紀元前3世紀の地中海地域では、北アフリカを拠点とする海洋国家「カルタゴ」と、イタリア半島に勃興した「共和制ローマ」の対立が激化していた。
第一次ポエニ戦争ではローマが勝利したが、前218年、再び両者の対立は先鋭化し、第二時ポエニ戦争が勃発する。
兵力と艦艇の数で劣るカルタゴは、短期決戦で敵に致命的な一撃を加え、有利な条件で講和を結ぶという戦略を練り上げた。
そして、その難しい任務を任されたのが、若き天才「ハンニバル」であった。
カルタゴ、ローマに向けて
【※ハンニバル・バルカ】
ローマ本土への侵攻こそが致命的な一撃になると判断したハンニバルは、優勢なローマ艦隊との衝突を避けられ、その上ローマの意表をつける「アルプス山脈越え」の陸上ルートをその進軍路に選択する。
同年5月、ハンニバルは37頭の戦象を含む5万の軍勢を率いて植民地ヒスパニア(現・スペイン)を出発した。ローマ本土まで2,000km以上の行程である。
特に地図も案内人もいないアルプス越えの行軍は困難を極め、早くもカルタゴ軍は2万もの兵士を失ってしまう。それでもカルタゴ軍はアルプス越えを成功させ、10月にはローマの本土であるイタリア半島への侵入を果たしたのだった。
突然のカルタゴ軍襲撃にローマは慌てふためくことになる。彼等はカルタゴ侵攻のために編成していた軍団を急遽イタリア北部へ向かわせた。
当時のローマ軍の主力は招集された市民兵であり、指揮官である執政官(政治と軍事の最高責任者)は選挙によって選ばれていた。つまり、兵士も指揮官も軍事のプロではなく、ローマ軍はアマチュアの集団だったのだ。
一方のカルタゴ軍の主力は傭兵であり、指揮官にも軍事のプロが任命された。無論、ハンニバルもその一人である。多くの国家で軍隊の主力に専門の正規兵が採用されるようになるのは、フランス革命後のナポレオンの時代まで待たねばならず、その多くが一般市民からの徴兵か傭兵に頼るしかない時代だった。
そして、カルタゴ軍の強みは精強なヌミディア騎兵を含む、優秀な騎兵部隊にあった。
アルプス越えて
【※ローマの南東にあるカンナエが戦場となった】
北上してきたローマ軍を打ち破ったカルタゴ軍は、その後も連戦連勝でイタリア半島を南下する。戦闘では敵わないと判断したローマ軍は、カルタゴ軍の消耗を狙う焦土作戦に戦略を転換させるしかなくなる。
これによってハンニバルは補給物資とローマ軍を叩きつぶす機会を求めて一年もの間イタリア中を駆け回ることになった。前216年、ローマではウァロとパウルスが新たに執政官に選ばれたが、彼らはカルタゴ軍の跳梁に怒った市民たちの声に押され、積極策を取らざるを得なくなる。それを知ったハンニバルは、その軍団をおびき寄せるため、ローマ軍の補給基地であるカンナエを奪取した。
ローマはこの誘いに乗り、2人の執政官が率いる8万を越える軍団を差し向けたのだった。
カンナエの西側に布陣したローマ軍は、重装歩兵を主力とする歩兵を中央に置き、右翼と左翼に歩兵部隊を配置した。これに対するカルタゴ軍も歩兵部隊を中央に置いていた。その中心はヒスパニアや遠征途中で雇ったケルト人たちで、その両脇には精強なアフリカ傭兵の歩兵部隊を配置する。こちらも両翼は騎兵部隊である。カルタゴ軍は全軍合わせて約5万。数の上では劣勢だった。
戦史に残る殲滅戦
【※布陣~序盤戦。赤がローマ軍】
このとき、カルタゴ軍のケルト人歩兵等は、中央に厚みを持たせた弓状の陣形をとっていた。
自軍の強みが騎兵であることを知るハンニバルは、この中央部で敵歩兵を受け止めている間に、自軍騎兵で敵騎兵を討ち破り、孤立した敵歩兵を包囲しようとしたのだ。
戦闘が始まると、勇猛ではあるが集団戦を苦手とするケルト人等の部隊はローマ歩兵に圧倒され、中央部が凹み始めた。しかし、厚みがあるため容易には突破できない。ローマ歩兵は後退したケルト人等を追って前進し、ポケット状にくぼんだ陣形のなかに踏み込んだ。
そこでハンニバルは、待機させていた精強なアフリカ傭兵に前進を命じ、ローマ歩兵の側面に回り込ませる。側面からの攻撃を受けたローマ歩兵は怯み、それによりケルト人等の部隊も踏みとどまることができた。
同じ頃、カルタゴ軍左翼のヒスパニア・ガリア騎兵部隊は向かい合う敵騎兵を撃破し、そのまま後ろに回り込みローマ軍左翼の敵騎兵を背後から急襲。
ローマ軍左翼の騎兵部隊は、カルタゴ軍右翼のヌミディア騎兵と互角の戦いをしていたが、前後から挟撃され、算を乱して逃亡し始める。
二つのカルタゴ騎兵部隊はただちに合流し、中央のローマ歩兵を背後から襲撃した。こうしてローマ歩兵は前後左右を完全に包囲され壊滅したのだ。
完全なる包囲殲滅
【※カルタゴ軍の包囲完成】
この戦いの結果、ローマ軍は5万人近くが戦死し、約1万が捕虜となった。
一方、カルタゴ軍の損失は約6,000で、そのほとんどが捨て駒として使われたケルト人等だったという。このカンエナでの戦いは、全周で敵を包囲する「包囲殲滅」が完全な形で実現した戦史上でも稀な戦いとなった。
しかもハンニバルは、それを数に劣る手勢で成し遂げてみせたのである。とはいえ、これで戦争が終結したわけではなかった。以後、ローマは正面対決を避け、持久戦を展開するようになる。
そして、敗戦から教訓を学び取った彼等は、やがてハンニバルを「ザマの戦い」で破ることになるのである。
最後に
この戦いはカルタゴ軍が弓状の陣形のなかにローマ軍を誘い入れたことが勝機となった。
本来ならば、数に劣る戦いでは指揮官は兵力の分散を避けるものだが、ハンニバルはケルト人等の部隊、騎兵部隊、精強なアフリカ人傭兵の特性を熟知し、的確に移動させることで戦いに勝利する。
戦いには勢いというものがあり、その流れを掴んだハンニバルの勝利だった。
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