立花宗茂の生い立ち
立花宗茂(たちばなむねしげ)は、永禄10年(1567年)8月に豊後の大友氏の重臣・吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされています。
永禄12年(1569年)に父・鎮理が筑前の高橋氏の名跡を継いだことで、元服後・高橋統虎(むねとら)となりました。(本稿では宗茂で統一表記します)
ちなみに同年生まれの武将に、伊達政宗や真田信繁(幸村・一説には1570年とも)などがいます。
宗茂は天正9年(1581年)8月、父・紹運と同じく大友氏の重臣であった戸次鑑連(後の立花道雪)に請われ、立花家の家督を継いでいた道雪の娘・誾千代と婚儀をあげ婿養子となり、戸次統虎(べっき むねとら)を名乗りました。
以後、筑前の立花山城を居城とし、衰退していく主家・大友家の筑前・筑後における支配地を統べる戦を重ねて行きました。
秀吉の称賛・抜擢と本多忠勝
天正14年(1586年)7月、龍造寺隆信を討ち、勢いを増した薩摩の島津氏がついに筑前にも侵攻してきます。
島津忠長・伊集院忠棟を大将とした凡そ20,000人の島津軍(一説には50,000人とも)が九州の制覇を賭けて攻め寄せてきました。
島津勢は、宗茂の実父・紹運が守る岩屋城・宝満山城を攻め、2週間に及ぶ壮絶な籠城戦の後、ついに紹運らは玉砕し、岩屋城が落城してしまいます。
島津勢は宝満城も落として、宗茂の籠る立花山城をも包囲しますが、先の岩屋城の戦いで大きな損害を出していたたことから、攻撃までに日にちを要していました。
その後、ついに豊臣秀吉率いる20万もの大軍が九州に上陸してきたため、島津勢は筑前から撤退をはじめます。
この機を逃さず島津軍の追撃に出た宗茂は、岩屋城と宝満城を奪還しました。
その後も秀吉の九州平定に加わり、先陣として島津勢を肥後から打ち払いました。
こうした武功を秀吉は「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。」と称賛し、筑後国柳川13万2000石を与えて大友氏から独立させ、豊臣直臣の大名に取り立てました。
宗茂は天正18年(1590年)には小田原征伐にも参陣しました。その折、秀吉は諸将大名を前にして
「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」
と評し、その武功・将器を褒め称えたました。
因みに本多忠勝は、徳川四天王の一人に数えられる「家康に過ぎたるもの」とまで謳われた歴戦の兵です。
生年は天文17年(1548年)と伝わっていますので、この時宗茂が23歳、忠勝が42歳です。
巷説では、親子ほども年齢の違う忠勝と並び称されたことに恐縮した宗茂が、忠勝の元を訪れてその意を伝えたとされています。
このことに感じ入った忠勝の取り成しが、後に宗茂が復活を遂げるきっかけとなったと伝わっています。※復活に関する記事はこちら
朝鮮出兵
宗茂は、文禄元年(1592年)から始まった一回目の朝鮮出兵・「文禄の役」において小早川隆景を主将とした軍の6番隊を命ぜられ、2,500人の兵を率いて参陣しています。
碧蹄館の戦いで奇襲&流言
文禄2年(1593年) 1月の「碧蹄館の戦い」(へきていかんのたたかい)では、宗茂と実弟の高橋統増が先陣を務めました。この戦いにおいて敵の明・朝鮮軍に対して奇襲・流言などの策を巧みに用いて敵の同士討ちを誘い、勝利をもたらしたと伝わっています。
小早川隆景はこの時の戦ぶりを「立花家の3,000は他家の1万に匹敵する」と評したとされています。
露梁海戦で小西行長を救出
慶長2年(1597年)からの二回目の朝鮮出兵・「慶長の役」では、順天倭城において小西行長が海上封鎖されていると知り、弟の高橋直次・島津義弘・宗義智・寺沢広高・小早川秀包・筑紫広門らと共同で臨時に水軍を編成して援軍に向かいました。そして明・朝鮮の両水軍と戦い(露梁海戦)、無事行長らの救出を果たしました。
蔚山倭城で千人で五千人を撃破
次いで明・朝鮮軍約30,000人が、加藤清正が守る蔚山倭城へ再攻撃(第二次蔚山城の戦い)(うるさんじょうのたたかい)を仕掛けました。
この動きで清正は敵に包囲されてしまいます。この状況への対処を諸将で評議するものの結論が出す、痺れを切らした宗茂は自らが赴くことを進言します。
宗茂はわずか1,000人の兵を率い、夜襲を敢行して明の先陣5,000人を打ち払います。さらに偽計・火計・伏兵を用いて明軍を分断しつつ撃破して進撃、ついに蔚山城へと到着、加藤清正と合流します。
その後、清正の5,000人の軍勢と共に明軍を撃退し、このときの戦いぶりを清正は「日本軍第一の勇将」と評したと伝わっています。
関ケ原の戦い後の宗茂
宗茂は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成の西軍に与し大津城を攻めました。
しかし三成らの敗報を知ると大阪城へと兵を引きます。宗茂は大阪城にあった総大将・毛利輝元に籠城戦を献策しますが受け入れられず、国元の柳川へと向かいました。
この時、関ケ原から「島津の退き口」と呼ばれた決死の脱出で、わずかな数で薩摩へと落ち延びていた島津義弘と合流、行動を共にしました。
島津は、宗茂の実父・高橋紹運の仇だったことから、宗茂の家臣の中には、この機に討ち取るべきとと進言するものもありましたが、宗茂は「敗軍を討つは武家の誉れに非ず」としてその言を退けたとされています。
そうして互いに国元に辿り着きますが、宗茂の柳川には周りの東軍勢力である、鍋島・黒田・加藤ら諸将の連合軍が攻め寄せます。
しかし全面的な力攻めとならず、朝鮮出兵の際に友諠を結んだ加藤清正や黒田長政らが宗茂の人物を惜しんだこともあり、宗茂は降伏・開城しました。
尚、薩摩に帰還した島津義弘は宗茂の柳川の状況を知り、宗茂を救おうと援軍を向かわせました。しかし柳川に援軍が到着したときには、すでに開城された後だったと伝えられています。
この後、宗茂は一旦改易され浪人となったものの、先の本多忠勝らの取り成しもあり、最終的には旧領の柳川を領する大名に復活しました。
その運命は、秀吉だけでなく、本多忠勝、小早川隆景、加藤清正、島津義弘など数多くの武将に、武功のみならず将としての器量を評価されたことが大きな影響を与えたと思われます。
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