今を遡ること約700年前。
後醍醐天皇、足利尊氏、新田義貞らと共に鎌倉幕府打倒の立役者となった一人の男がいた。
その男は、武家でも公家でもないが、後醍醐天皇の信頼を得るまでに出世する。
「楠木正成(くすのきまさしげ)」
彼はなぜ、そこまでの活躍を残せたのだろうか?
土豪の挙兵
※楠木正成画像
南北朝時代の出来事を記した古典文学「太平記(たいへいき)」にもその名はあるが、出自はおろか出身地も諸説あり、歴史の表舞台に立つまでの正成がいかに無名であったかがわかる。河内の土豪にしか過ぎなかった楠木正成が歴史に名を刻む切っ掛けとなったのは、鎌倉幕府の腐敗であった。
14世紀始め、100年にもわたり栄華を誇った幕府の執権は、北条時高の時代になり、幕府内は腐敗し治安は乱れた。若くして執権となった時高は「田楽のほか他事なし」といわれるほどに歌や踊りに興じ、重税が農民を苦しめていたのである。
このときに倒幕の挙兵をしたのが後醍醐天皇であった。
京の笠置山で挙兵した後醍醐天皇は、諸国の反幕府勢力に参戦を呼びかける。しかし、幕府の強大な軍事力を恐れ、後醍醐天皇のもとには少数の勢力しか集まらなかった。そこに参戦したのが楠木正成である。
楠木氏は河内(現・大阪府)の土豪でありながら、播磨(現・兵庫県)まで出没していたという記録もあり、楠木氏は広い範囲にわたって商業や輸送の利権を握る土豪だったと考えられている。
土豪とは「武家」でも「公家」でもない、新興の民衆勢力のことであった。
赤坂城の戦いはゲリラ戦の勝利
当時、こうした利権の独占を目指す鎌倉幕府は、土豪を「悪党(体制から外れた集団)」と呼び、激しい弾圧を行なった。それに対して、土豪も武装をして対抗する。そのような状況下で、楠木正成は500騎を率いて参陣し、ことのほか後醍醐天皇を喜ばせた。そのせいか、身なりもみすぼらしい土豪の正成に対し、天皇は戦いについての意見を求める。
正成は、正面からの戦いでは勝てないと言いつつも、
「智謀をもって策略を巡らせば、武力を凌ぐことができます」と答えたと太平記には記されている。
1331年、楠木正成は河内南部の山城「赤坂城」で挙兵する。その数、わずか500。一方、北条高時は数万という幕府軍を討伐に差し向けた。太平記には、赤坂城を見た武将が「一日くらい持ちこたえてもらわぬと、恩賞にもあずかれまいぞ」と言い放ったと書かれるほどの戦力差であった。
しかし、油断して城への斜面を登ろうとした幕府軍に、城から落とされた丸太や石が襲い掛かる。弓での戦いしか知らぬ幕府軍に対し、楠木正成は当時では常識外れともいえる「ゲリラ戦法」で勝利したのであった。
※赤坂城の戦い。石や丸太によって落下した幕府軍に、楠木軍が矢を射る。
武力に智謀が勝る
しかし、楠木正成が率いた500の兵は、幕府の兵とは違って武士ではなかった。
地侍(じざむらい)、つまり、農業や商いを行いながら武装もする民衆だったのである。そのため、一対一で戦う武士とは違い、武功などにこだわらない民衆は、集団で戦うことで勝利を得たのである。
「武力に智謀が勝る」
楠木正成の後醍醐天皇へ向けた言葉の裏には、民衆の力に対しての自負があったのだ。
1332年、楠木正成は、和泉(現・大阪府南部)、摂津(現・大阪府北部、兵庫県南東部)の守護を攻め落とし、摂津の天王寺を占拠して京に迫る。これに対し幕府は兵を差し向けるが、天王寺はすでに楠木軍が退去したあとであった。
難なく天王寺を占拠したと思えた夜、幕府軍は天王寺から遠く生駒山までを埋め尽くすかがり火に囲まれたのである。それは何万という数だった。楠木軍の戦力に不利を悟った幕府軍は退却を余儀なくされる。
しかし、それは正成が地元の住民たちを使ってかがり火を焚かせ、幻の大軍を演出した結果であった。
ネットワークの中心人物「楠木正成」
しかし、なぜ楠木正成はそこまで民衆の心を掴むことができたのか?
そこには民衆の幕府への不満はもちろんのこと、流通業に携わり各地に独自のネットワークを築いていた正成が、倒幕の象徴として支持されたという背景があった。
1333年、8万の正成追討軍に対し、楠木正成は河内国の千早城で1000の兵力と共にこれに対抗した。正成の奇策を知る幕府軍は、兵糧攻めを行ったが、いつまで待てども楠木軍の兵糧が尽きるどころか、逆に幕府軍の兵糧が底を尽いたのである。これにより幕府軍は徐々に戦線を離脱したが、その背後にも民衆の力が働いていた。
※千早城復元模型/千早赤阪村立郷土資料館蔵
地元の土豪が千早城に兵糧を運びこんでいたのである。
それは、幕府軍に取り囲まれている真っ只中で、正成が地元の協力者に協力を取り付ける手紙を送った結果だった。
すなわち篭城戦の最中でも山伏などを使い、城外との連絡手段を持っていたということだ。
民衆の力が勝ち取った北条氏の滅亡
※皇居外苑にある楠木正成像
この戦いの結果により、幕府の威信は失墜し、各地で反体制勢力の挙兵が相次ぐようになる。
そこには、幕府の有力な御家人であった足利尊氏の姿もあった。足利尊氏は京都にある幕府奉行所「六波羅探題」を攻め滅ぼし、新田義貞は鎌倉幕府を滅亡させることに成功したのである。
楠木正成が民衆の力と共に千早城を守りぬいたことが、100年続いた鎌倉幕府を瓦解させたのだ。
1333年6月、幕府により隠岐に流されていた後醍醐天皇は、晴れて京へと戻ることになる。名誉あるその前陣には、楠木正成の姿があった。
楠木正成 戦場で散る
この後、楠木正成は、足利尊氏が後醍醐天皇と対立するようになってからも最後まで天皇を支え、天皇のために戦場で散ることになる。
しかし、足利尊氏が武家の支持を得ていたように、正成もまた「民衆のカリスマ」であり、天皇と民衆をつなぐネットワークの中心でもあったのだ。このことが、彼を歴史の表舞台に立たせる大きな力になったのである。
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