猿楽師から武田家臣へ
大久保長安(おおくぼながやす)は、猿楽師(現在の能)から武士となり、甲斐の武田、次いで徳川の家臣となった異色の武将です。
徳川幕府の成立後には勘定奉行やなどを歴任しましたが、殊に外様の出で老中に就任した唯一の人物でした。
長安は、天文14年(1545年)に猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれたとされています。父・信安は大蔵流の猿楽を創始した人物で、猿楽師として武田信玄に仕えるようになったと言われています。
程なく長安は、信玄から武士として家臣に取り立てられ、家老・土屋昌続の与力となり、姓を大蔵から土屋に改めたとされています。
長安は以後、武田の領国内において黒川金山を始めとする鉱山開発や、税務などに才覚を発揮したとされています。信玄の没後には、その子・勝頼に仕えたとされていますが、武田が織田に滅ぼされた後には、徳川に仕えることになりました。
徳川への仕官
長安が徳川家康に仕えるきっかけとなったのが、家康の甲州征伐の際の館を用意したことだと伝わっています。
長安が建設した館を見た家康が、その作事の才を見抜き仕官を受け入れたとされています。また、巷説では家康の家臣・成瀬正一を通じ、自らは信玄に認め
られた秀でた官吏であり、鉱山開発山に関する高い技術を持つと巧みに喧伝して、言葉巧みに家康に取り入ったとも言われています。
ともあれ長安は、徳川の重臣・大久保忠隣の与力に取り立てられ、大久保の名字を賜るほどにその才を認められました。
天正10年6月に本能寺の変によって織田信長が死去、甲斐を家康が領することなりました。
その当時、政治的な混乱状態にあった甲斐において、家康から本多正信と伊奈忠次が内政の再建を命じられました。このとき実際の再建を執り行ったのが長安であるとされています。
長安は優れた行政手腕を発揮し、わずか数年で甲斐の内政を復興・再建したと伝えられています。
異例の大出世
天正18年(1590年)に秀吉が北条氏を滅ぼした小田原征伐によって、家康は関東に移封となりしたが、この時に長安は奉行に任じられました。
翌、天正19年(1591年)長安は家康から武蔵国八王子に8,000石の知行を与えられ、加えて家康が領す関東250万石のうち、100万石の直轄領を管理する関東代官頭の一人に抜擢され、その管理の一切を取り仕切ったと伝えられています。
長安は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍の支援役を務めました。戦後に豊臣の保有していた佐渡金山や生野銀山などを徳川が直轄領にすると、長安は大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役、甲斐奉行、石見奉行、美濃代官を次々と兼務して任命されました。
家康が長安の才を高く評価していたことが窺える人事といえます。
慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍に任命された際には、長安も従五位下石見守に叙任を受け、加えて家康の六男・松平忠輝の附家老も務めるとこになりました。更には佐渡奉行、所務奉行(後の勘定奉行)、同時に年寄(後の老中)にも任じられ、異例の出世を遂げました。
慶長11年(1606年)には伊豆奉行にも任じられ、長安は徳川の持つ全国の鉱山の統轄や、関東における交通整備などの一切担う重臣として、幕府内において絶大な権勢を誇る地位を築きました。
またこの間に、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫との婚儀を取り持ったことから、伊達家とも密な関係を構築したものと言われています。
死後に打ち首とされた 大久保長安
しかし長安も、晩年には全国の鉱山の採掘量が低下したことで家康の信頼を失い、美濃代官を始め代官職を罷免されていきました。
そして慶長18年(1613年)4月、享年69歳で病死しました。
この直後、長年幕府内で長安と対立していた本多正信・正純親子が、慶長19年(1613年)5月に生前の長安が不正な蓄財していたことを告発する事態が発生しました。
この嫌疑を以て家康は長安の7人の男子を全員処刑し、一族・縁戚関係者にも刑が課される一大事件に発展しました。
不正蓄財の是非も詳しくはわかっていませんが、権勢を極めた重臣であっても不正に対しては容赦をしない幕府の姿勢を示した事件でした。
尚、既に死亡していた長安の遺体までもが掘り起こされて、駿府城近くの川原において、改めて斬首・晒し首とされたと言います。
これら極めて厳格な刑の執行を受けて、ここまでの仕打ちを受けた長安に対する様々な巷説が語られる事となりました。
曰く、長安は家康ではなく、伊達政宗を天下人にと考え、政宗の幕府転覆計画に同意してこれを支持したとする説、後見役を務めた松平忠輝を将軍に就けようとしたとする説、屋敷の床下からスペインや明と共謀していた書状が発見され、それによれば明による日本への侵攻を画策してい説など、様々な伝説が今日まで伝えられています。
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