人物(作家)

杉田玄白は実はオランダ語ができなかった【解体新書の翻訳者】

玄白と解体新書

杉田玄白は実はオランダ語ができなかった【解体新書の翻訳者】

杉田玄白(すぎたげんぱく)は江戸時代中期の蘭方医であり、歴史の教科書にも「解体新書」を著したことで登場する知名度の高い人物です。

あまりにも有名な「解体新書」ですが、これはオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を日本語へと翻訳したものでした。

しかし実はこの翻訳作業の中核を担ったのは玄白ではなく、前野良沢であったと言われています。

杉田玄白は実はオランダ語ができなかった【解体新書の翻訳者】

※前野良沢(前野蘭化)

翻訳を手掛けた程の蘭方医なので、玄白もオランダ語に精通していたと思われるかもしれませんが、むしろ不得手でオランダ語の読解力に関しては良沢の手によるところが大きいものでした。

そうした中、不完全な翻訳で「解体新書」を刊行することを良沢は嫌ったものの、玄白らが刊行を強行したことから、玄白の名のみが表に出る事になったという経緯がありました。

オランダ語の習得を断念

玄白は享保18年(1733年)に、若狭・小浜藩で祖父の代から藩医を務めた杉田家に生を受けました。

玄白自身も20歳となった宝暦2年(1752年)に同藩医を経て、続く宝暦7年(1757年)に江戸の日本橋で開業医も始めました。

玄白と蘭学の出会いは遅く、この江戸での開業以降に蘭学者らと交流したことからから始まりました。

玄白はその後、明和2年(1765年)に小浜藩の奥医師に任じられ、当時のオランダ商館長・通訳らが江戸を訪問した際に、平賀源内らを連れだって一行を訪ねました。
そのときに通訳であった西善三郎からオランダ語を習得することの難しさを聞き、玄白自身はその習得に見切りをつけることになりました。

前野良沢の反対

玄白は明和8年(1771年)、交流のあった中川淳庵が借りていた医学書「ターヘル・アナトミア」を閲覧する機会を得ました。

前述のように玄白自身ははオランダ語を理解できなかったのですが、掲載されていた精緻な人体の解剖図に関心を持ち、藩医として申請を行ってその医学書を購入しました。

奇しくも長崎で同じくこの書を入手した前野良沢らと死体の解剖に立ち会い、先の解剖図の正確さをその目で確認、さらにその正確さに驚嘆したと言われています。

この経験から玄白、良沢、淳庵らはその書を翻訳することを決意しました。

杉田玄白は実はオランダ語ができなかった【解体新書の翻訳者】

なんと4年もの歳月を要しながら、安永3年(1774年)に「解体新書」として世に出すことになりました。同書は後に徳川将軍家にも献上されました。

しかしこの時、翻訳の中核を担った良沢は不完全な内容で「解体新書」を上梓することを良しとせず、このことから玄白らと中互いとなり、刊行者の中に名前が挙げらなかったと言われています。

結果、以後良沢と玄白の二人の関係は悪化してしまいました。

解体新書の与えた影響

玄白は自身がオランダ語に堪能でなかったことで逆に細かい事は抜きにして、この医学書を少しでも早く、多くの日本人医師たちに広めたいという気持ちが強かったものと思われます。

この「解体新書」の翻訳をきっかけとして、その後様々なオランダ語の学術書が日本語へと訳されることとなりました。

それらは当時のヨーロッパの先進的な天文学、物理学、化学などの複数の分野に及びました。
その潮流は後の明治維新においても開明的な君主・藩によって時代を進めていく原動力となりました。

国学も勃興した江戸中期

※本居宣長

しかし歴史的に興味深いのはこうした西洋文明・科学のみではなく、その同じ時代に日本古来の探求を行う本居宣長に始まる国学も創始されたという点です。

太平の時代を迎えていた江戸中期にあって、知識階級となっていた武士たちは、足元を見つめる学問をも見失わなかったと言えるのではないでしょうか。

また学問上では共通点がない蘭学と国学ではありつつも、これらには構造的な類似点も見出せました。

それはどちらの学問においても、その時代前提として考えられていた幕藩制度の垣根を超越した「日本」という視点を認識させたという点でした。

関連記事:
寛政の改革後の徳川家斉【化政文化】

swm459

投稿者の記事一覧

学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 江戸を席捲した九州の怪物剣豪・大石進 「天保の三剣豪」
  2. 「生類憐みの令」は本当に悪法だったのか?徳川綱吉の真意を探る[後…
  3. 千姫の波乱に満ちた生涯(德川家康の孫娘、豊臣秀頼の妻)
  4. 【近代イギリス長編小説の頂点】ジェーン・オースティンの生涯
  5. 徳川秀忠は本当に凡庸だったのか? 【徳川2代目将軍】
  6. 教科書に載らない大奥のスキャンダル ~禁断の「智泉院事件」とは
  7. 高橋是清 ~日本のケインズと呼ばれた金融の天才【無一文エピソード…
  8. 徳川埋蔵金伝説を生んだ幕臣・小栗忠順(おぐりただまさ)

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

コーヒー文化はどのように広がっていったのか 【コーヒーハウスは女人禁制だった】

世界中で多くの人々から愛飲されているコーヒー日常生活の中でも仕事の中でも様々な場面で…

家系ラーメンについて調べてみた 【吉村家 家系ラーメンの起源】

撮影:gunny日本でのラーメン人気は衰えることなく、毎年進化してゆくばかりである。飲食…

『天才か狂人か?』曹操も手を焼いた三国志最凶の暴言王とは

三国志屈指の個性派三国志には数多くの「個性派」が登場する。「個性派」という言葉の定義は難…

本当は危険な地名 【危ない漢字が天災のリスクを知らせる】

自然災害に備える!本当は危険な地名地震大国として認識されている国、日本。外国人が驚くよう…

【皇室史上もっとも衝撃的な事件】 宇佐八幡宮神託事件とは ~皇室を救った和気清麻呂

764年、藤原仲麻呂の乱を抑えた孝謙太上天皇は、第47代・淳仁(じゅんにん)天皇が藤原仲麻呂と関係が…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP