安土桃山時代

福島正則 〜酒癖の悪さで名槍を失った武将

家宝の名槍・日本号

福島正則

※福島正則

福島正則(ふくしま まさのり)と言えば、加藤清正と並んで豊臣秀吉の子飼いの武将として「賤ケ岳の七本槍」にも数えられた勇猛果敢な武将として知られています。
そんな正則は、事のほか酒癖が悪かったとして数々の逸話が伝えられています。その中でも最も大きな失敗であろうと目されるのが、家宝の槍・名槍「日本号」を取られてしまったという逸話です。

これは、ある酒席で黒田家の家臣・母里友信に対して、正則自らが大きな杯で酒を飲むよう薦めたことに端を発しました。
元々、友信も大酒みでしたが、主君・黒田長政に事前にそうした挑発に乗らないよう諭されていたため、一度は勧めを断りました。

それでもしつこく正則は、飲み干してみせるなら何でも望みの褒美を与えると挑発し、黒田家全体を嘲る態度を見せました。
自分の事だけでなく、家名を貶められた友信はこれに応じ、見事に一大きな杯を一気に気飲みてみせました。

友信は続けて、武士に二言はなかろうと、褒美として正則が秀吉から拝領し、家宝としていた名槍「日本号」を渡さざるを得なくなったという逸話です。

天下三名槍と呼ばれた槍の1つであるこの「日本号」は現在では福岡市博物館に所蔵されて今に伝えられています。

因みにこの「日本号」、明治期に玄洋社を主催した頭山満のもとに一時期持ち込まれたこともあったと伝えられています。

賤ケ岳の七本槍

福島正則

※賤ヶ岳の戦いの錦絵

正則は、永禄4年(1561年)に尾張で生まれ、母が豊臣秀吉の叔母(大政所の姉妹)であったことから、幼き頃より小姓として秀吉に仕えました。

天正6年(1578年)の播磨三木城での戦が初陣であり、当初の碌は200石だったと伝わっています。
天正10年(1582年)の明智光秀勢との山崎の戦いにも出陣して武功を挙げ、戦の後に300石を加増されました。

翌年、天正11年(1583年)の柴田勝家勢との賤ヶ岳の戦いでは、一番槍に加え敵将の拝郷家嘉を討ち取る武功を挙げ、「賤ヶ岳の七本槍」と称された7人の中でも、他の6人が3,000石にもかかわらず、唯一5,000石を領することとなりました。

その後も秀吉の天下取りに向けた戦に従軍し、天正15年(1587年)の九州征伐の後には伊予国今治11万3千余石を与えられました。

さらに小田原征伐や、文禄元年(1592年)からの文禄の役にも出陣しました。この文禄の役では五番隊の主将を務め、戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総らを従えて京畿道方面の侵攻を担当しました。

こうした豊臣政権への貢献から、文禄4年(1595年)には尾張国の清洲24万石を拝領することになりました。

関ケ原での 福島正則

福島正則

※岐阜市歴史博物館蔵収蔵 関ヶ原合戦屏風(江戸時代後期)

秀吉の没後、正則は朝鮮出兵時の遺恨から石田三成らとの対立を強め、志を同じくする加藤清正らとともに三成を襲撃するに至ります。
この件を契機に、事態の収拾にあたった徳川家康と誼を通じることになりました。

家康が慶長5年(1600年)、会津の上杉征伐の触れを出すと正則は兵6,000人を率いてこれに従軍しました。その途上、大阪で三成が挙兵した知らせが届きます。これを受けて開かれた小山評定では、事前に家康の意を受けていた黒田長政と正則とが率先して家康側に与する事を表明し、諸大名らをこれに同意させました。こうして三成を討つべく西上する方針の決定に大きな役割は果たしました。

この後正則は、領地の清洲から美濃へと侵攻し、西軍・織田秀信の岐阜城を攻めて、長政らと共同でこれを陥落させました。
続く関ヶ原の戦いでも、西軍主力の宇喜多秀家勢約1万7,000と戦い、宇喜多勢の明石全登の攻勢に一旦退却をしつつも、数で勝る宇喜多勢の進撃を阻むことに成功します。

やがて小早川秀秋の東軍への参戦で西軍は崩壊、正則は大阪城へと進みました。

そこでは、西軍の総大将として留まっていた毛利輝元を引かせる交渉を成功させ、これらの功から戦後、安芸広島・備後鞆の49万8,000石を領する大大名となりました。

徳川秀忠による改易

正則は、大阪の陣においても豊臣方には着かず、豊臣秀頼の直接の依頼をも断って徳川幕府へ臣従することを選びました。

しかし幕府は正則の従軍を許さず、冬の陣・夏の陣ともに江戸での留守居役を命じています。替わりに正則の嫡男・福島忠勝が従軍してましたが、正則の弟・福島高晴が豊臣に内通したかどで、戦後に改易を命じられました。

既に家康も世を去った元和5年(1619年)、正則は広島城を幕府に無断で修繕したとして武家諸法度違反に問われました。
結果、正則は安芸・備後50万石を没収され、信濃国川中島四郡中の高井郡及び越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)へと大幅な減封並びに移封を申し渡されました。この沙汰の後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲って、隠居、高斎を号しました。

しかし元和6年(1620年)に忠勝が先に世を去ったため、正則は2万5,000石を幕府へと返しました。続く寛永元年(1624年)享年46歳で正則も死去しましたが、幕府の検死役が着く前に、家臣が正則を火葬した事を更に幕府に咎められて、残りの2万石も没収されました。

こうして秀吉以来の大名としての福島家は取り潰されることになったのでした。

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