一代でトルコを近代化させた独裁者 ムスタファ・ケマル
独裁者といえばまず思い浮かぶのがヒトラーやスターリンのような粛清や大量虐殺などの負のイメージであろう。
昔も今も独裁者といえば国を破滅させるきっかけの一つになっていたが、世界には独裁者のお陰で発展した国もあった。そんな独裁者が君臨していたのが今でもたくさんの観光客が訪れる中東とヨーロッパの狭間にある国トルコ。今回はそんなトルコを近代化させたムスタファ・ケマルについて見ていこうと思う。
ムスタファケマルの生い立ち
ムスタファ・ケマルは1881年にオスマン帝国にて生まれる。ちなみに名前のムスタファは『選ばれた者』ケマルは『完全なる』という意味である。彼はその後陸軍士官学校に入学。軍人として徐々にキャリアを積み上げていき、1905年には陸軍大学を大尉で卒業した。
そんな彼であったが、彼が陸軍を卒業した時のオスマン帝国は色々難局に悩まされていた。例えば1911年にイタリアがリビアに侵攻。さらに翌年には第一次バルカン戦争が起こりその両方の戦いでオスマン帝国は敗北を喫してしまう。
この頃になると瀕死の病人と揶揄されたオスマン帝国は様々な国から侵攻を受けるようになり、国は崩壊のピンチに追い込まれてしまう。その中で彼は参謀として作戦を練っていたのだが、1915年、オスマン帝国が中央同盟国側として第一次世界大戦に参戦すると彼に転機が訪れるようになる。
参戦した直後イギリス・フランスなどの連合軍がガリポリというところで上陸作戦を行うと彼は軍を率いて英仏軍の侵攻を阻止。さらに撤退まで追い込み特にイギリス軍に多大な損害を与えた。この功績にてムスタファ・ケマルはオスマン帝国における軍人の称号パシャを与えられ、『アナファルタラルの英雄』と評されるようになったのである。
余談だが、このガリポリの戦いの失敗によりイギリスでは首相が辞任。さらに当時海軍大臣のウィンストン・チャーチルが一時期失脚に追い込まれるなど国内で大打撃を受けた。
トルコ共和国の建国
1918年、第一次世界大戦においてオスマン帝国の敗北が確定的なものになると、ムスタファ・ケマルはオスマン帝国領内の各地にいた帝国軍を掻き集め連合国のオスマン帝国分割に抵抗した『アナトリア権利擁護委員会』を結成した。
ムスタファ・ケマルは連合国が占領していたイスタンブールを占領。アンカラにて大国民議会を開きオスマン帝国に変わる正統な政府を主張して彼をリーダーとするアンカラ政府が成立した。
また、ギリシャがオスマン帝国の降伏のどさくさに紛れてイズミルを占領すると、軍を反転させてこの地を奪還。これを見た連合国はトルコの分割案を撤廃してローザンヌ条約を締結。アナトリア半島以外の領土を放棄することとなったが賠償金は無しとなり、さらにトルコの主権を獲得した。さらに、この流れの中でオスマン帝国のスルタン制を廃止することが議会で可決され、オスマン帝国の皇族を全員国外に追放し、オスマン帝国は800年の長い歴史に幕を閉じた。
そして1923年にムスタファ・ケマルはトルコ共和国の建国を宣言。トルコ共和国の歴史がスタートしたのである。
ムスタファ・ケマルの改革
1924年、ムスタファ・ケマルが大統領に就任すると、第一次世界大戦で崩壊しかけていたトルコを立て直すために矢継ぎ早に改革を行なっていく。
特に大きかったのはトルコ語をアラビア文字からラテン文字に転換したことと、政教分離であろう。
彼はこのままイスラム教に依存したままでは発展は望めないと判断し、1928年に憲法からイスラム教の国教とする条文を削除。さらにカリフ制も廃止して脱イスラム化を実現。代わりに西洋の文化を手本とした近代化を進めていった。
さらにムスタファ・ケマルはこれまでトルコには無かった姓を創始する。ちなみに、この時にトルコ議会からムスタファ・ケマルはアタチュルク(トルコの父)という姓を送られた。
ムスタファ・ケマルの死とその後
こうしてトルコの近代化を推進していったムスタファ・ケマル・アタチュルクであったが、そんな彼も寿命には勝てなかった。
彼はイスラム教で禁止されていた酒を飲むことが大好きで毎日浴びるように飲んでいた。それが祟ったのか1938年にムスタファ・ケマルはイスタンブールで死去。死因は肝硬変とされ、酒の飲み過ぎとあまりにもの過労が原因とされた。
しかし、トルコの運のいいところは彼が亡くなっても後継者のイスメト・イノニュも有能であり、第二次世界大戦を中立のまま乗り切った事もトルコの成長に繋がっていった。
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