飛鳥時代

「藤原氏の祖」となった中臣鎌足 ②【乙巳の変と大化の改新】

乙巳の変

「藤原氏の祖」となった中臣鎌足

画像 : 中臣鎌足(藤原鎌足)肖像 public domain

今回は前回に引き続き後編である。

中臣鎌足中大兄皇子が狙うのは、大臣となっていた蘇我入鹿、その決行日は「三韓の調の儀式」と決めた。

「三韓の調の儀式」とは、朝鮮半島の三韓(新羅・百済・高句麗)からの使者が朝廷に貢物を献上する儀式で、大臣である入鹿は必ず出席するからだ。

皇極天皇4年(645年)6月12日、「三韓の調の儀式」の現場で指揮を執るのは中大兄皇子である。襲撃する佐伯子麻呂葛城稚犬養網田と一緒に長槍を持って殿側に隠れ、その背後に弓を構える鎌足が身を潜めていた。

そんな中、ついに入鹿が姿を現す。

入鹿は普段からとても猜疑心が強く腰にいつも剣を差していたので、鎌足は俳優(道化)を騙して入鹿の腰の剣を外させるように準備をしていた。
そして滑稽な歌舞を演じる芸能者・俳優が入鹿の腰の剣を預かるしぐさをすると、入鹿は剣を渡してしまった。

そして中大兄皇子は、衛門府に命じて宮門を閉じさせた。

計画としては、石川麻呂が上表文を読んでいる間に刺客の二人が入鹿を襲撃するという手はずであった。

皇極天皇と古人大兄皇子が儀式の場に入ると、予定通り石川麻呂が上表分を読み上げた。しかし襲撃する佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田がおじけづき一向に動かなかった。そこで鎌足が二人を叱咤したが、相変わらず動けずにいた。

上表文が残りわずかとなり、焦った石川麻呂は不安と緊張から声が乱れ、手が震え、滝のような汗を流し始めた。
それを見た入鹿が「なぜ震えるのか?」と怪しむように問うと、石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く汗が出る」と答えた。

「藤原氏の祖」となった中臣鎌足

画像 : 乙巳の変 江戸時代、住吉如慶・具慶の合作によって描かれたもの。左上は皇極天皇

中大兄皇子は「このままでは駄目だ、入鹿に勘づかれる」と思い、自ら入鹿に突進していった。するとようやく佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田も飛び出して、ついに入鹿の頭と肩を斬りつけた。

驚いた入鹿が起き上がると、佐伯子麻呂が入鹿の片脚を斬った。

入鹿は倒れながらも皇極天皇に「私に何の罪があるのか、お裁き下さい」と問うと、中大兄皇子が「入鹿は皇族を滅ぼして皇位を奪おうとしました」と答えた。

皇極天皇は無言のまま殿中へと退き、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田は、そのまま入鹿を斬り殺した。

古人大兄皇子は私宮に逃げ帰り、他の皇子や諸豪族たちは中大兄皇子に従った。

入鹿の死を知った父の蘇我蝦夷は蘇我家の軍衆が逃げ散ったこともあり、翌日の6月13日に「もはやこれまで」と自らの館に火を放ち、持っていた珍宝を焼いて自殺した。

これで長年に渡って権勢を誇っていた、蘇我氏宗本家は滅びたのである。

後ろ盾を失い身の危険を感じた古人大兄皇子が身を引いたことで、翌日の6月14日に皇極天皇は軽皇子へ譲位し、軽皇子が第36代・孝徳天皇として即位することになった。

当初、皇極天皇は中大兄皇子に皇位を譲ろうとした。

しかしそれでは天皇になりたいためにクーデターを起こしたと思われるため、中大兄皇子と鎌足は相談し、軽皇子が即位したのである。

大化の改新

「藤原氏の祖」となった中臣鎌足

画像 : 中大兄皇子 後の天智天皇

即位した孝徳天皇中大兄皇子を皇太子に取り立て、阿倍内麻呂(あべのうちまろ)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にした。

