長篠の戦い
年月:1575年6月
対戦相手:武田勝頼VS徳川家康・織田信長連合軍の戦い
特徴:火縄銃の連続発砲
結果:攻撃側の武田軍の惨敗。特に武将の討死が目立つ。以後は武田家からの積極的な戦闘行動は控えられる。
目次
三方ケ原の戦い~信玄亡き後の武田家と勝頼の立場
武田家の西上戦を仕掛けた三方ケ原の戦いで、芸術的な戦術展開で大勝利に導いた武田信玄は1573年に亡くなっています。
その後、武田家20代目の当主となったのが四男の武田勝頼です。
就任から軍事活動を活発化して、父親の信玄も落とせなかった要害の城「高天神城」を落城させました。
意外に思いますが、勝頼の方が武田家を最大版図にしております。
一説には、信玄時代からの宿老たちと意見が合わなかったとの説が有力視されています。
勝頼自身は三方ケ原でも騎馬隊を率いて、勝利の要因となる働きをする勇猛な武将でした。織田信長も勝頼の武勇を称えています。
長篠城の攻防と設楽ケ原の決戦~史実・武田軍団の壊滅的損害!
1575年 武田家の勢力圏内にあった長篠城が徳川方に寝返ります。
三河の長篠郡にある重要な拠点であり、勝頼も放置できずに約15,000の精兵を率いて攻略に向かいます。
一方の家康は、約8,000の兵力では独力で対抗するには困難です。後ほど援軍として信長が自ら約30,000の兵力を引き連れてきます。
頑強に抵抗する長篠城兵
たった500の守備兵の長篠城を武田の精兵が落とせません。鉄砲が200程城内にあって、狙撃で攻城軍を阻止します。
しかし、兵糧を断つ作戦に出られると抵抗も限界に近づいてくる。
すると、徳川・織田連合軍が到着しました。(鳥居強右衛門の頑張り~とりいすねえもん)
武田家の敗因
その1
出陣の目的「長篠城の攻略」長篠城を落城させられなかった。たかだか500の守備兵が籠る城攻めに、15,000の兵力が釘付けとなってしまった。
その2
長篠城を落とすことなく抑えの兵力(武田信実約1,000)を残して、本隊は設楽ケ原に進出してしまう。退路を断ってしまう下策である。
その3
地形は緩やかな上り坂。前日までの降雨で緩い状態の足元。攻撃軍の機動力を活かせない戦場であった。さらに信長の構築した馬防柵と空堀に守られた鉄砲陣に、正面からの突撃を敢行して大打撃を被った。
こうすれば勝てた~長篠の戦い
信長の優れていた点を1つ挙げるとすれば戦略眼「無駄な戦い(天下統一に関係ない)を極力避ける」ことです。
今回の家康からの援軍要請は「長篠城の救援」が目的です。信長が救援しないと、家康は勝頼と同盟を結ぶ可能性はあった。
勝頼が高天神城を落城させたとき、信長は家康に援軍を派遣していた。しかし、間に合わず落城してしまうが、その時あっさりと撤兵している。並みの大将なら「せっかく出陣してきたのだから一戦交えよう」と考えるところです。
さて、長篠城援軍の信長は、落城してしまった後にどのような行動をとるか?
武田軍の勝ち戦その1
~信長が着陣する前に長篠城を陥落させてしまう。
設楽ケ原の戦いは、本来やらなくてよい戦いでした。長篠城を攻略してしまえば信長は撤退したでしょう。
「そんなはずはない!」との異論が出るかもしれませね。もし、信長が長篠城奪還作戦を遂行してくれたら武田軍が勝ったでしょう。
鉄砲は防御拠点があれば強いが、野戦では不向き。攻城軍は守備側の3倍の兵力が必要と言われています。この頃の信長は、長篠に長期滞陣は無理があります。結果を得られずに撤退するでしょう。そのような戦いを信長が選択するとは思えません。
武田軍の勝ち戦その2
~長篠城を落城させた後、設楽ケ原へ着陣する。
信長を逆なでする挑発行為です。鉄砲も馬防柵も空堀も準備させたら信長は撤退しづらい状況になります。
一方、武田側は長篠城を拠点にじっくり構えられます。退路を確保しての対陣です。
この状況で信長が撤退すると周囲の地侍は「織田・徳川頼りにならん!」となって武田家になびくでしょう。
武田軍の勝ち戦その3
~設楽ケ原での決戦!
信長の性格から可能性は低いのですが、両軍大激突の設楽ケ原の戦いの開始です。しかし、史実のように不利な地形で足元も悪い中を、繰り返し突撃するような戦い方はしません。
合戦の布陣図を見てみると、連吾川を挟んで東(右)が武田陣地。西(左)の北(上)に織田陣地。西の南に徳川の陣地です。武将名を布陣に並べると
佐久間信盛 馬場信房
蒲生氏郷 土屋昌次
羽柴秀吉 一条信龍 穴山信君
丹羽長秀 武田信豊 武田勝頼
滝川一益 小幡信貞
織田信長 武田信廉
石川数正 内藤昌豊
徳川信康 鳥居元忠
徳川家康 本多忠勝 原昌胤
榊原康政
大久保忠世 山縣昌景
勝頼は突撃をせずに陽動・北(上)から南(下)縦に攻める
強固な陣地構築をした部隊は拠点に籠る傾向があります。史実では、設楽ケ原でも織田・徳川の陣に武田から仕掛けました。
そこで、勝頼本隊12,000は、突撃の構えを見せても動きません。各隊からの選抜隊を一度後方に下がらせて、3,000の別働隊を編成します。別働隊は迂回して連吾川の川上から渡河して、織田の左翼に回り込みます。
馬防柵の内側にいる佐久間隊の左翼から、左脇腹を突いて陣形を崩します。
佐久間隊は敗退して南の蒲生隊又は西に敗退するしかありません。
敗残兵が健全な陣に雪崩れ込まれると、生きてる陣も崩壊してしまいます。
独眼竜政宗(伊達家)は、雪崩れ込んでくる敗残兵に鉄砲を射かけたとのこと。伊達軍の軍規は否定できませんね。
縦に縦に(南に)押し込んでいくことで、順次左翼から敵陣が崩壊していきます。
頃合いよしとなったら勝頼本隊が敵左翼から同時に攻撃をかけていきます。
前方と左翼から同時に攻撃されたら踏みとどまれる武将はいないでしょう。
このようにして、馬防柵や空堀を連合軍の出撃防止に逆利用してしまいます。
しかし、武田軍の兵力が1/2以下なので、追撃戦はできません。
また、縦に押しまくっても息切れが予想されます。
どこかのタイミングで、信長や家康は武田別働隊の右翼から突っ込んで来るでしょう。
この陣形では、織田信長の本陣を突くまでが、勝敗分岐点の限界です。
長篠での織田・徳川軍敗退の報は、第二次信長包囲網の再結成につながるでしょう。
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