五稜郭の設計
武田斐三郎(たけだあやさぶろう)は、明治以後は武田成章(しげあきら)を名乗った人物ですが函館にある星型の西洋式の城郭である「五稜郭」を生んだ武士であり技術者でした。
「五稜郭」と言えば戊辰戦争の終盤に当たる函館戦争において、榎本武揚や土方歳三が蝦夷共和国を宣言し、新政府軍との激しい戦いの舞台となっいたことでも知られています。
「五稜郭」の特徴である星型の形状は、攻め寄せる敵に十字砲火を浴びせるためのものであり、火砲を用いた近代戦に対応するための設計となっていました。
如何にして武田がこの「五稜郭」を設計するに至ったのか調べて見ました。
洋学の習得
武田は、文政10年(1827年)に伊予大洲藩士・武田敬忠の次男として伊予に生まれました。祖先は武田信玄で有名な甲斐武田氏の流れを汲むとも伝えられています。
武田は15歳のときに藩校である明倫堂に学ぶと同時に、漢方医学も学びました。その後、藩に願い出て嘉永元年(1850)の22歳のときに大阪の適塾に出て学びました。
適塾は、蘭方医として著名であった緒方洪庵が主宰していた学問所で、福沢諭吉や大村益次郎などを輩出したことでの知られていますが、ここで頭角を表した武田は後には塾頭を務めるまでに学問を究めました。
武田はその後、江戸に出で佐久間象山から西洋兵学、砲術の教えを受けました。また伊東玄朴の塾において英語やフランス語も学びました。
幕府への出仕
武田は嘉永6年(1853)、浦賀沖にペリーが来航した際には、象山や吉田松陰とともに現地を訪れて『三浦見聞記』を記しています。
武田はその後、箕作阮甫に従って長崎に赴き、ロシアのプチャーチンとの交渉で通訳を務めました。
武田はこれらを通じて象山に推されて幕府へ出仕することとなり、旗本格の幕臣に取り立てられました。
函館での教育
この後 武田は、幕府の命を受けて蝦夷地・樺太への巡察に出ました。
箱館ではアメリカのペリーとの会見もしています。この巡察の最中に箱館に幕府の奉行所が置かれたことで、武田は箱館に常駐することになり、以後11年をその地で過ごしました。
こうして武田は、箱館において弁天台場や五稜郭の設計・建設を担当することになりました。
また、箱館奉行所に附属する学問所「諸術調所」が開設されると、武田は洋学、航海術、測量術、砲術などの教授として近代的な教育に注力しました。
殊に出自に捕われない教育を旨とし、旗本ではなく藩士や町人であっても優れた者には入学を許可し、学力を元にした評価を行いました。
異能の技術者
武田は函館に11年間在住した後、1864年に幕府から開成所教授職並を命じられて江戸へと戻りました。
やがて戊辰戦争が勃発すると、出身の大洲藩が討幕派であったことから命を狙われたため、師であった象山の信州・松藩に一時匿われ、そこでも兵制度の改革などに従事しました。
明治維新の後には、新政府に請われて出仕し、明治8年(1875年)には兵部省にあって陸軍士官学校の開設に尽力しました。
しかしその5年後の明治13年(1880年)、激務から病に倒れ死去しました。
尚、武田の技術者としての非凡な才を物語るものとして、イギリス船で見かけたストーブを模写し、それを元に国産初のストーブを製作したという逸話も伝えられています。
私は伊予の大洲の中村地区の武田ですが、武田綾三郎(武田成章)さんと 、つながりがあるのかな⁉️