孝徳天皇は「国家が安泰となることができたのは、まさに鎌足の尽力によるものである」と言い、鎌足のために特別な役職・内臣(ないしん)を設けて任じた。

左大臣・右大臣というのは上級豪族がつく役職であった。中級豪族の鎌足に大臣の職を与えれば必ず周囲から反発があると考え、内臣という政務を司る新たな役職を設けて鎌足が国政に参加できるようにしたのである。

この時、鎌足は31歳。目指していた国政への参加を手にした瞬間だった。

孝徳天皇は6月19日、初めて元号を立てて大化元年とし、蘇我氏の影響力が残る飛鳥から難波宮(なにわのみや・現在の大阪市)に都を移した。

中大兄皇子は12歳年上の鎌足のことをとても信頼し、二人は義においては君臣の関係であったが、礼においては互いに師と仰ぐ友であったという。

そんな二人が中心となって行った政治改革が「大化の改新」である。

この頃、唐が高句麗に侵攻し周辺国は国家存亡の危機であり、王などに権力を集中して強い国を目指そうとしていた。
倭国もそんな国際情勢を察し、豪族連合的なヤマト政権ではなく、中央集権国家を目指そうとしたのである。

まず、皇族や有力な豪族が支配していた人民と土地を、天皇が直接所有する公地公民制を実施して税が天皇のもとに集まるようにした。

次に税制の整備も行い、天皇から支給された田から収穫された作物を「」とし、ヤマト政権から命じられた労役を「」とし、布などの特産物を「調」として、物を修めるだけではなく、天皇のための労役を人民に義務付けたのである。

国政を担う

こうして天皇中心の新たな国づくりが進められる中、白雉5年(654年)孝徳天皇は鎌足を6番目に高い冠位「小紫」に叙した。

中級豪族としては異例で破格のことであった。

「藤原氏の祖」となった中臣鎌足

画像 : 日本で初めて2度天皇になった女性 斉明天皇

この年に孝徳天皇が崩御、先の皇極天皇が再び即位して第37代・斉明天皇になると、執務のすべてを中大兄皇子に任せる。
すると中大兄皇子は、あらゆることを鎌足に相談して実行するようになった。

その功績で、鎌足は5番目の冠位「大紫」に出世した。

鎌足には「真人」という男子がいた。この子は鎌足と似ていて生まれつき聡明で学問を好んだ。
鎌足は当時11歳の真人を出家させ「貞彗」と名乗らせて、遣唐使の一員として唐で学ばせ、帰国したら還俗させて自分と同じ官僚の道を歩ませようとしていた。

その後、貞彗は無事帰国したが、666年に23歳という若さで亡くなってしまった。

そこで鎌足は、まだ幼かった次男・不比等田辺史大偶(たなべふひとおおすみ)に預けて教育を受けさせた。

田辺史大偶は、大陸の文化や文章の読み書きに秀でた当代一と言われた人物であった。

天智天皇との絆

661年8月24日、斉明天皇が崩御したが、中大兄皇子は長い間皇位につかずに皇太子のまま称制し、667年に近江大津宮に遷都した。

当時、倭国は唐と新羅の侵攻で滅んだ百済のために援軍を派遣し、朝鮮半島で唐・新羅連合軍との「白村江(はくすきえ)の戦い」で大敗してしまい、国防の強化に務めていたのである。

「藤原氏の祖」となった中臣鎌足

画像 : 当時の朝鮮半島の情勢

そして668年2月20日、中大兄皇子はようやく第38代・天智天皇として即位した。

鎌足は天智天皇のもとで百済とのパイプを形成し、一方では新羅に対して船を贈呈するなど外交面で活躍をしていた。
また、天皇家とのつながりも強化し、鎌足の娘二人のうち、一人を天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)に嫁がせ、もう一人の娘を天智天皇の皇子・大友皇子(後の弘文天皇)に嫁がせている。

