書には書かれています。でも、イエスは登場しない。だからユダヤ教では「この一冊で大丈夫!」ということになります。
新約聖書
※マタイ
新約聖書はイエスの生涯とその教えが「福音(ふくいん)」という形で記されています。イエスの死後に、その教えを記した書がいくつも書かれ、それをまとめたものが新約聖書です。死後、といっても早いものでは数十年後には書かれていたらしく、もしかしたらイエスと同じ時代を生きた人が書いた可能性もあります。
そして、イスラム教でもイエスは預言者として認められているので、新約聖書の一部も認められているようです。
旧約聖書は、ヤハウェとユダヤ人との契約のお話でしたが、イエスが神の子として誕生(=契約)したことにより、以前の契約は旧い契約と考えられるようになりました。
つまり「イエス・キリストが契約更新したから、ユダヤ教の契約は旧いってことになるからね!今後はそういう認識でよろしく!」ってキリスト教徒が、イエスも知らないところで決めちゃったわけです。だから「新・旧」と分けるのはキリスト教だけなんですね。
ちなみに、新約聖書で重要なのは「福音書」です。「マタイによる福音書」とか聞いたことありませんか?「福音」とは良い知らせ、つまり「キリストの誕生と人の罪を背負ったことこそ良い知らせ」ということで、イエスの記録を世界に広めるために書かれました。
祈り
祈り方、信仰の仕方も教派によって違いがあります。
とはいえ、信仰することで「現世よりも天国での利益が得られますよ」という点では同じです。あとは「信じれば天国に行けるけど、信じなかったら地獄に落ちます」とかですね。そして、このことが信仰の核心になるわけです。
でも、聖人信仰と言って「イエスやマリア、マグダラのマリア」など聖人とされる人たちに祈ることで救いを求めることもあります。聖人信仰はカトリックや正教会の文化ですね。
プロテスタントはどうかというと、直接神様に祈るだけ。単純明快です。偶像崇拝を禁じているので、イエスは信じていても、祈るのは神に対して祈るだけです。言ってしまえば、カトリックや正道会は神様の代理人を通しているけど、プロテスタントはショートカットしているような形になるわけです。
イエスの導き
キリスト教というのは「精神的」「哲学的」なイメージがあります。
具体的に「こうした時はああしなさい」というより「神はあなたを見ておられます」という感じで、「現世での困ったことに具体策を示してくれないの?」って思っていました。
でも、ある時、ちょっとした悩み事があってカトリックの教会をふらりと訪れました。たまたま牧師さんがいらっしゃって悩みを打ち明けたところ「神はいつでもあなたのそばにいます。心の中で祈るだけでも構いません。きっと道筋を教えてくれるでしょう」というようなことを言われました。
でも、私はキリスト教徒ではありません。
それでも「信仰心があれば大丈夫です。大切なのは神を信じて祈ることです」という答えが返ってきます。確かに具体的な解決策は見付からなかったけれど、「神様が見ていてくれているんだ」と、気持ちが軽くなったのを覚えています。
何が言いたいのかというと「キリスト教は神を信じる気持ちさえ持てば、個々のアフターフォローもバッチリ!」という寛大さがあるということです。そのサポート役として、牧師さんや神父様などがいらっしゃるんですね。
まとめ
まだまだキリスト教については調べたいことがあります。
取り敢えずはここまでにしますが、思ったことをストレートに言うと、
「権力争いとかもあるんだろうけど、キリスト教そのものはとても「寛容」で「許し」を大切にする宗教」だということです。
機会があれば、一度教会を訪れることをオススメしますよ。
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