実は親子二代?
斎藤道三(さいとうどうさん)は元は一介の僧侶であり、その後油売りの商人から武士となり、そこから美濃一国を領する大名にまで上り詰め、その手段を選ばない手法から「マムシ」と呼ばれた戦国時代の下克上を象徴する人物としてその名を知られています。
また、娘の濃姫を未だ尾張の一勢力に過ぎなかった織田信長に嫁がせて舅となり、信長の才を早くから見抜いていたとも伝えられています。
最期は自らの実子・斎藤義龍と争つて討ち死にしたとされていますが、近年の調査・研究では道三の下克上は、父・長井新左衛門尉との親子二代にわたったものとする説が有力になってきています。
斎藤道三 の出自
道三の生年については、明応3年(1494年)もしくは永正元年(1504年)とも言われており定かではありません。
最近の説によれば、父・長井新左衛門尉が、京都妙覚寺の僧侶から還俗して西村勘九郎を名乗り、美濃の守護であった土岐氏の家臣の長井弥二郎に仕えたと考えられています。
父・新左衛門尉は、やがて土岐氏の三奉行を務める地位にまで取り立てられ、長井姓を名乗るようになったとされています。
そうした父・新左衛門尉の下、道三も土岐氏の家臣となっていったものと考えられています。
大永6年(1526年)には、主君・土岐頼芸(ときよりあき)から愛妾の深芳野(みよしの)を譲られて、道三は側室に迎え、翌年には義龍が生まれています。
この後に道三は明智長山城主・明智光継の娘・小見の方(おみのかた)を正室に迎えたと言われています。
美濃の掌握
道三は、天文2年(1533年)頃に家督を継いで長井家の当主となりました。父の隠居とも死去とも言われており、理由は定かではないようです。
やがて道三は、その武芸と才を美濃守護・土岐政房(ときまさふさ)の次男である土岐頼芸(よりあき)に評価され、その信を得たとされています。
その後、土岐家では長男の土岐頼武(よりたけ)とその子の頼純(よりずみ)、次男の土岐頼芸の間で家督争いが起こります。
道三は家督相続の争いに敗れた土岐頼芸に与して、長男の土岐頼武を追放する企てを成功させると、稲葉一鉄や安藤守就などの美濃の有力な豪族と手を結び、事実上、土岐家の実権を掌握しました。
下克上の達成
道三は、天文7年(1538年)に美濃の守護代であった斎藤利良が没したことを受けて、その名跡を継ぎ、斎藤新九郎利政を名乗ります。
その後天文10年(1541年)に主君・土岐頼芸の弟・土岐頼満を毒殺し、これを機に頼芸との対立を深めました。
翌天将11年(1542年)には頼芸の居城・大桑城を攻めて、頼芸の一族を尾張に追放し、自らが美濃の国主となる下克上を成功させました。
信長の舅
天文16年(1547年)には、信長の父・織田信秀が道三の居城・稲葉山城を攻めましたが、道三はこれに籠城て対抗し、奇襲を成功させて信秀勢を退け、この加納口の戦いに勝利を収めました。
同年11月に土岐頼純が病した後、道三は信秀と和睦、翌年に娘の濃姫(のうひめ)を信秀の嫡男・信長に嫁がせました。
このとき正徳寺において、道三は信長と会見したと伝えられており、巷では「うつけ者」とも評されていた信長が多数の鉄砲を装備した兵を引き連れ、正装で現れたことで、道三は自らの子らはいずれ信長の家来になるだろうと予期したと伝えられています。
道三の最期
道三は、天文23年(1554年)に家督を子・斉藤義龍(さいとうよしたつ)へ譲って、剃髪して道三を号すと鷺山城に隠居したと伝えられています。
その後、道三は義龍よりも弟・孫四郎、喜平次らを寵愛し、更には義龍を廃嫡することまで考えたとされています。そのため道三と義龍の対立は表面化し、弘治元年(1555年)に義龍は弟達を誅殺すると、道三に兵を向けました。
このとき道三に与する家臣はほとんどなく、翌弘治2年(1556年)4月には約18,000の兵を率いた義龍は兵約2,500程度の道三勢を攻め、長良川の戦いが起こりました。
これを聞きつけた信長は道三への援軍に向かったと伝えられていますが、信長は間に合わず、道三は敢無く実の息子に討ち取られて享年63の下克上人生を終えました。
その後の斎藤氏は道三の予期した通り、義龍の子・龍興(たつおき)の代に信長によって美濃を追われることになりました。
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