幕末明治

山岡鉄舟について調べてみた【江戸城無血開城の事前交渉を担った幕臣】

大剛の武士 山岡鉄舟

山岡鉄舟

※山岡鉄舟

山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)は幕末には幕臣として最後まで徳川に仕え、明治維新後には新政府の役人や、明治天皇の侍従にも推された人物です。

山岡は幕末の三舟(勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の3名)とも称され、当時としても非常に大柄な身長約188センチ、体重約105キロの体格の持ち主だったと伝えられています。
西郷隆盛と勝海舟の歴史的な会見によって、江戸城の無血開城がなされたことで、当時の江戸が戦場とならずに済んだことはよく知られていると思いますが、その会見に先立ち先ず西郷と面会してお膳立てをしたのが、山岡その人でした。

文武両道

山岡は、天保7年(1836年)に徳川家康の時代から続く譜代の旗本の家に生まれました。

父は小野朝右衛門高福でその四男として、武術を重んじた家柄で育てられたとされています。

9歳のときに剣術の直心影流を学び始め、書は弘法大師流入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭に学び、15歳にして52世を受け継いで一楽斎を号しました。
山岡はこの後、安政2年(1855年)には幕府が設置した講武所へ入所し、そこで千葉周作に剣術、山岡静山から忍心流槍術を学んびました。

静山が亡くなると、その実弟の高橋泥舟に請われて静山の妹・英子(ふさこ)を娶り、山岡家の婿養子となり山岡を名乗りました。

剣術の評価

山岡は、翌安政3年(1856年)には剣の技量を評価され講武所の世話役となり、翌安政4年(1857年)には清河八郎らと尊王攘夷を掲げた「虎尾の会」を結成しました。
その後は、文久2年(1862年)に幕府が浪士組を結成すると、山岡はその取締役に就きました。

こうして文久3年(1863年)に将軍・徳川家茂に従って上洛しましたが、清河の不穏な動きを察知した幕府によって浪士組は江戸へと呼び戻され、山岡も謹慎処分を受けました。

海舟からの起用

山岡は、慶応4年(1868年)には幕府が新しく設けた精鋭隊歩兵頭格に就きました。

同年の2月11日、江戸城において将軍・徳川慶喜は朝廷に恭順の意を表し、勝海舟に政務を委任して自らは上野の寛永寺に謹慎しました。海舟はこの状況を新政府軍の参謀であった西郷に伝えるため、使者として山岡を遣わしました。
こうして海舟と西郷の会談に先立って、山岡は3月9日に駿府へと赴いて西郷と面会しました。

実はこの時、刀を持てないほどに経済的に困窮していた鉄舟は、人から大小を借りて駿府へ向かったと伝えられています。

西郷との面会

山岡は、西郷との面会で下の5つの条件を提示されました。

・江戸城を開城して明け渡すこと
・城内の兵を向島に移すこと
・城内外の武器を差し出すこと
・軍艦のすべてを引き渡すこと
・将軍・慶喜を備前藩に預かりとすること

この中で山岡は最後の慶喜に関する条件を拒否しました。当初、西郷はそれを朝命と詰め寄りましたが、山岡は西郷に対し、(西郷の)主君・島津侯が同様の立場なら承諾できるかと反論したとされています。この反論に西郷は単身で敵陣に乗り込んだ上、主君への忠義を貫こうとする山岡の言に納得し、将軍・慶喜の扱いを保証したと言われています。

こうしてこの山岡の働きが、その後の海舟と西郷の奇跡的な江戸無血開城への発端となりました。

味付け海苔とあんぱん

晩年の山岡鉄舟

山岡は明治維新後には、静岡藩権大参事、初代茨城県知事など新政府の職を歴任しました。

旧幕臣でありながらもこうした起用を受けたことは、人物としての山岡が評価させたことが窺われます。

また山岡は、西郷からの推薦を受けて明治天皇の侍従を務めました。山岡は明治天皇からもその実直な人柄から高い信任を得たと伝えられています。

山岡は明治2年(1869年)に明治天皇が京都へ行幸した際、天皇から手土産の相談を受けました。これを山本海苔店山本徳治郎に更に相談したことから、味付け海苔が創案されたと伝えられています。

また、山岡自身も好物だった木村屋のあんぱんの皇室への献上の橋渡しをしたとも伝えられています。

 

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