政治結社・玄洋社
「玄洋社(げんようしゃ)」は、西南戦争後の1881年(明治14年)に結成された政治結社です。
福岡の旧黒田藩士を中心としたメンバーで構成された団体でしたが、太平種戦争後には右翼・国粋主義団体の源流とGHQに見做され、危険視されたことから1946年(昭和21年)に強制的に解散させられた団体でした。
戦前・戦中を通じて「玄洋社」の中心的存在であった頭山満(とうやまみつる)は、その当時は広く知られた人物であり、政界・財界を含む日本の指導者層へも大きな影響を与えたとされています。
戦後先のGHQの政策もあり、あまり顧みられることのなかった「玄洋社」について調べて見ました。
西郷隆盛の意志を継承
玄洋社は西南戦争で西郷が敗れた後、その意志を継いだ頭山らが立ち上げた組織でした。
西南戦争において西郷が政府と対立した点とは、欧米列強国の支援を前提に日本の国造りを進めようとした政府と、あくまで日本古来の精神を失わず、欧米列強国と対峙しつつ日本の発展を目指した西郷らと相違でした。
「玄洋社」の頭山は後者の西郷の立場を継承し、開国時に結ばされた不平等条約の改正を目標として、国会開設やそのための自由民権運動、時には実力行使さえも行った集団でした。
大アジア主義の実践
「玄洋社」は日本国内に留まらず「大アジア主義」を標榜してアジア各国への支援行動も実施いました。
具体的には、中国における孫文、李氏朝鮮における金玉均、インドのラース・ビハーリー・ボースなどへの活動の支援
です。
これらの活動は戦後、国粋主義的な右翼団体というレッテルだけでは収まらない、当時の日本という国さえ超越して独自にアジア全体の独立を念頭に置いた壮大なものでした。
更に、1901年(明治34年)に玄洋社の海外での工作を担当した「黒龍会」が発足した後は、より具体的な活動が実施されました。孫文の辛亥革命の支援として、多くの構成員らが直接の戦闘に参加し清の政府軍や、その後の軍閥と戦いました。
また日露戦争においてロシア国内での革命勢力を喚起する工作を担当した陸軍軍人・明石元二郎も玄洋社の社員だったことが伝えられています。
大隈重信 襲撃事件
「玄洋社」が国内で関与した代表的な事件として、1889年(明治22年)に発生した大隈重信に対する襲撃事件があ
ります。
この事件は外務大臣を務めていた大隈が、幕末に締結させられていた列強各国との不平等条約の改訂を企図したものの、その改訂案が対象国にむしろ阿った内容であったことから、世論も強い反発を示していました。
しかし、大隈はその案で改訂をしようと強行実施を図ったため、玄洋社社員の来島恒喜が爆弾を用いた襲撃を行い、自らは自刃して果てたという事件でした。
大隈は一命は取り留めたものの右足を失う重傷を負い、政府は条約の改訂を諦め、大隈も辞職に追い込まれて条約改定は回避されることになりました。
現在の感覚で言えば純然たるテロ行為ですが、国に不利益な行為には実力行使も辞さない「玄洋社」の神髄を見せた事件でもありました。
日本一の豪傑 頭山満
明治の頃に某雑誌が、当時の世における読者の投票による人気投票の企画を実施したことがありました。
その中で頭山は日本で一番の豪傑として選出されたと伝えられています。因みに政治家では大隈重信が一位に選ばれ、経営者では渋沢栄一が一位に選ばれました。
テロを実施した側とされた側とはいえ、その当時の世ではそれぞれが、剛毅な人物としての一定の評価を受けていたことを偲ばせる逸話となっています。
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