どちらが次期天皇になっても良いように、着実に天皇家とのパイプ作りを実践していたのである。

また、鎌足は天智天皇から特別に采女(うねめ)の安見児(やすみこ)を賜り、結婚を許されている。

采女とは全国各地の豪族から女官として天皇に献上された絶世の美女たちで、数は多いが天皇の妻にもなれる資格を持つことから、采女との恋は当時は命を持って償うべき禁忌であった。

これを許されたことから、天智天皇と鎌足の関係がかなり特別だったことが分かる。

藤原氏の祖

新たな国づくりを目指す天智天皇に長きに渡って仕えた鎌足だったが、669年10月、山科御猟場に狩りに行き、馬上から転落し背中を強打して病の床に伏す。

鎌足重篤」という知らせを聞いた天智天皇は、すぐに鎌足の見舞いに訪れた。

鎌足は天智天皇に「生きては軍国に務無し」と語ったという。すなわち「私は軍略で貢献できなかった」という意味で、白村江の戦いにおける軍事的・外交的敗北の責任を痛感していたと思われる。

天智天皇は見舞いの5日後に使者を送り、

「はるかに昔の世を思うに大王(天皇)を補佐して政を執り行った大臣は一人や二人ではなかった。しかし、その功労と才能を考えれば鎌足とは比べものにならない。

後世の大王たちも私と同様に鎌足の子孫たちを寵愛するであろう。よってそなたを功績に見合った冠位につけることにする」

と鎌足に最大限の評価をし、最高位の「大織」を授けた。

また、鎌足を内大臣に任じた上に「藤原」という氏名(うじな)を与えた。

これが後に栄華を誇る、藤原氏の始まりである。

「藤原氏の祖」となった中臣鎌足

画像 : 日本の家紋「藤紋」の一種である下り藤(さがりふじ) wik c Mukai

藤原」という氏名の由来は諸説ある。

鎌足が生まれたとされる地には、大きな藤の木の近くに「藤井」という井戸があり、人々がその辺りを藤井ヶ原と呼ぶようになった。やがてそれが略されて「藤原」になったという説。

「藤原」は天皇家を藤の大木に見立て、藤原氏が藤の花として天皇家と共に繁栄して行くことを象徴する氏名という説もある。
※ちなみに佐藤・斎藤・伊藤など「藤」の字がつく苗字(姓)は藤原から派生したと言われている。

「藤原氏の祖」となった鎌足は669年10月16日、「藤原」の氏名を与えられた翌日に56歳でその生涯を閉じた。
天智天皇は「鎌足の死」を聞いて泣き崩れ、9日間も政務を休んだという。

天智天皇がどれほど鎌足を信頼していたのか、そしてこの時の深い悲しみと耐え難いまでの喪失感が伝わってくる。

おわりに

中臣鎌足の死から2年後に天智天皇が崩御した。

鎌足を祖とした「藤原氏」は次男・不比等が藤原不比等として律令政治の確立に尽力し、天皇との関係を強化して藤原氏繁栄の基礎を築き上げた。
そして、藤原氏はその後1,000年以上もの長きに渡って摂政・関白の地位を独占し続けるのである。

それもすべて、中臣鎌足という天皇に信頼された優れた政治家がいたからである。

 

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日本史が得意です。

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 7月 05日

    昔は645年が大化の改新だったが、近年は乙己の変になったんですよね。
    あの中臣鎌足が藤原氏の祖とは知らなかった人は多いはず、ためになったねえ。

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  2. アバター
    • tossy
    • 2022年 7月 06日

    高槻市の阿武山古墳の埋葬者が鎌足との説が有力です。
    この古墳の発見の経緯、出土した遺体の状態、埋葬品などから鎌足と断定されています。
    検索すると詳細が出てきますが非常にドラマチックです。

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  3. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 7月 07日

    昔、大化の改新をしたのが中大兄皇子と中臣鎌足だった、彼が藤原氏の祖だとは!
    やばいじじつですね、ありがとう草の実堂さん。自慢します。

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